21世紀にどう対応するか

(2001/1/3 掲載)



 いよいよ21世紀が始まった。21世紀を前にしてアメリカの大統領が1ヶ月も決まらなかったというのも、実に象徴的である。冷戦の終結からすでに10年を経過して、世界の警察としてのアメリカの役割が、今以上に後退するだろう。それに歩調を合わせるかのように、ヨルダン川付近がきな臭くなってきた。ロシアは、ばらけてしまった国民の意識をまとめるために、この機会を利用するだろう。

 中米の一部の国では、自国の通貨を放棄して米ドルを通貨とするという「実験」が、混乱するリスクを抱えながらスタートした。アフリカは、相変わらず先進国の武器の消費先となっている。アジアも、欧米の経済の波に、今後も大きく揺さぶられながらも学習していくだろう。ただその中で、先行グループとインドネシアなどの対応の遅れた国との間でのすれ違いを抱えていくことだろうし、中国は、そのような状況を横目で見ながら、50年という時間の中で世界を制覇することを狙って行動してくるだろう。国によって経済力の格差の拡大も不安定要因である。総じて、日本を取り巻く環境は、今まで以上に不安定な状態である。

 日本は、80年後半から抱え込んだ膨大なバブルの清算が終わっていない。熊谷組お債券放棄に堰を切ったかたちで、ゼネコンの債権放棄要請が続くだろうし、アメリカの株価調整の影響を受けることで、我が国のグレーゾーン債券の悪化が表面化するだろう。このため、金融機関(特に銀行)が、まだまだ本来の機能を取り戻せない。証券市場も、戦前の悪しき慣行を残したままである。そして、戦後日本を支えてきた製造業が、時代の変化と数度の円高によって、その大部分はアジアに場を移してしまっている。経営も現状を維持するのみで、優れた経営者を作ってこなかったことも、21世紀に不安を抱かせる。

 そして、最大の問題は、教育の世界が全くの手付かずの状態であるということである。「17歳」の行動は、今、学校で教えられている内容が、自分たちの将来や人生にとって、どのような意味があるのかという疑問でもある。いつの時代でも、この世代は時代を察知している。だが、大人が彼らの不安にまったく答えていないし、その大人も、時代から取り残されているのでは説得力がない。もちろん、倫理や哲学など時代を越えたテーマもあって、何もかも時代に合わせるという必要はない。だが、教え方も含めて、「学校」のシステムそのものがあまりにも硬直化してしまっている。硬直したシステムは、既得権者にとっては実に居心地がよいのである。

 硬直化しているのは学校だけではない。「組織」と呼べるものが、ほとんど硬直化してしまっている。何10年とそのやり方を続けている。当時はそれで良かったのかも知れない。だが、今日、必ずしも効果を上げていないにもかかわらず、「それ」を見ようとしない。国会の投票のやり方など、恥ずかしくて見ておれない。彼らは、それをなんとも思っていないのだろうか。こうして、多くの組織では、なぜそうするのかを問うことなく、同じやり方を繰り返してきた。それが、今日の日本の停滞を招いている。

戦後の清算を忌避したツケが

 アジアの復興は、当然日本に対してもそれなりの役割を求めてくる。だが、ここで50年前に太平洋戦争の敗戦の総括を避けてきたことが、21世紀のアジアに於ける日本の役割をいびつなものにしてしまうだろう。ドイツは、戦後にいち早く総括した。戦争の原因を明らかにし、2度(3度)と戦争を引き起こさないような仕組みを作った。その前提が無ければ「EU」は成立しなかった。今、ドイツは、その最大の宿敵であったフランスとともに「EU」の統合に向かって進んでいる。ドイツの行動は、ヨーロッパ各国に承認されたのである。学校で使う歴史の教科書も各国が共同で執筆するというところまで進んでいる。

 それに対して、我が国は、ず〜とその問題に触れることを避けてきた。だからあの戦争がどうして起きてしまったのか、どうして防ぐ事が出来なかったのかということを、国として明らかにしていない。そのために、二度とあのような戦争を引き起こさない仕組みも出来ていない。政治と国民の距離も戦前と同じである。マスメディアも、あの時と同じように「大本営発表」をそのまま受け流しているだけである。

 このことが、21世紀にアジアでの経済圏を構築する際に、必ず障害となってしまうだろう。肝心なところで我が国に対する信頼の低さが表面化して、期待される役割を果たせない可能性がある。もちろん、日本に代わってその役を担おうという国が、その傷口をついてくることは容易に想像できる。

 それだけに、この問題を50年間放置してきたことが悔しい。今から議論しても、10年はかかるだろう。先輩達がきちんと決着をつけてこなかったために、後代の人たちの活躍の場を狭めてしまう結果になるのだ。少なくとも、今後のアジアに於いて経済活動を進めていく際には、このことを頭に置いておく必要があるだろう。

もう一度学び直せ

 80年代の半ば、日本の経済力は、アメリカをも震撼させた。当時、一部の経営者(経済人?)に「アメリカから学ぶものはもうない」とまで言わせたぐらいである。このあと、アメリカは必死になって日本を研究した。日本がなぜここまで強くなったのかを、徹底して研究した。「カイゼン」がアメリカで研究され、その一つの結果として「シックスシグマ」が生み出された。MIT からは、日本やヨーロッパの“強さ”を研究した結果として「Made in America」が発表された。そこには、現状分析から処方箋まで書かれていて、その後、アメリカ中が一斉にこれに取り掛かるのである。その結果が、90年代のアメリカ経済の長期にわたる脅威的な成長となって現れるのである。

 いま、日本は、アメリカやヨーロッパのもう一度学び直す必要がある。80年代の半ばまでの日本の強さはどこにあったのか。当時の為替レートが、経済発展にどのくらい貢献したのか。そして、そこから今日までの15年間、いったい何を間違えたのか。どのようなシステムが必要だったのか。そして、今からどうすれば良いのか。これらに対して早急に答えを出さなければならない。早急にである。

 だが、ここで問題がある。それは、日本には、「MIT」のような分析能力をもった機関があるのだろうかということである。政府のひも付き資金を使わずに出来る研究機関が必要だ。それも、抽象論を展開するのではなく、具体的に行動できるレベルに展開しなければならない。「前川レポート」よりも具体的でなければならない。

 もう一つの問題は、そのような研究が為されたとしても、現場が自発的にそれを積極的に取り込んだ活動が出来るかということである。政府のどこかの役所が取りまとめて旗を振らないと動かないというのがこれまでのパターンである。CMMだって、アメリカで公表されてから、はや10年も経っているというのにこの有り様である。我が国は、「反省」そのものが上手ではないという風土も無視できない。

ある日突然の参入も

 21世紀は、少なくともソフトウェア開発の世界では、世界中の優れた人たちや組織が参入してくる。インターネットの普及は、地理的な距離を無意味なものにしてしまう。アジアの国々の多くは、これまでは「発展途上国」として位置づけられてきて、先進国から遅れているとして扱われてきたが、情報産業への参入には、ほとんど支障はないことが判明している。とりあえず優秀な人たちを1万人規模で確保できれば、産業として形を作ることが出来る。

 もはや、ソフトウェア開発の分野は頭数ではないのである。ある水準のスキルを持つ人が100人規模で集まれば、相当なことが出来てしまう。それが情報産業であり、これまでの産業と違うところである。そして情報産業のもう一つの特徴は、サービスがワールド・ワイドで展開されることである。だから、同じようなサービスを提供する企業は世界に何社も必要としない。適切に競争が維持される程度の参加者で済んでしまう。それは、同時に新規参入によって簡単に地図が塗り代わってしまうことを意味している。21世紀を前にして、いろんな分野で企業の統合が進んだのは、ワールドワイドに事業を展開するための資金力や組織力を確保することと、「一人勝ち」の時代に備えるためである。

 ソフトウェア産業は、いわゆる“装置産業”ではない。だからちょっとした資本があれば事業を始めることができる。とはいっても、そこで重要なのは「人」である。CMMのレベルが3だとか4だと言っても、それを維持し時代に合わせて変化させることの出来る人材が確保されなければ続かない。逆に、そのような優れた人材を確保し続けるために、高いマネージメントのスキルが求められる。プロジェクトを混乱させてしまうようなマネージメントでは、人材の流出は止められない。そのため先発組であっても、ちょっとしたミスによって、市場からの退去を余儀なくされることが起きてしまう。

 この状態を「大変だ」と見るか、「面白い」と見るかで、対応が大きく変わってくる。はっきりしていることは、変化を積極的に受け入れなければ、「変化」から突き放されてしまうということだ。

「エコ・プロダクツ」としてのプロセス改善

 もう一つ21世紀の大きなうねりとして意識しておかなければならないのは、「エコ・プロダクツ」の動きである。20世紀、経済の発展は地球の環境を破壊することで達成してきた。言い換えれば、私たちは「豊かさ」を手に入れるために、地球を壊してきたのである。20世紀の終わりに、我々はそのことに気づいた。これ以上、地球の破壊を犠牲にして、我々の豊かさを手に入れることは許されないのである。

 世界は、一斉に、地球を壊さないで物を生産する方法を考えようと動き出した。自動車も、作っては壊すという時代から、良いものを長く使うという時代に変わった。所有から利用へと価値が移ろうとしている。多くの物が「再利用」されるか「再生」することが前提となる。

 一方では、エネルギーや資源の消費に対しても、厳しい姿勢が求められる。化石燃料を燃やしてエネルギーを取る方法は、これ以上拡大するわけには行かない。もっと、自然のエネルギーをうまく変換する方法が求められる。一度、地球から掘り出された鉱物資源も、うまく再利用できるような設計方法やシステムが求められる。21世紀の製造業は、「エコ・プロダクツ」の明確な考えたかにそって行動することが求められる。そうでなければ、不買運動すら起こされかねない。

 このような「エコ・プロダクツ」の考えは、ソフトウェアの開発にも波及する。製品の製造そのものに「エコ・プロダクツ」が求められているのであるから、当然、その中の一部を構成するソフトウェアの開発に対しても、如何に地球に優しい開発になっているかが問われる。多すぎるバグの発生や再設計というのは、エネルギーの余分な消費につながるし、試作回数が増えることで鉱物資源のムダ使いともなっている。また、必要以上のリソース(人材)の消費も追及されるだろう。

 ソフトウェアだけでなく、製品の開発に関係する人たちが、総出でプロセスを改善し納期を短縮することが求められるのである。それが実現しなければ、組み込みシステムでは、市場から製品もろともに排斥されるだろうし、アプリケーションの分野でも非難されるだろう。第一、そのような組織の評価が下がるため、経営を続けることが困難になってしまうだろう。

 いつの時代でも、時代の求めるものを先取りして準備したものが、市場で活躍する機会を得る。時代は、ソフトウェアの開発をスマートに仕上げることを求めている。地球に優しい形で開発する人たちを求めている。そのために準備し、努力した人たちに優先的に機会を与えるはずだ。

日本版CMMの動き

 21世紀は、日本という舞台の中にあっても、日本という枠を越えて競争が始まる。人数に頼って来たこれまでの考え方では、早晩行き詰まるだろう。それなりのレベルの人材をどれだけ確保できるかで勝負が決まる。ソフト会社の選別が始まると言うことは、そこに居た、エンジニアと呼ばれる人たちも、選別の対象となるということである。

 多くの関係者は、家電製品がネットワーク化される、いわゆる「情報家電」に向かうことで、ソフト開発の仕事が増えると思っているようだ。たしかに、ある意味ではその通りだが、「家電化」されるということは、言い換えればバグが許されないということも言える。一つのバグが、企業の存続を危うくしかねないのである。すでに、携帯電話にその兆候が見えている。製品が「マス化」したことで、製品のバグやシステムのトラブルによって受けるダメージは、非常に大きなものになってしまうことが現実に起きている。

 それだけに、「情報家電」の開発に関わるソフト会社のレベルが、今までとは違ったものが要求される。特に、ネットワークに関係するエンジニアのスキルは、非常に高いものが求められる。既に、アメリカでは「SWEBOK」ロジェクトで、非常に高いレベルの人材の養成が始まっている。

 日本でもようやく、問題がプロセスのレベルにあるという認識が受け入れられつつあるようだ。それを受けて通産省が「日本版CMM」の準備に動き出した。通産省は、これまでも「共通フレーク」という形で標準化を進めてきたが、殆ど機能していない。このことは通産省も認めている。だから、今回の「日本版CMM」では、その失敗を繰り返したくないという姿勢が見えている。とはいっても、これまで我が国で「CMM」が普及しなかったのは、それが「英語版」だったからというわけではない。ましてや、政府に「旗振り役」が居なかったからということでもない。そこに、まだ課題は残されているが、これを機に、国内のソフト会社でも、一層の競争が始まるだろう。それ自体は歓迎すべきことである。

 2001年1月
 「硬派のホームページ」主催者より