崩れ始めた日本語の“万里の長城”

(2004/9/18 掲載)

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今、アメリカのIT技術者は失業の危機に立たされている。海外から流入したIT技術者に仕事を奪われたのと、仕事そのものが海外に流出しているのである。年収1000万円クラスの上級のIT技術者やプロジェクト・リーダーにも、その影響が及び始めたところを見ると、ソフトウェア開発の仕事が丸ごと海外に流出しているのであろう。「インターネットは国境を無意味なものにする」ことの典型例である。

『WEDGE』という雑誌の9月号によると、米国において昨年末までに海外に流出した雇用は31万5000人で、来年末には83万人に膨らむ。そしてこの傾向は今後10年ににわたって続き、サービス分野(ソフトウェア開発を含む)で340万人分の仕事が海外に渡る、というアメリカのフォレスターリサーチ社の調査結果を紹介している。現在繰り広げられているアメリカの大統領選挙でも、ケリー陣営が、海外に雇用を流出させた企業として20万社あまりの社名をホームページ上で公開しているという。この問題は、アメリカ国内では相当なインパクトになっているのだろう。

20世紀の後半の50年間は、物が国境を越え資本が国境を越え、今や、家庭から注文したものが地球の裏からでも数日で家まで届く。そして、人も仕事を求めて国境を越えてきた。いや、EUのように経済的に国境そのものを無くそうとしている地域もある。そこでは、ヒト・モノ・カネが完全に自由に往来する。

そして、インターネットは、国境そのものを無意味なものにする。仕事の種類によっては、その地域に移動しなくても仕事ができる環境を提供する。そこでは、まるで隣りの町にいるかのように時間と距離を縮めてしまう。今日、それを妨げるものがあるとすれば、「言葉」ぐらいしかない。

もし、日本という国で使われる言葉が「英語」であったら、今ごろ、日本のソフト産業は消えていたかも知れない。アメリカのソフト産業が機会喪失の危機に遭遇している中で、日本のいい加減なソフト産業がまだ残っている理由は、「日本語」という万里の長城に守られてきたからにほかならない。(アメリカのソフトウェア企業にも“安かろう悪かろう”というものもあることは知っている)

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日本の製造業は、これまで競争力を上げるために生産性の向上に取り組んできた。しかしながら、あるレベル以上の生産性向上は、指名解雇が封印されている中では実現しない。そのため日本では、生産性向上への努力が、経営指標の改善に繋がらなかったのである。やむなく90年代以降、自動車産業に代表される多くの日本の産業は、さらなる価格競争力を求めて日本から出ていった。

日本の企業が海外に出るにあたって、初期の頃は国によっては参入障壁はあった。実際、今日のように中国に足場を築くのにも何度も失敗してきた。だが、少なくとも日本から出ていくことには、国内からほとんと抵抗らしきものは見られなかった。マスコミに「産業の空洞化」として少しは騒がれたが、その動きも、出国を規制する法律が制定されるようなところまではいかなかった。今まで、そこで働いていた多くの人が仕事を失うことに対しても、地域や国のレベルで、「社会問題」となるほどの大きな摩擦は生じていない。そこにあるのは、会社を残すためには「ヤムヲエナイ」という諦めの論理である。

逆に、海外から日本という国に参入することには大きな障害が残されている。言葉の問題や商習慣に大きな相違があるだけでなく、細かなところに参入規制の網が張られている。それが、日本の“企業”を守ってきた。もっと正確にいえば、そこで仕事をするであろう“労働者”を守ってきたのではない。日本の資本家を守ってきたのである。労働者は、その企業の資本が日本のものであろうと、海外の資本であろうと、特に問題にはならない。働く場があればよいだけだ。だが、資本家は、投資先の企業が消えてしまうと投下した資金が回収できなくなる。

そうした「日本」という特別の壁で守られてきたはずの日本の企業だが、85年のプラザ合意以降の数度の円高の波に晒されたことで、これ以上自国での生産にこだわっていれば価格競争力で勝てないと分かったとき、何の抵抗もなく日本の工場を閉めて海外に出ていった。当然、日本の労働者はそこに取り残されて仕事を失う。労働者は「働く場」が必要で、島国という制約や「言葉」のギャップもあって、簡単には日本の国境を越えることは出来ない。だが、資本家は、資本市場か資本を投下する「場」があればよい。島国であることも国境も何の障害にもならないのである。

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昨年(2003年)の8月に JASPIC の大会でのパネルディスカッションの最後に、会場の参加者に人から「今後の日本のソフトウェアはどうなると考えるか」という質問に対して、「今のような技術レベルでは、“産業”としては残らないだろう。残るとすれば個別のソフトウェア企業としてだけである」と答えたが、その考えを変える状況は今も見当たらない。

コスト差だけで何の抵抗もなく日本の労働者を捨てることができる日本の企業社会の中で、日本のソフトウェア産業が今日のレベルで未だに残っているのは、「日本語」という万里の長城に守られてきたからである。他に理由は見当たらない。いや、この「日本語」という壁に、日本のソフトウェア産業は甘えてきたのかもしれない。

たとえば、多くのソフトウェア・エンジニアは「保守性」を設計に織り込めない。“ペースト作文”で平気で3000行を越えるような関数を書いてしまうし、経路複雑度が400以上とか、関数内の制御の深さが15段にも達し、関数の呼び出しの深さが20にも達するようなコードが、どうすれば保守できると言うのか。これまで私が目にしたのは、極めて稀なケースとは思えない。

あるいは、そこで要求されているい機能を実現するのに、変化(変更)に強くするためのデータ構造を組み合わせる形で設計できない。処理構造は後で何とか改修できても、一度作られたデータ構造は簡単には改修できないことが多い(簡単な構造体ひとつとっても、変更するのに手間取るし、躊躇する)。本来であれば、数ヶ月の派生開発で製品(やシステム)を市場に出し続けなければならないのに、こんな状況ではそれが実現しない。揚げ句は、「10年保守する」という当初の目標も遇えなく潰えて、3年で新規に作り直すはめに陥ってしまう。それでも、「保守に耐える」設計技術を持たなければ、何度作り直しても結果は変わらない

本来なら、このようなレベルのソフトウェアしか提供できない日本のソフトウェア企業が残り続ける道理はない。しかも、ソフトウェア産業は、他の産業とくらべてインターネットの恩恵をもっとも受ける産業であり、国境を越えて簡単に淘汰されてもよいはずだ。それが残っている理由は、何度も言うが、「日本語」という万里の長城に守られてきたからである。

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最近の動きの中で、この日本の万里の長城を破る動きが2つある。

1つは、インドのソフトウェア企業による、日本のソフトウェア・エンジニアに対する教育サービス(?)の開始である。3〜5ヶ月間インドのソフトウェア企業に送り込んで、向こうの社内教育のプログラムの中で教育する(教育してもらう)というものである。もちろん、使っている言語は「英語」である。

彼らは、日本のソフトウェア産業の競争力向上に寄与するために教育に乗りだしたのではない。日本のソフトウェア・エンジニアのレベルが低いのであれば、その状況を逆手にとって自分たちの「ソフトウェア作り」の文化で教育することで、その後に日本の企業のソフトウェア開発の発注を受けやすくすることが狙いである。いわば「一石二鳥」なのである。

その証拠に、このようなサービスをしている企業は教育専門の会社ではない、多くは普通の「ソフトウェア企業」である。その企業の中にある教育部門が常時回している自社のエンジニアに対する教育プログラムに、日本のソフトウェア・エンジニアを取り込んだ形になっているのである(ある程度、日本からの参加者に配慮はしてもらえるようだが)。まさに、「CMM」の効果であり、「インソーシング」の一歩上の形態である。

もちろん、これは悪いことではない。ビジネスとしては「まとも」であるし、ある意味では「みごとな対応」と思っている(というより、“やられた”という感覚だが)。結果として、インドのソフトウェア企業にこれをやられてしまう日本のソフトウェア産業のだらしなさが浮かび上がった形だが、このことを日本の「ソフトウェア産業」としてはどのように受け止めているのだろうか。

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インドは、国を挙げて日本語の教育を行っている。それぞれのソフトウェア企業の中にも、「日本」をターゲットにした部隊を整えているところもある。ただ、こうした教育の成果として、彼ら自身は日本語の会話はできても、日本語の文章は書けない。彼らにとっては、この壁はとてつもなく頑強である。おそらく簡単には崩せないだろう。ならば、この壁を回避する方法として考えられるのは、日本のソフトウェア・エンジニアを英語に慣らして、しかも自分たちのソフトウェア・エンジニアリングの考え方を教えてしまうことである。

これは、国が「留学生」を受け入れるときの狙いと同じである。自分たちの「ソフトウェア作り」の文化で、日本のエンジニアを教育することで、自分たちの「ソフトウェア作り」を理解する人を日本の企業の現場にいるのだがら、日本の企業からの仕事を受けやすくすなるだろう。見積り一つとっても、エンジニアリングにそった見積りを評価できる人が、「客先」にいるのだから、プロジェクトの成功の確率は、確実に高くなるはずである。そのうえ、インドはソフトウェア・エンジニアの増産に入っていて、日本に対しても、今後受注を増やす体制を整えてくるだろう。

確かに、ソフトウェア企業に限らず、ソフトウェア開発部門を有する日本の多くの企業では、ソフトウェア・エンジニアリングなどを教える力はない。今日のソフトウェアの混乱には、エンジニアリングの乱れが大きな原因の一つであり、この状況の中では、見積りも、スケジューリングも機能しない。したがって、この部分をしっかりと教育することは問題の解決には有効に働くはずである。

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しかしながら一つ気になることがある。それは、インドのソフトウェア企業に自社のソフトウェア・エンジニアの教育を頼む側のソフトウェア企業の姿勢には、目の前の混乱(問題)の解消が目的になっていて、継続的な社内教育体制の構築にまで繋がりそうもないことである。もちろん、一般の製造業にあっては、そのような体制を構築することは難しいし、そこまでやることに経営上の合理性はないだろう。

だが、ソフトウェア産業の一員であれば、インドでの教育体制の構築方法を学んできて、それを自社の教育体制構築の参考にするという狙いがあっても良いと思うが、参加させている企業の姿勢を見ていると、「当面」の混乱したソフトウェア作りをどう建て直すかという「便宜」の姿勢が強く感じる。

80年代に、日本の企業の経営者は、アメリカ企業の経営者に対して、「期末の決算の数字しか見ていない」とか、「自分の在任中の企業成績を上げることしか考えていない」など、長期的視野を持ってないと揶揄したことがある。今、日本のソフトウェア産業の経営者は、はたして長期的視野で経営しているかというと、はなはだ怪しいかぎりである。

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ところで、インドとは別に、もう一つの日本語の万里の長城を破る動きがある。それは、中国のある地域(海岸地方)が町(市)をあげて日本語の教育に取り掛かっていることである。その地域は、地図を見ても、飛行機で1時間余りで九州に届きそうな場所である。

私も昔、中国の優秀な青年と一緒に仕事をしたことがあるが、彼の場合は日本語の文章の読み書きにまったく不自由はなかった。彼が言うには、中国人にとって日本語の文章はだいたい読めるという。だから日本語の会話ができれば、日本語ワープロを使うことで、ある程度の日本語の文章を書くことができるし、少し練習すれば、文末の処理にも慣れると言う。

まだ、ソフトウェア技術にバラつきがあるようだが、中国も、ソフトウェア・エンジニアの教育には国の方も力を入れているようなので、3〜5年程度で、こうしたバラつきも相当にカバーされるものと思われる。こうなると、インドのケースと違って、彼らは、日本という国の中に入って日本人のソフトウェア・エンジニアと一緒に仕事をすることもできる

日本のソフトウェア産業の将来を考えると、こうした高いレベルを身に付けたソフトウェア・エンジニアが日本に来ることは大いに歓迎すべきである。もちろん、そのあおりを受ける「ソフトウェア企業」もでてくるだろうが、それは、日本の他の産業にとっても好都合なのである。

ただ、中国のソフトウェア・エンジニアが日本に来て継続的に仕事をするには、多く障害が残されたままである。ビザの更新や国籍の取得が改善されていないと思われる。先に紹介した中国人の青年も夫婦が中国人であるため、日本の国籍が取れないことが障害となってしまったのである。ビザの延長も条件が明示されていないため、延長の申請が確実に通る保証はないため、正社員として長期採用しにくい。結局、彼は夫婦揃ってカナダに移住した。当時、カナダでは優れたソフトウェア・エンジニアに対しては、優先的に国籍が取得できたのである。

こうした優れたエンジニアが、日本という国に居着けないというのは、日本の将来を考えるととんでもないマイナスだし、こうした障壁を早急に排除しなかったことが、30年、50年後に、後悔することになるだろう。

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このような状況が進行しているので、まもなく日本のソフトウェア産業を守ってきた「日本語」の壁は崩れるでしょう。少なくとも、日本の国内の産業が、世界に競争力を持っているあいだ、あるいは競争力を持とうとしている限り、ソフトウェアの分野において「日本語の万里の長城」は崩れるはずです。

 2004年9月
 「硬派のホームページ」主催者より