ソフト産業の空洞化に対抗しよう

(2002/7/1 掲載)



ソフト産業の実態

 日本のソフト産業は興隆しているのだろうか。確かに決算報告では売り上げが伸びている企業が少なくない。特に大手のソフト会社の売り上げは伸びているようだ。だが、それは本当に「生産性」に裏付けられた売り上げなのだろうか。たとえば、政府案件の多くは、納期までにまともに仕上がっていない。だからこそ、政府は、厳しく進捗管理の手続きを決めようとしている。期日にまともに仕上がっていないのに、いったん検収され、未達機能は、来期に持ち越される形で行われているとすれば、それは水増しでありとんでもない話しである。特に、政府案件は、誰でも応札できる状況ではない。建前上では、中小のソフト会社にも平等に応札の機会を設けるといっても、現実に落札できる可能性が高くないかぎり、中小のソフト会社は応札できない。事前に機能を分割し、中小のソフト会社でも応札できる規模にされていなければ、中小ソフト会社の応札は難しい。そんな無理をするよりも、複数の大手のソフト会社の下請けに入っておけば、どちらが落札しても仕事が回ってくる。つまり、政府案件に応札できる業者は限られてしまうのである。この現実が横たわったままである。

 所謂「ソフトゼネコン」である。発注側にシステム設計能力があれば、分割して発注することが可能となるが、日本の役所には、システムエンジニアがいないため、現実問題として、どこかのソフト会社に「分割」を依頼するしかないだろう。それこそ「ソフトゼネコン」の存在する根拠であり、そこに「丸投げ」が起きてしまう所以である。発注側に、選択肢がなければ、この種の問題は解決しない。そして、実際に落札され、開発作業に取り掛かった以上、半分の機能しか達成していない状況だからといって、中止するわけには行かないという論理が働く。そこまでやって中止すれば、再度の入札になるし、役所の方も、そんなところに発注したことの責任を問われかねない。その上、中止によってそこまで開発した業者のコストはどうするのかという問題が起きる。もちろん、契約書に明記しておけば良いのだが、日本では、失敗がありうることを前提とした厳密な契約にはなっていない。条項としてはあっても、現実には「交渉事」になるため、埒が明かない。

 民間でも、一旦ソフト会社に出した案件を、進捗状況を判断して中止されることは少ないようだ。私は、過去に2度、中止勧告をだしたことがある。2度とも開発は中止された。もちろん、発注側と受託側で、それまでかかったコストについてもめたはず。本来は、このような事は契約書に「明記」されていなければならないのだが、日本の文化がそれを阻んでいる。だから、政府案件でも同じことが起きてもおかしくはない。

 民間の場合、もっと厳しい問題が起きている。ソフト会社側が、本気になって事前に要求仕様を詰めようとしない。その結果、当然あとになって仕様の追加が発生するが、それを「アドオン仕様」と称して追加料金を加算するのである。これは、場合によっては否定できないことではあるが、現実には、やむなくそうなったのではない。最初から、顧客から出された仕様をそのまま(故意に)鵜呑みにしている。客は仕様を書けないことは、とっくに見抜いている。それを承知で、客側に仕様を書かせるのである。そうして、後になって、客の方から、「こういう機能は考慮されていますか?」という問い合わせに、「えっ、それはどこに書いてありますか?」となり、そこで「仕様の追加」となる。実際に、開発側も曖昧な仕様で着手しているので、仕様の追加で期間の延長が無ければ終わらないのだが、上手いことに、「アドオン仕様」が入る。もっとも、個人的には、こんな形で設計されたシステムなんて使いたくないし、そんな中で慣れてしまえばエンジニアのモラルも傷ついてしまう。ソフト業界としては自殺行為である。

 ソフト会社の売り上げが伸びている背景に、こうしたことが含まれているとすれば、決して手放しでは喜べない。無駄を積み上げただけだから。大手銀行の合併によってシステムの統合が必要になる。その3000億円の統合費用は、どこかのソフト会社の売り上げに計上されているのだろうが、これだって、別の方法では、数分の1で済む可能性がある。それを敢えて3000億円を投じて自前のソフトを開発したことによって、日本のソフト産業の売り上げのかさ上げに貢献したとすれば、それは本当に喜ばしいことだろうか。

 実際に、派生モデル開発では、要求仕様の書き方の問題と、そこで不適切なプロセスが選択されたことで、私自身の経験から判断して、3〜5割りの工数の増加になっている可能性がある。もちろんそれだけ精度の高い開発ができるソフト会社であれば、期間を短くできた分、少し単価を上げたとしても、3割り前後のコストが削減される。ソフト会社も、工数が短くなった分だけ、他の仕事ができるので、売り上げは伸びるし、無駄なコストがかかっていない分だけ利益率も向上する。何よりも、エンジニアが疲弊しない。その結果、出来の悪いソフト会社は淘汰される。日本のソフト産業の売り上げが、この延長線上で増えているのであれば、大変喜ばしいことである。

 だが現実は、目先の売り上げに奔走し、疲弊するエンジニアの問題は見過ごされているようだ。エンジニアの代わりはいくらでも居ると思っているのだろうか。生産性が上がっていないかぎり、その産業は衰退するしかない。その前に、個々の企業単位で淘汰されるはず。そうでなければ、無駄な負担を強いられたことで社会が疲弊する。どっちが先に倒れるかだ。ソフト業界は、早くこのことに気付いて欲しい。

製造業が空洞化した理由

 さて、製造業の空洞化が相変わらず止まらない。80年代の後半の「円高不況」のあたりから、日本の製造業は競争力を求めて海外の労働力を求めて進出しはじめ、21世紀になってもまだ止まらない。いや、逆に加速さえしている。

 日本の製造業は、戦後の復興期を通じて世界で確たる地位を築いた。技能オリンピックでも、多くのメダルを獲得し、企業の中で技術や技能を競った。それがまた世界の競争力となって循環した。こうして、経済大国(製造業大国)としての基礎を築いてきたのである。それが、10年あまりの時間の中で崩れ去ろうとしている。

 経済力で世界の「先進国」の仲間入りをした国が、懐の財布の事情が変わったとなると、世界の風向きは一気にかわる。「成り金」宜しく、ODAで金をばらまいていたのが、ちょっと金額が少なくなって、経済の風むきが日本から他の国に移りそうだとなると、相手国の態度も変わってくる。日本からのODA援助が、日本へのつなぎ止め策に見えるのだろう。本来なら、ここで政治力がものを言わせるべきところだが、先の瀋陽の総領事館での失態が、日本の政治力の弱さを世界に見せてしまった。今日、アジアの経済の中心が、明らかに中国(付近)に移っているにも関わらず、その実態を見ようとしない政府や役所の役人は、この期に及んでも有効な手を打とうとしない。

 あの鉄壁を誇ったはずの製造業が、なぜ日本から流出したのか。
それには、
 1)為替を含めたコスト差が大きい
 2)大市場への地理的条件が良い
 3)労働者の技術力の向上で品質が向上した
 4)現地での企業が力をつけた
 5)日本では上記の不利を挽回するほどの生産性が高くない
といった条件が考えられる。
 単にコスト差だけでは、ここまで流出しない。「安かろう、悪かろう」では世界に通用しないことは、日本が一番良く知っている。だから、最初は、単純労働力だけをアジアに依存する形で、製造プロセス(の一部)を外に出した。だがその内に、もっと付加価値の高い部分の技術力が向上してきたことで情勢は一気に変わった。特に、1997年のアジアの金融危機の後、アジアの人たちは、先進国の「属国」では危ういことを知った。本気で、自分たちが自立できる経済を目指し始めた。いったん日本の資金が引いた後を埋める形で、欧米の資金が入ってきたことも、その動きを加速した。日本は、下請け工場という位置づけでアジアに工場の一部を移転させたのに対して、欧米は、世界戦略の1つの拠点としてアジアに資本を投下しているようだ。

 先頃引退した元GE会長のジャック・ウェルチ氏は、就任早々に、ごく一部の家電製品や電機製品を除いた家電製品から手を引いたときの台詞は、「ドライヤーなどの製品は、いくら新しいものを作っても2,3か月もすれば、同じようなのをアジアが作ってくる」というものであった。GEが作れば、そんなに安くは作れない。だから、価格競争には勝てないというのである。当時は、「中性子ジャック」と仇なされ物議を醸したが、その選択の正しさは歴史が証明した。

 日本の製造業の中心は電機製品であった(最近では自動車に抜かれた感があるが、すそ野の広がりとしては、電機製品が群を抜いている)。世界の家庭に、「日本製」の電機製品を売りまくってきた。まさに家電王国でもあった。その家電が、中国の企業に押されている。20年前、ジャック・ウェルチ氏が予想したことが、今、日本とアジア(特に中国と)の間で起きている。GEのように事前に衝突を回避したのではない。今、衝突が起きているのである。そして、今のままでは勝ち目はない。

 日本の企業は、中国に「下請け工場」を作ったが、中国の市場に「日本製の製品」を売ろうとはしなかった。あくまでも、中国の安い労働力で作った部品を日本に輸出し、最終製品は日本で作るという考えだった。最終製品の値段は同じとすれば、大きな価格差が得られたはずである。だが国内の景気が悪く、製品の価格競争に入ったことで、アジアが部品の供給基地としてではなく、最終製品の組み立てまで受け持つようになった。国産メーカーのビデオデッキが、輸入価格が3000円のものが、秋葉原で30000円で売られていたという。ボロい商売である。このとき、今日の日本の製造業の姿を見て取れたはずであるが、目先の利益に目がくらんで、はたして、そこまで考えなかったのか。

 結局、中国の市場を取らなかったために、自国の市場を獲得した中国の企業が台頭し、逆に、日本の企業に代わって世界に進出し始めた。まもなく、日本の市場にも入ってくる。いまや日本の企業が頼りにしているのは「ブランド」だけだ。対抗できる製品があっても、限られるだろうから、産業としての衰退は避けられない。まもなく70年代から80年代にかけて、日本の企業が、アメリカの電機メーカーを凌駕したのと同じ光景が繰り広げられる。もちろん、この問題は循環していて、数10年後には、中国が、今の日本の立場に置かれる時が来る。

製造業なしでやれるか?

 製造業といってっも、家電製品が全てではない。自動車産業は健在(但し、本体のみ?)だし、その他にもいまだに競争力を維持している産業は幾つもある。だが、いくつかの産業は、既に競争力を失ったか、失う危険の淵にいる。何と言っても「生産性」が低いのである。

 日本のソフト産業は、そのような製造業にくっつく形で発展してきたと言っても過言ではない。もちろん、金融の世界もソフトウェアが支えているし、ビジネスの世界も、今日ではソフトウェアなしには仕事にならない。また、ゲームの世界では、今でも世界を引っ張っているようだ。だが、ビジネス環境のソフト開発は、景気の影響をまともに受けているようだ。

 たしかに、日本のソフト産業は、製造業(特に電機産業)と深い関わりをもって発展してきた。「組み込みシステム」というのがその世界である。私自身も、27歳の時、汎用機のソフト開発から組み込みの世界に転向してきた一人である。それ以来、組み込みのソフトウェアは電機製品の機能や性能の向上を、裏で支え続けた。一緒になって世界の市場を席巻した。

 90年代半ばに「情報家電」と言う言葉がはやったことがある。これからは殆どの家電製品にソフトウェアが組み込まれる。だから、この分野には、ソフトウェア開発の仕事がいくらでも出てくるといって、ソフト会社は色めき立って、一斉に「家電」の方に目を向けた。まるで、そこに行けば、仕事が溢れているように錯覚した。90年代に入って、金融やビジネス分野でのソフト開発の案件が減少する中で、組み込みの世界に転向するソフト会社も現れた。

 今のままでは、製造業は、この先、間違いなく縮小する。いや、縮小せざるを得ないのである。今まで、日本の役割だったものが、アジアを含め、他の国に引き渡さなければならないのである。日本に残る製造業は、今と比べて3割りから5割りは縮小せざるを得ないだろう。それは、コストの安い国が代行できる状態になりつつあることを意味している。10年という時間の中で、おそらくその状態に移行する。その時、「組み込み」の世界に依存していたソフト会社は、淘汰の試練を受けることになる。もし、技術や生産性に優れたソフト会社や優れたエンジニアを確保できなければ、一緒にいるメーカーも敗者となる。このことはマネージメントも含めて、真剣に考えなければならないことである。

 ソフト産業と一緒になって、世界を相手にして生産性を上げ、技能を競わなければ、日本に残る製造業は、もっと減ることになるだろう。その一方で、適切な資金調達機能が無いために、本来なら 残れたソフト会社も残れないという事態も考えられる。とはいえその前に、生産性を上げることも出来ず、競争力を持たない企業や組織は、真っ先に退場せざるを得なくなる。そのような企業や組織が存在し続けることは社会にとって何のメリットも無いからである。そして、そのようなソフト会社にいるソフトウェア・エンジニアも、一旦は仕事を失うことになる。

戦略の無い産業

 日本が真っ先に「少子高齢化社会」に突入することは、誰の目にも見えている事実である。だが、政府も企業側も、何も動こうとしない。21世紀は「知識産業の時代」だと小泉首相が言っても、何も動かない。誰も具体化しないのである。今のように超低金利の政策を続けていれば、製造業が、嘗ての賑わいを取り戻すはず、なんて考えている人はいないだろう。少なくとも、この先50年はない。そうであれば、ソフト産業も必然的に空洞化する。その前にソフト産業自身が、もっと技能を競い、生産性を上げなければ、台頭するアジアに、10年という時間の中では、自らの土俵を失うことになる。

 これまでの製造業と違って、ソフト産業の場合は新規参入に設備や資本面での障害はない。「日本」という風土の特殊性を考慮しても、ソフトウェアの根幹の部分は「日本」には関係ない。アジアのソフト会社が、日本のソフトを日本で作るのであれば、日本語を身に付けてくる必要があるが、日本のソフトをアジアで作るのであれば、その特殊な部分だけに「日本」が必要なだけである。製造業よりも空洞化しやすいのである。

 ソフト産業は「知識産業」の塊みたいなものである。知識産業を支えるのが「教育」であるのと同じように、この先の日本のソフト産業の命運を決めるのも「教育」である。「教育」のでき次第である。もちろん「教育」がベースになるのは、ソフト産業だけではない。「知識産業」自体が、教育によって支えられているのである。教育の初期段階で、高水準のソフトウェア教育が実施されなければ、この先ソフト産業は競争に勝てない。しかも、初期の教育を通じて「知識労働者」のスタイルを身に付けなければ、企業は継続して競争することができない。

 そして、エンジニアが15年や20年で現場をリタイアさせるような馬鹿な仕組みを変えなければ、日本においてソフトウェアの技能レベルが、いつまでたっても20年前のレベルから抜け出せない。確かに、そこで使われているプログラム言語は新しいのかも知れない。確かに、そこで表現されている「表記法」は20年前には無かったものだろう。だが、設計技術は進歩しただろうか。要件の分析技術は進歩しただろうか。生産性は世界に誇れるものになっているのだろうか。バグも1件(/KLOC)以下になっているのだろうか。答えは「否」である。

 ソフトウェアの初期教育を、20年前と同じように企業に依存している状況に対して、誰も危機を感じないのだろうか。見様見まねで15年経験しても、先人のレベルを越えることができない。20年前と同じように、会社に入って「1」から初めたのでは、「経験」を積み上げていっても、15年程度では向こう岸に渡れない。その途中で、ボートに乗って新しい役割に移ってしまう。これでは、いつまでたっても、ソフトウェアの「プロ」は育たない。そればかりか、増大する要求に応えきれず、頭数を増やす方向でしか対応できない始末である。その結果は、ますます生産性を落とすだけである。

技能を競うべき産業

 ソフト産業も、製造業と同じはず。確かに、メーカに属していないソフト開発組織の場合は、産業分類では、サービス業に分類される。だが、「もの作り」であることには変わりはない。ソフトウェアの設計や開発は、どう見ても「サービス業」ではおかしい。部品のチップや歯車を作るのは製造業で、同じように部品の一つである「ROM」チップに納まるソフトを作る会社(組織)が「サービス業」というのはおかしい

 製造業であるのなら、製造技術を競う必要がある。製造業でやって来たように、ソフト産業でもそれをやればよい。ただ、本に書いてある程度のプログラムしか書けない人に「エンジニア」と呼ぶのは止めよう。自分を錯覚するだけだ。その程度で一人前になったと思いこんでしまったのでは、取り返しがつかないことになる。

 ソフトウェア・エンジニアと呼べるには、どれだけの知識を身に付け、どれだけの技術を習得すればよいのか。これは難しい質問である。だが、ソフトウェア開発に関する技術や知識の大部分は、今日では「一般知識・技術」となりつつあることを考えると、ソフトウェア。エンジニアリング全般の知識が欲しい。確かに、プログラムを書くだけなら、一部の知識や技術でも実現する。だが、生産性や保守性といったとこまでカバーしようとすると、「全般」の知識が必要になる。「一般知識」であるだけに、身に付けるものは多ければ多いほど良い。生産性を飛躍的に上げるには、一人でカバーできる範囲を増やさなければならない。テストの事を知って、設計や実装するのとそうでないのとでは、生産性に大きな差が出てしまう。

 要求の仕様化もでき、適切な分析手法設計手法を操って、精度の高いソフトウェアを設計できることはもちろんで、ソフトウェアの「開発システム」の方も設計できることが望ましい。構成管理や、スケジューリングも標準のツールを使いこなして欲しい。高度なレビュー技術も身に付けて欲しい。こういう人が一人でも増えれば、日本のソフトウェア産業は生き残れる。もとより、製造業と違って、生産性の格差は、技術によって数10倍にも開く世界である。そこまでいけば少々の為替の障害があっても、はねのける事ができる。

 すでに、「SWEBOK」(http://www.swebok.org/)という「ソフトウェア・エンジニアリングの技術体系」が動きはじめている。ソフトウェア・エンジニアと呼ぶに相応しい人に身に付けるべく知識や技術の項目が、そこには溢れるばかりに網羅されている。いまから勉強する人には、これが“ガイド”となるだろう。10年かけて、ここで挙げられた項目を、着実に習得していって欲しい。そして、その先も、まだまだソフトウェア・エンジニアを続けてほしい。世界に通用するまで続けて欲しい。それが、日本のソフト産業の空洞化を食い止めることに繋がるかも知れない。たとえ空洞化を防ぐことができなくても、その時あなたは、依然としてこの世界で活躍しているはずだ。

 2002年7月
 「硬派のホームページ」主催者より