東日本大震災とXDDPについて

(2011/4/1 掲載)


はじめに

 今回の東日本大震災に遭われた方々には、心からお見舞い申し上げます.同時に,一日でも早く東北地方が復興することを願っています.そして私でできる支援を進めて行きたいと考えています.



私と地震

 3月11日の巨大地震が発生したとき,私は上田(長野県)で講演中でした.建物はゆっくり,そして大きく揺れましたが身の危険を感じる程ではありませんでした.ただ船酔いのような気分になっただけです.ケイタイによる直後のニュースで,岩手沖で大きな地震が発生したことを知りました.そしてその夜のTVのニュースで、阪神・淡路の大震災を思い出させるようなとんでもないことが起きたこと,我々が警戒していた東海沖と同じような地震が東北沖に先に起きてしまったということ、特に津波によって大きな被害がでていることなど、次々と新しい悲惨な映像が目の前のTVの画面を駆け巡ったのでした.

 私は,3月1日に仙台の市役所で派生開発(保守開発)に於ける要求仕様書のあり方をテーマに1日セミナーを実施しましたが,依頼が来たときは,3月1日の他に3月11日も提示していました.もし3月11日が選ばれていれば、私はそこで地震と遭遇して、ケガをしなかったとしても帰る手段をなくしていたでしょう.幸い,仙台でのセミナーは3月1日が選ばれたことで地震に遭遇することは免れました.

 そう思っていたところに、翌12日の早朝に新潟中越地方で震度6強の地震が発生し,上田のホテルで叩き起こされました.この時は大事には至らなかったのですが、頭をよぎったのは2008年6月の岩手・宮城内陸地震(M6.8)でした.あの時,私は水沢江刺のホテルで帰る用意を整えていました.そこで大きく揺さぶられたのです.とっさにドアをあけたものの立つことができず、開けたドアにしがみついていました,ホテルは「ガッタン」「ガッタン」と左右に大きく揺れ、どこまで揺れるか分からない中で,このホテルがいつ倒れるかと思ったし「ここで死ぬかも」と思ったのを思い出しました.まさに恐怖です.起震車とは違うのです.同じ水沢江刺のホテルには3週間前に泊まっています.このホテルは今回の地震で「閉鎖」されました.

 3年間で大きな地震に遭遇,あるいはあわや遭遇という状況の中で運良く免れてきました.そして2008年に岩手で地震に遭遇した後,地元の自治会で東海沖や関東直下型の地震や水害を想定した緊急放送システムを導入するためのプロジェクトに参加しました.自治会のレベルでこうした本格的な防災用の放送システムを導入しようというところは他にないと思います.その関係でいろいろと地震の情報を集めてきました.東海沖での地震の間隔が開いていることや、太平洋プレートとその周辺のプレートが活性化していることなどを知りました.スマトラやチリ,ニュージーランドなどの地震は関連しているという説もあります.そのような中で「東海ム東南海ム南海」の断層が連続して動くのではないか、その場合はM9クラスの地震になる可能性もあると考えるようになっていました.ところが起きたのは東北沖でした.3つの断層が連続して破壊したことやM9クラスの地震であったことなどは類似しています.まるで「次は東海だぞ」と予告されているような気がしました.


頑張るのは私たち

 今回の地震の後,多くの人から被害にあわれた東北地方の人たちに対して「頑張って」というメッセージが流れました.私も当初はその中の一人でした.何の疑いもなく「頑張って」と発していました.

 あるとき,Twitter 上で被害を受けた人から「“頑張って”と言わないでください.家も家族も何もかも失った私たちにどう頑張れというのでしょうか」というメッセージが流れました.このメッセージに私はたじろぎました.それまで何気なく(もちろん善意で)使っていた言葉が,被害を受けた人を傷つけていたことに気付かされたからです.そこから、今頑張るのは彼らではなく,今回地震の被害に遭わなかった我々の方ではないか,と考えるようになったのです.計画停電程度の影響であれば,またペットボトルに入った水の入手に少々困難を伴う程度であれば,「頑張る」ことはできます.

 確かに,復興のための資金の寄付や生活物資の支援,節電への協力などはしてきました.でも、それだけでいいのだろか、という思いが私の心を塞いでいた時期でもありました.それに運良く地震の直撃から逃れているのも、何か意味があるのだろうかと考えていました.そのとき,「“頑張って”と言わないでください」というメッセージが目に止まったのです.

 そこから考えをまとめるのに数日かかりました.「頑張るのは我々の方だ」と言う思いがまとまったのは3月24日の夜でした.翌日,博多で開催された「ES-Kyushu プロダクトライン推進部会(QPL)セミナー」の席で、最初にこの私の思いを披露しました.

阪神・淡路大震災のときとの違い

 1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災のときは、私は受託を生業とする一介のソフトウェア技術者でしかありませんでした.ちょうど,プロセスコンサルタントとして踏み出そうとしていたときですが、まだプロセスコンサルタントとしての実績もありませんでした.そのため1個人としての支援しかできませんでした.現地に飛んでのボランティア活動まではできませんでした.私は大阪の出身ですし、汎用機時代は大阪・神戸を中心に仕事をしていましたので.自分が歩いていた神戸が燃える様子は辛かったです.でも自分の生活も守らなければなりまません.

 でも、あれから16年が経過し,今の私には「XDDP」や「USDM」といったソフトウェアの開発を効果的に進める「方法」を持っています.その後コンサルティングの実績を背景に「USDM」や「XDDP」の本を出版し、日本のソフトウェア開発の領域に働きかける手段を手に入れました.

 そして、2010年の2月に「派生開発推進協議会(AFFORDD)を設立し,「XDDP」などの普及に取りかかっており、昨年6月の派生開発カンファレンスを実施したあと,いろんなところで開催されるセミナーやカンファレンスに呼んでいただいて派生開発に効果的なアプローチとしての「XDDP」の紹介講演を繰り返してきました.そして何よりも今の私には支援してくれる仲間がいる.この状況において、明らかに私のできることは16年前と違っているのです.このような状況の中で,今回の大震災が起きたわけです.

何かのメッセージか?

 今回,私自身は運良く巨大地震を免れてきましたが、上田から名古屋回りで6時間かけて帰ってくるなかで、ここに自分自身に対する何かのメッセージがあるのだろうかと考えていました.20数年前に王陽明の「暁鐘」という詩にであったとき、「日本のソフト産業を何とかしなくちゃ」と王陽明と約束しました(この辺りのことは「わがSE人生に一片の悔い無し」に書きました).でもそのときの私は一介の受託技術者からシステムコンサルタントに踏み出したときであり、日本のソフト産業に対して働きかける何の力も方法も持っていませんでした.ただ、自分自身の仕事がうまくできているソフトウエアエンジニアというだけでした.

 でも今の私の置かれている状況は16年前とは大きく異なっています.こうして整理していく中で,私の役割が「そこ」にあると考えるようになりました.「これを使って立て直せ」「王陽明との約束を果たせ」というメッセージなのかと.

 私の好きな言葉に「時節到来」という言葉あります.いろいろな状況が「そこ」に向かっている.踏み出すのは「今だ」という意味です.

日本の生産拠点を守ろう

 東北地方はもともと電機や精密機械の生産拠点でもあります.また自動車産業にとっても主要部品を生産していたりして重要な地域です.今回の地震で東北地方の多くの企業や工場がダメージを受け、部品や製品を生産できなくなってしまいました.自動車メーカーも元のレベルに戻すのに2ヶ月もかかると言っています.それは自社の組み立てラインの損傷だけでなく、部品の供給も滞っているからでしょう.

 このように今回の大震災によって多くのセットメーカーは部品の供給が止まったことで減産あるいは生産休止に追い込まれています.そしてこの問題はGEやApple など海外の主要企業にも波及しています.今回地震の被害を受けた地域の企業から部品を調達してきた企業では,止むなく他の企業から部品の確保に走ったりしています.それに伴って、東北地方の企業が持っていた市場は一時的に失うことになるかもしれません.

 一般にこのような調達が困難な状況の中での選択肢は
  1)被害が軽微な工場の場合は早急に立ち上げてもらう
  2)西日本の工場に調達先をシフトする
  3)海外の企業から調達する
  4)海外に生産拠点そのものを移す
というものです.

 もちろん,日本の国内にある企業で代わってくれればよいのですが、部品によっては直ぐには代替品を用意できない可能性もあります.発注側の企業も存続させなければならないので、海外の企業からの調達に切り替えるかもしれません.それはやむを得ないことです.でも、いったん海外の企業に取って代わられたものであっても、日本の企業が立ち上がったとき、日本企業からの調達に戻してもらえるようになればよいのです.もちろん,一度別のルートが開拓されたあとで元に戻すのは容易でないことは認識しています.

 多くの人は神戸港の利用状況が元に戻らなかったことを例に挙げるでしょうが、神戸港の場合,扱えるコンテナの大きさや港湾の荷役作業の制約,利用料金などの点で明らかに競争上有利な状況が作れなかったと認識しています.

 今回は神戸の轍を踏まなければいいのです.そのためには品質面でもコストや納期の面でも「明らかに日本の企業が作ったものがよい」「東北の○○という企業の部品が世界のどこよりも良い」という状況を作ることです.この部品を使ったほうが機能性,安全性の面で明らかに優れている,その上コストも安い,となれば戻ってこざるを得ないはずです.

 そのためにも,今回地震の被害を受けなかった企業が,今まで以上に品質を上げ,生産性を上げ,コストを下げることで,市場を取り戻すことはできると信じています.コンテナのような法的制約はほとんどありません.もしそのような制約があるなら変えれば良いのです.そうして時間を稼いでいる間に今回被害を受けた東北の企業が立ち上がってくれば,以前に増して日本企業の市場を大きくすることができるし、それこそ「M9.0」が日本の企業を強くしたと言えるのです.今日本の選択肢はこれしかありません.だから今「頑張る」のは地震の被害を直接受けていない我々なのです.

東海沖地震に備える

 もともと私たちはこの種の巨大地震として「東海沖」を想定しており、警戒してきました.その中で最近では「東海沖」に続いて「東南海」と「南海」がつながって地震が起きる可能性が浮上しています.つまり3つの断層が連動して動く可能性があるというのです.その際の想定はM8.7で神奈川から宮崎まで広い範囲で、震度6弱以上でかつ10m超の津波が想定されています.

 ところが,この想定と殆ど同じレベルの巨大地震が東北沖で起きてしまいました.そうして、この地域の何もかもを壊してしまい、経済活動が止まってしまいました.東北地方だけでなく日本中の多くの企業がその影響を受けて生産活動を低下させています.ヨーグルトや牛乳も「紙パック」という「安い部品」が作れないことで生産が止まってしまい、スーパーの棚はずっとカラッポの状態です.当然,原料の牛乳の買い付けも止まっているのではないかと思われます.

 三陸沖で想定されていた巨大地震の30年以内の発生確率は、三陸沖=90%、宮城沖=99%、となっていましたが、これが同時に起きてしまいました.これに対して「東海ム東南海ム南海」の方の30年以内に巨大地震が発生する確率は、東海=87%、東南海=60%、南海=50%、と想定されています(政府の公式予想と少しずれていますが政府の情報が県単位になっているので,こちらの断層単位の情報を使いました).これによると、今回地震が起きた地域は、まさに「直ぐにも起きますよ」という確率になっていたのですが、あまり注意を払っていませんでした.

 東海沖の方は三陸沖と比べて確率が少し低いからまだ安心というわけにはいきません.「50%」も「90%」もそんなに違いはないのです.しかも今回の地震によって、東海沖もほとんど同じようなパターンで起きる可能性が高くなったでしょうし、「M8.7」という当初の想定も越えるものと思われます.今回の地震で東北全体が東に大きく動いたようです.岩手の宮古付近ではGPSの測量で5m東に動いたということですので、日本列島の真ん中にある大地溝帯をはさんでストレスがかかったことも考えられます.

 東北地方の復興を考えるとき,この「東海ム東南海ム南海」の地震の発生も想定しておく必要があります.つまり,今回の地震で慌てて西の方に生産拠点を移したとしても、今度は「東海ム東南海ム南海」の連携型地震に見舞われる可能性もあるのです.むしろ,今回の地震が巨大だったことで、東北地方ではしばらくは今回のような巨大地震が起きない可能性もでてきます.その意味でも,今回の大地震で東北地方から逃げるのではなく、日本列島の西側と連携して東北地方を立て直すほうが長期的にも有効ではないかと考えています.一時避難的に西の方で対応したとしても,東北を捨てるのは逆にリスクが大きくなる可能性があるのです.

 今,日本列島の中央から西の方にある企業も,次にくる「東海ム東南海ム南海」の連動型地震に備えて,東北地方の復興を機にそこに足場を築いておくのも良い考えだと思います.

東北地方を立て直せ

 「東海ム東南海ム南海」の連動型地震がいつ起きるか分かりません.先に挙げた確率では1年以内に起きてもおかしくないというレベルです.それだけに東北地方の復興を急がなければなりません.いちばん避けたいのは,東北地方が復興する前に「東海ム東南海ム南海」の連動型地震に見舞われることです.これが最悪の事態です.もちろん地震は人間の手で遅らせることはできません.我々にできることは間に合うと信じて復興を急ぐことです.とはいえ復興はそう簡単ではありません.それでも3年ぐらいの時間があれば,東北地方の産業を立て直すことはできるのではないかと思っています.

 例えば漁業は比較的早く立ち直るとみています。海の浄化作用は非常に早いものです.湾内の海底を掃除して港湾設備を整備し、漁船を確保すれば稼働できます.東京という巨大市場は失われていません.もっとも漁師も今までのように個人レベルでは経済的に新しい舟を持つことはできないでしょうから、漁業会社が経営する方法であれば何とかなります.ちょうど良い.従来の個人経営+漁業組合という形態は今回の地震で終りにすればよいでしょう.「漁業」という産業に転換する良い機会と捉えればよいのです.

 農業は少々厄介かもしれません,農地としていた箇所の多くは地盤沈下によって海水に浸かっています.このまま海水を排除しただけでは塩害が残るでしょうし、満潮時には海水が地下から上がってくる可能性もあり,元のような農地にはならないでしょう.土を入れ替えたり、かさ上げしたりする必要があるかもしれません.農業も個人での立て直しは困難でしょう,この際土地を集約して個人営農から企業あるいは組合形式に転換することで,新たに若い人の雇用を生み出せるチャンスです.

 町並みの再構築は、今回の津波の動きが動画で撮影されているので大いに参考になるでしょう.映像を見ていると,海岸付近では「押し倒す力」が働いていますが,陸上に上がったあとは「押し流す力」に変わっているように見えます.「押し倒す力」を土地の高さを変えて手前で和らげる工夫をしたり,堅牢な建物の角度を工夫したり,ある程度の高さを確保することで避難場所としても活用できます.一般の住宅でも「袖壁」をうまく配置すれば「押し流す力」を逸らすことができるようです.実際,九十九里浜で海側にコンクリートの「袖壁」を設けていた住宅が流出しないで残っています.この家の周囲の家屋は殆ど流出しています.もちろん,建物の内部は水で流されていますが、構造に対する損傷は殆どないことが確認できていますので再建は早く進みます. (http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20110324/546593/)

 いわゆる製造業はそれぞれの形態によって難しさが違ってきますが,街全体を作り替える中で工場やオフィスの配置を考えることになるでしょう.製造工場の場合は建物だけが残ってもしょうがないのと、高層化しにくいので,ダメージを受けにくい場所を選ぶことになるでしょう.

ソフトウェアの開発効率を見直す機会に

  今,この状況にあって求められるのは,限られた資金や人を効果的に使うことであり,ムダな作業を見直すことです.従来から製造現場ではこうした考え方が浸透していますが、それでも発想を変えればまた新しい方法の発見もあるでしょう.それが「ヒト」の素晴らしいところです.

 一方,ソフトウェア開発の世界では,まだまだ手戻り作業が頻発しています.原因の多くは要求仕様の不出来です.ここには表現の問題と要求の出所の問題があります.表現の方はたとえば「USDM」で相当カバーできますし,「USDM」での階層構造そのものがいろいろな工夫と組み合わせる余地をもっています.これに対して要求の出所の問題は、要求の発信者に対する教育が必要になりますが、今回の大震災をそのきっかけに使うことができます.

 派生開発(保守開発を含む概念)でのアプローチのまずさもソフトウェア開発の手戻りの大きな原因になっています.ただし、このほうは要求仕様と違って「問題」と認識していない可能性もあります.そこでは30年前からやってきた「型」に沿って作業をしているだけで、その「型」そのものに対して問題とは認識していないことが多く、そのため他に効率のよい「型」があるとは考えられないのです.「派生開発カンファレンス」を開催することの意味は,こうした組織に効果的な「型」があることに気付いてもらうことにあります.

 新規開発の方はいろいろな方法が提案されているのですが、派生開発は稼働しているベースのソースコードに対する機能追加や変更だけということで力任せになっています.これしかないと思い込んでいるのですが、これも
  o 「要求仕様書」とは何か?
  o 「要求仕様書」はどうあれば良いのか?
というところを見直せば新しい発想がでてくるのです.でもその部分が「30年」の慣習で塞がっているのです.まるでワインのコルク栓が抜けないのと同じように.組織の中で30年間塞いだままにしてきたため,この「蓋」が抜けないのです.

 「組織標準」に対する間違った考え方や,さらには「CMMI」などに対する間違った取り組み方も,その根源にあるのは、過去の慣習の「蓋」が塞がった状態から発しています.開発組織がこの「蓋」の上に立っている限り「XDDP」に取り組むことは難しいと思われます.

 とはいっても、今は「非常時」です.非常時という栓抜きが、長い間塞がったままの「蓋」を開ける絶好の道具になり得るはずです.いままで100の工数をかけていた作業をどうすれば70でできるか、いや50でできるようにするにはどうすればよいのか.これを考える絶好の機会です.そこには「できない言い訳」など入る余地もありません.「どうすればできるか」の工夫しか必要としません.これこそ「エンジニア」の仕事です.

 「ものは考え様」という言葉があります.その事態が逆に自分の「力」になるように見方,考え方を変えればよいということです.あるいは「転んでもタダ起きない」という言葉もあります.今回の大震災で多くの人が命を失いました.そこで生き残った人も多くのものを失いました.日本全体にとっても大きな損失です.それは不幸なことではありますが、そこで沈んでいても何も始まりません.ましてや被害を受けていない我々は,「3.11」以前のままで良いはずはないのです.

 今回の大震災に対して、日本中,いや世界中から義援金や物資の支援が届いています.それは「今」必要な支援であり,東北地方が立ち上がるために必要な支援です.それ以外にできることは何か.それは我々が日本を強くすることです.日本の産業を今回の大震災の前よりも強くすることです.

 経済の津波に飲み込まれないように日本の産業の基盤を底上げすることです.今日すべての産業に共通するのは「ソフトウェア」です.分野が違ってもソフトウェアは不可欠になっており,その開発効率の善し悪しはそれぞれの産業における競争力となります.このことは昨年10月に亡くなったW.ハンフリー氏が「Wining with Software(邦題:ソフトウェアでビジネスに勝つ)」で述べているところです.

XDDPやUSDMが役に立つ

 そして今日のソフトウェア開発のほとんどが「派生開発(保守開発)」です.また「プロダクトライン(SPL/SPLE)」も一種の派生開発です(SPLとXDDPの関係については2010年11月のJASA ETセミナーと2011年3月のES-Kyushu プロダクトライン推進部会(QPL)セミナーで議論されました).この派生開発を効率的に取り組むことが製品の競争力につながってきます.

 目の前の開発案件のほとんどが「派生開発」であるという状況においては、「派生開発」に特化した開発アプローチである「XDDP」が活用できます.機能が類似している製品にあっては、使用上でバグがないことはもちろんですが、製品の値段や、市場に投入する時期が大きな競争力となります.それによって何回かのバージョンアップでシェアをひっくり返すこともできるのです.

 現時点で頻発するバグで混乱している組織であっても,またベースの公式文書がほとんど存在せず,頼りになるのはソースコードだけという状況にあっても「XDDP」に取り組むことはできます.「USDM」や「PFD」への取り組みは少し後回しにしても,まずは「XDDP」で現状を少しでも良い方向に向けるという選択もありです.そのあと続けて「USDM」で要求仕様(変更も含めて)を安定させると同時に,新しい機能に関しては部分的であっても「公式の機能仕様書」を確保していけば、状況はさらに改善します.悪化することはありません.XDDPはソースコードの劣化を防ぐ効果も得られます.このような非常事態にあっては大事な資産を長持ちさせることも重要です.最終的には,「PFD」に取り組むことで、要求の変化に対してプロセスを自在に対応する能力を手に入れれば,それだけQCDの要求を達成する確率が高くなります.ここまでくれば,コチコチに固まった慣習の「蓋」は消えていますので、さらに競争力は増すはずです.そして「SPL」にステップアップする階段も容易に手に入ります.さらに,ここまでの取り組みの副産物として、「組織標準」に対する認識や「CMMI」への取り組み方も変わってくると思っています.

 「XDDP」はそこまで展開できる方法なのです.そして長く使い続けることのできる方法なのです.もう一つ重要なポイントは海外にない考え方だというのも今の日本が置かれている状況にぴったりなのです.実際,アジアのある国で現状の派生開発の様子を見る機会がありました.彼らは基本的にはソフトウェアエンジニアリングを履修した人たちです.でもそこでは日本の多くの派生開発の現場でやっていることと何ら変わりません.そして彼らは「XDDP」に対しては大学で履修しなかったこととして受け入れませんでした.この状況は、大地震から立ち直ろうという日本の今の状況には好都合です.

 日本の産業を立て直すには,QCDにおいて他の追随を許さないレベル、という状態を手に入れることです.鉱物資源を持たない日本が世界に位置していくには「もの作り」を失うわけにはいきません.90年代からのグローバル化の流れの中で,コストを追う経営方針の影響で生産基地としての日本の基盤は弱体化してきました.コストを追って彷徨う行動は,一方では止まることなく「適地」を求めて彷徨い続けるでしょうが,ある領域では早晩行き詰まります.単にコストを求めての彷徨は誰でもできる選択肢の一つであり競争力としては確たるものにはなりません.安定した競争力としては「QCDにおいて他の追随を許さない」という状態を目指すべきです.

更なる向上を

 「XDDP」の普及活動は,1995年から取り組んできました(当時は「XDDP」と呼んでいませんでした)し,本でも詳しく書いてありますのでXDDPに取り組めている企業・組織は少なくないと思っています.そのような企業・組織であっても,「他の追随を許さない」ために,さらにQCDの改善を目指して欲しいのです.

 単に納期に合っているというだけでは、そこで行われているプロセスが競争力を持つ状態(レベル)なのかどうかを判断できません.納期は交渉で決まることですし、多くの場合,「前例」や「前回の実績」が使われることが多いものです.交渉力に長けた人がいれば現場の人たちにとって有利に設定されるでしょう.そのため,単に納期を満たしているという状況で出来映えを判断したのでは,競争力の点で判断を間違えてしまいます.

 自分たちの出来具合を判断するためには「数字」を取ることが必要です.できれば「率」にすることです.
  o 品質を表す数字
  o 生産性を表す数字
バグの発生率もQC部門でのデータであれば「0.1」を目指すぐらいであって欲しいです.たしかに「むやみにバグを減らすことに必死になることはない,それよりも他に取り組むことがある」という人もいることは私も認識しています.でも,品質を手に入れることは簡単です.必要なプロセスを必要な時点で実行すればよいだけです.本来,「Quality is Free」(F.クロスビー)なのです.

 もちろん、これらの数字はテスト前の工程に過剰に工数を投入することで作為的に作り出すことができます.それはこの数字の使い方を間違えている組織で起きることです.

 こうした間違って作り出すことを回避するために,投入工数を分母にした「コード行数」の生産性データと品質データを組み合わせる必要があります.さらに「コード行数」の生産性データも実装工程の生産性データを合わせて収集する方法もあります.

 全行程に対する生産性と実装工程に対する生産性の両方を使うことで,作為的に数字を作ることが無意味になり,同時に,そこで実施された開発アプローチの効果を見ることもできます.いずれにしても,高い生産性をベースにして、バグ発生率を大幅に引き下げることです.

 またこのような「率」の形になった数字は,同じような分野の他の企業と比べることができます.納期の達成率とは違います.そのためカンファレンスや論文などの形で公表されることで競い合うことができます(もちろん,競争上隠されたりオブラートに包んだ形で公表される可能性がありますが).そうして企業・組織を越えてうまくいく方法を共有し,日本の産業の底上げに活用すればよいのです.

 アジアの国でも派生開発においては、手当たり次第にソースコードを変更するという日本の多くの開発組織で行われているプロセスと殆ど変わらないので、今のうちに日本の企業が総力をあげてXDDPに取り組むことで競争上優位に立てます.その意味でも,今回の大震災を生まれ変わる「動機」として活かすことが重要なのです.

 今回の大地震の被害を共有し,彼らの復興を支援し,そうして我々が頑張るのです.

 2011年4月
 「硬派のホームページ」主催者より


◆◆◆ これまでの巻頭書 ◆◆◆

2010/01〜  「派生開発 カンファレンス2010」の開催に関連して

2007/01〜  21世紀の品質保証体制の構想

2006/01〜  生産性を30%UPしよう

2004/09〜  崩れ始めた日本語の“万里の長城

2003/01〜  仕事を楽しくなるようにしよう

2002/07〜  ソフト産業の空洞化に対抗しよう

2002/01〜  競争力をつけよ

2001/01〜  21世紀にどう対応するか

2000/08〜  “先送り”のツケ

2000/01〜  21世紀への準備

1999/03〜  本当の問題

1999/01〜  1999年のはじめに

1998/10〜  これから始まること

1998/05〜  金融ビッグバンを迎えて

1998/01〜  1998年を迎えて