これから始まること

(98/10/4 掲載)


 98年9月26日の日経新聞の夕刊に「総合技術能力移転機構(CPSM)」に関する記事が掲載されました.土曜日の夕刊ということもあって,また,地方によっては夕刊そのものが発行されていないところもあって,この記事に気づいた人は少ないようです.実際,私の周りでは誰も気づいていませんでした.

 総合技術能力移転機構とは

 新聞の報道によると、この総合技術能力移転機構(CPSM)というのは,大企業約50社が資金を出しあって,年内にも発足させることになっています.やけに急いでいるわけです.

そこでは,企業内で生じている雇用のミスマッチを解消することが目的とされていて,出向の形で各企業から社員を受け入れ,他社への雇用を働き掛けたり,用意されている教育プログラムにによって特定技術を身に付けてもらって,その上で,新しい勤務先に“再出向”させることになっています.もちろん,このきれい事は「建て前」です.おそらく国の認可を得るための表現だということは,誰でも気付くはずです.

 新聞には,「技術者を在籍出向の形で預かり,送り手企業と業務委託契約を結ぶ.請負料を得て技術者を送り手の企業に再派遣するため,技術者は従来通り勤務する.「CPSM」は人事,労務管理を引き受け,請負料の中から給与も支払う」となっています.

 我慢の限界

 能書きを見ているだけでは問題は見えてきません.在籍させたままでの再教育の方法や,企業が支払える請負料での運営方法など,決めなければならないことが沢山あります.何をすればいいか分かっていたはずの長銀問題でも,不十分だが一応の決着をみるまで1カ月以上も掛かったのに,CPSMは,今から3カ月以内に発足させるというのです.

 なぜ,そんなにも急いでいるのか.それは,企業の9月(中間)決算をみれば分かります.5%の売上ダウンで70%もの利益が減少する仕組みを変えない限り,事業が成り立たなくなっているのです.戦後の復興の中で,資本金と従業員数を増やし続けてきた大企業は,今や過剰な人件費を放置したままでは,企業の存続自体が危うくなっているのです.2兆円の売上に対して,わずか10億円(0.05%)の利益も出せないような企業の株に,一体どれだけの価値があるというのでしょうか.このままでは,来年の3月の決算で危機的状態を向かえてしまうのです.

 行政が関与することを逃げた

 雇用はある程度は個々の企業で解決できる部分もありますが,時代の変化や業態の変化による失業というのは避けられないことであり,これをその企業で解決しろということは無理難題の押付け以外のなにものでもありません.その間に,多くの従業員は時代の波に呑まれてしまうわけです.日本では,失業するのは,その人に欠陥があるからと見做される傾向がありますが,業種や業態によっては全てを個人の問題に帰すのは無理があります.

 雇用のシステムは本来は国や社会が用意すべきものであるにも関わらず,この国は「失業」を前提としたシステムに手を付けることを避けてきました.労働省などは,完全に逃げています.その原因は,いまだに「完全雇用」の看板を掲げたままという事情からきているものと思われます.失業率4.3%で完全失業者も297万人いるというのに,これは「一時的」な現象だというのでしょうか.そして,企業内失業者が現時点で150万人と推定されているというのに.この景気さえ回復すれば150万人の企業内失業者は解消するとでも言うのでしょうか.

 ヨーロッパの国(例えばフランス)には,失業した時に再教育を受けるため,一定期間使用できるチケットが配られると聞いています.そのチケットで時代に先回りした知識や技能を習得して再就職するわけです.こういう制度が我が国で作れない理由はないはずです.今は無造作に使われている雇用調整助成金をこの資金源に使えばいい.専門学校も充実してきたし,何よりも学生の減少に悩む大学にとって,絶好の機会のはずです.どう考えても「完全雇用」の看板が邪魔しているとしか考えられないのです.

 生産性の飛躍的向上へ

 このような雇用のシステムが整備されないために,そこで適当な仕事に就けない従業員は塩漬けにされ,生産性は上がらず,コスト体質は極端に悪化しているのが,今日の状況です.90年代に入って,ず〜とこの状態を続けてきたのです.金融システムを立て直すだけでは日本の経済が立ち直らないことは,既にこの場でも述べてきましたし,皆さんは薄々気付いているはずです.

 この国の経済が立ち直るためには,個々の組織において生産性の向上が不可欠なのです.それも既にアメリカとは倍の差がついていることを考えると,生半可な向上では追い付かないし,その程度では世界経済の立て直しに貢献できないでしょう.

 当面の生産性を確保するためにも,企業内失業者を分離する必要があるわけで,その受け皿が「CPSM」なのです.したがって,在籍出向で給料(に相当する料金)を支払っていたのでは,何の効果もないことになります.

 その問題は脇に置くとしても,現実はもっと厳しいかもしれません.企業内失業者というのは,現時点で明らかに手あまりの人であって,少なくとも忙しく仕事をしている人,人海戦術とはいっても彼等がいなくては物が作れないという人たちは「企業内失業者」には数えられていないでしょう.でも,その状態は必ずしも望ましい生産性を確保しているわけではありません.当然,競争の名の下で作業の流れを変えたり,ツールを使ったりして効率のよいプロセスを作り上げていく中で,更に2〜3割の失業者が出てくるはずです.逆にそれが出来ないと,企業が世界の中で存続していくことは難しいでしょう.「No.1」か,それを狙う「No.2」でなければ残れない時代です.経済のパイが収縮したことも,その競争に拍車を掛けるはずです.

 選別できるか

 そうなると組織の中で「選別」が行なわれることになりますが,果してこれが上手く出来るかどうか,大いに疑問が残るところです.我が国は,これまで「結果平等」を良しとしてきました.少なくとも結果に差を付けないことを美徳としてきた節があります.小学校でも,「通知表」に「差」を付けない学校があると聞いたことがあります.数字で人をランキングすることは適切ではないというのでしょうが,全く無責任な人たちです.

 そのためか,企業にあっても,未だにこの国の人事担当者は,従業員の評価を数値化・客観化することができません.さすがに彼等は「選別」することが適切ではないとは言いませんが,「難しい」と言い続けてきました.この国は,社会主義に国ではありません(ないはずです).「やりたい」と手を上げた人が,そのまま参加できるわけではありません.事業の目的や企業の理念を維持しつつ,事業として適切な生産性を維持し改善できる人しか残れないのは当然なのです.

 いや,もっと言えば,残すべきではないのです.中途半端に残してきたために,結局は最後まで残れないと分かったときの混乱の方がもっと大きいのです.この国の大企業の経営者の多くは,これまで事あるごとに「雇用を守る使命がある」と言い続けてきました.でもその結果が,今日の状態を招いたとも言えます.そうして結局は守りきれなくて「CPSM」という受け皿を作ることになったわけです.彼等は,保護の外に出て十分に通用するだけの力を付けていません(CPSMを発足させること自体がその証拠です).見せ掛けの善言で,中途半端に「保護」されてきただけです.

 確かに,今のところ「在籍出向」ということになっていますが,企業のコスト体質を大きく変えなければならないわけですから,こんなうたい文句は実現するはずはありません.

 何れにしても,この「CPSM」が設立されれば,直ちに「選別」が行なわれることになるでしょう.「年内に設立」しようと急いでいる状況が「年度内」での対応を匂わせます.でも現場のマネージャーにそれが上手く出来るとは思えません.従業員に対して到達すべきゴールも示して来なかったし,人事評価の数値化も避けてきたマネージャーが,この役に耐えられるかどうか.そして,それに耐えられないことによってマネージャー自身が選別の対象になる可能性もあるわけです.

 また,ここで逡巡していることで,競合他社に市場を奪われ,気付いたときには,事業の継続そのものが危うくなってしまう可能性もあります.

 モラルハザード

 我が国では,リストラはモラルハザードを招くと言われてきました.いや,これまでのリストラは,実際にモラルハザードが起きているものと思われます.結果平等を当然の如く受け入れてきた社会にあっては,何らかの工夫をしなければ混乱は避けられないことになります.当然,このあと始まる選別は,表面的には「在籍出向」という袋を被せるとしても,多くの企業ではモラルハザードを招くでしょう.

少なくとも,

 1)従業員を客観的に評価する技術(方法)を獲得し,

 2)その項目や基準を明らかにし,

 3)従業員が到達すべき目標(=ハードル)を示し,

 4)そのための技術の習得を支援し,

 5)習得するための適当なモラトリアムを与える

ということが出来なければ,職場はモラルハザードの嵐と化すでしょう.

 そしてこれが上手く出来た組織だけが残ることになります.そこでは,創業以来の年数や企業の規模などは,何の支えにもならない可能性すらあります.今から,1)〜3)を実現したとしても,既に4),5)の時間がありません.このための準備を何もしてこなかった企業は,その存続の意義を問われることになるでしょう.

 大競争の時代へ

 今は,横一線の混乱の中にいるも,年明け早々に,如何に他社より早く身軽にして生産性の浮袋を手にして水面に浮かび上がるかの競争が始まります.生産能力の向上や世界経済のパイの収縮などのため,企業の選別が行なわれることは避けられません.その競争に勝ち残るため,有能なマネージャーや技術者などの人材の流動化が進むことになります.同じものを作るのに5社も10社も必要ないのです.そうなると,各社に分散している優秀な人材を素早く集めた数社だけが生き残ることになります.トップの判断や行動の早さも勝負を分けるでしょう.

 この状況をチャンスと捉えるか,不運と捉えるかです.いや,時代の求める要請に応える方法を持たない状態では,チャンスにしたくても出来ない可能性もあります.このことは,企業のトップから,1従業員に至るまで言えることです.この先,相変わらず「順送り」の人事でトップを選んでいるようでは,心もとないかぎりです.

 仕事の仕方を手に入れること

 このホームページをご覧のソフトウェア・エンジニアの皆さんは,とにかく早く2つの技術を身に付けて下さい.1つは,プログラミングやアルゴリズム,設計技法など,ソフトウェアを作る為に欠かすことに出来ない技術で,もう一つは,ソフトウェアを上手く作るための技術です.

 求められている機能や性能を実現し,納期やコストの要求を満たすための方法を身に付けてください.分析や設計手法を知っているだけでは不十分なのです.それを最高に活かすためにも,見積もりの技術や,それを反映した有効なスケジュールを立て,それを追跡し対応していく技術,リスクや新規性の問題を的確に把握し,それを問題化させない技術などを確実に身に付けて下さい.

 マネージャーの皆さんも,効果的なスケジュールに慣れて下さい.そしてリスク管理ができることが必須条件です.期日に関するリスク管理が出来ない最大の理由は,期日の約束を想定したスケジュールを持っていないことです.いや,おそらくそのようなスケジュールを書いたことがないのではないかと思われますが,そのままでは,マネージャーとして求められる役割を果せなくなります.そしてもう一つ,「人間を知ること」です.人間を知らずして,マネージャーの仕事は何一つ成り立たないはずです.マネージメントとは,「仕事」をマネージすることではなく,「生きた人間」をマネージすることなのです.生きた人間をその気にさせてゴールに向かわせることなのです.そのうえで,納得が得られる「選別」の方法を考えて下さい.これを持たなければ,マネージャーの役は勤まらなくなります.

 どうか,そのためにも先月出版された「CMM」の本を徹底的に読んでみてください.一度読んだくらいでは,何をすればいいのか良く分からないと思いますので,何度でも読み返して下さい.一つの章を1カ月でも2カ月でも読み続けて下さい.そこに書いてあることが暗唱できるまで読んでください.それしかありません.そうしてこれからソフトウェアの開発現場で求められることを先取りしてください.

 手戻りを避け,生産性を上げる方法を持っていなければ,大競争の時代の「選別」に残れなくなります.

 1998年10月

  「硬派のホームページ」主催者より