本当の問題

(99/3/1 掲載)


 この国は、いまだに長い不況のトンネルから抜け出せないでいます。外国からは、“処方箋は分かっている筈なのに何やっているのだろう”と言う感じで見えているのかもしれません。もっとも、中で実施されている処方は、これとは別の内容になっているために一向に効果が上がらないのです。失業率は、4%の半ばに張り付いたままですが、期末から今年前半にかけて、人員削減を含むリストラが次々と実施されることを考えると、5%を越えるのは避けられないでしょう。

 それにしてもこの国は、本当のことを知らせない国です。国民は何も知らされず、ただじっと回復するのを待っている。自分たちは、いったい何をすればいいのか分かっていません。時々発表される「厳しい状況」とか「底入れ状態」という言葉も、そのまま信じている人はいないだろうが、かといって他に頼るものがあるわけではありません。

 もしかしたら、政府は「由らしむべし、知らしむべからず」という論語の一節を実践しているつもりなのか。もっとも、これは完全に間違った解釈ではあるが、戦前の教育の中で、これを為政者にとって都合の良いように解釈してきたことは事実だし、今でも政治家の中には、そう信じている人がいることも事実です。

不良債権処理だけでは回復しない

 今般、大手金融機関に対して不良債権の処理に7兆円を越える資金を投入しますが、それは回収の見込みのない不良債権を償却するためのものです。このほかに、不良債権自体は60兆円前後あります。そっちの方だって、何割かは回収できる保証はありません。いや、今のように問題の解決を先送りしていると、回収できなくなる可能性が高くなります

 政府は、今の不良債権の処理さえ進めば、景気は回復するような言い方をしていますが、それでは問題の根本に全く触れていません。金融機関を中心にした不良債権処理を進めても、その後ろから新しい不良債権が次々と生まれてくるはずです。

 根本の問題とは、この国の企業に「競争力」が無くなっていることです。今や、OECDの加盟国の中でも、下から数えたほうがずっと早い状態でです。

競争力のない企業を温存したツケ

2月21日、隣りの韓国では、就任1周年を控えて大統領を囲んで対話集会が開かれました。会場に集まった人だけでなく、地方とはTVカメラで繋いでの、国民との直接対話集会です。金大中大統領としてはこれが2回目と言うから、閉ざされた国に居る我々にとってはなんとも羨ましい限りです。これは大統領制の特徴でもあるのですが、ある意味では日本より開かれていると言えるかもしれません。

その中で、金大統領は次のように、今の経済状態と向かうべき方向について答えていました。

 「失業率は、今年前半に9%台に乗るかも知れない。・・大事なのは競争力を付けることである。競争力のない企業は、結局は国民や銀行の負担になる」

これなまことに的確な指摘であり、提示です。正直言って、この放送を見たとき、とても悔しい思いがしました。何が問題なのかを正しく知らされた国民は、幸せだと思いました。

 私はこれまで、このホームページの中で、「生産性の低い企業や組織は、社会に存続する合理的な根拠はない」というドラッガーの言葉を引用して、今の日本の問題は、生産性の低い状態が根本問題であることを言い続けてきました。製造業の生産性が、すでにアメリカの半分に落ちていることが問題だと言い続けてきました。

 今回の、金大統領の発言は、この「生産性」を「競争力」という言葉に置き換えたもので、むしろこっちの方が分かりやすいし、生産性が高くても必ずしも競争力があるとは言えないので、「競争力」という方が適切でしょう。

 要するに、この国の今の状態は、競争力のない企業、あるいは競争しようとしない企業を温存してきたことが原因なのです。「公共事業」などの栄養剤を点滴注射しながら温存してきたのです。それが今になって巨額の不良債権として私たちにのしかかってきているのです。労働者1人に対して100万円の「ツケ」が回ってこようとしているのです。そんなのイヤだといっても、私たちは失業を恐れるあまり、それ〔競争しない状態)を許してきたのです。


失業を認めていない

ではなぜ、もっと早く点滴のチューブを外さなかったのか。それは、点滴のチューブを外せば、確実に失業者が出るからです。この国の政府は、いまだに戦後の基本方針である「完全雇用」の旗を掲げたままです。失業者は、本来出ないことになっているのです。だから、失業を前提とした恒常的な政策や、労働者市場の育成などは、正面切っては出来ないし、失業が出ることが分かり切った「競争」を積極的に進めることもできないのです。

 昨年までの大手企業のトップの発言も、それを裏付けています。彼らは、押し並べて「企業の責任」として「雇用を守ることが第一」として掲げてきました。それが、結果として企業の競争力を無くしたのです。競争の原理に基づかない以上、当然の帰結なのです。

 QC活動などで、生産性を上げてきたにも関わらず、そこで余った人を、別の形で抱え続けたために、折角の生産性向上も競争力に繋がらなかったのです。このことは、90年に入ってQC活動が行き詰まりを見せている背景の一つです。生産性を上げるのはいいが、余った従業員をそのままどこかで抱えたのでは、何の意味もありません。

 この間、日本のQC活動を研究したモトローラの技術者が「シックスシグマ」として開花させました。しかもQC活動の時と違って経営改善手法として完成させたのです。皮肉なことに、三菱重工は「シックスシグマ」で武装した競争相手(ABB社)に追いつめられているのです。

 失業を認めなかったことが、全ての取り組みを中途半端にし、企業の競争力を無くす結果となったのです。だから、国内の企業同士でも、ほとんど競争らしい競争をしてこなかった。昔、アイワが生き残りを賭けて市場に低価格の製品を持ち込んだとき、国内の同業者は親会社のソニーに「監督不行き届き」ということで一斉にクレームを付けました。つまり、アイワの行動は「掟破り」だったのです。でも、その結果、〔一部を除く)家電製品の競争力は、今日まで維持されました。

 競争と失業は裏表なのです。単純に失業を押さえ込めば、自ずと競争が阻害されます。そうして、競争出来ない(しようとしない)企業は、世界に討って出ることが出来ず、国内にたむろし徒党を組むことになります。彼らは競争しないかわりに、談合や水増し、度を越した接待などが繰り返されてきました。一見、それによって売り上げに繋がるのですが、その分コストもかかっているので、まともな利益は出ません。それよりも、その度に企業の競争力が低下していくことに誰も気づかなかった。今の経営者の中には、それをやってきた当事者も混じっています。

必要なのは競争力

要するに、重要なのは「競争力」なのです。本当の意味での売り上げや利益は、競争力の結果なのです。巨額の国民の財産を使って金融機関の不良債権を処理しても、生き残った企業に競争力が無ければ、結局は、再びカンフル注射が必要になってきます。それは私たち、あるいは子孫へのツケとなって回ってきます。

 公的資金投入に合わせるように、大手ゼネコンがリストラを条件に巨額の債権放棄を要請していますが、これが実現したとしても、既に有能な人材はどんどん流出しており、地方自治体の入札条件の制限強化や、時代の流れからもビジネスとして成り立たなくなる方向にあり、結局は改めて不良債権化するでしょう。競争力の裏付けが無い限り、存続し続ける合理的根拠はないのです。

 この後、多くの企業では、不採算部門の切り捨てや、得意分野への事業の集中などによって、現時点で明らかに競争力がないと思われる部分はカットされるでしょうが、かといって、残された〔生き残った?)部門は、はたして競争力があるかどうか疑わしいのです。「競争力」の意味が分かっているかどうかも疑わしいのです。現に数年前に、ある自動車会社が接待を中止するという決定をしたとき、真っ先に反対したのは、営業担当の役員だったのです。

 確かに残した部分というのは、その時点で競争力があると判断された部分〔部門)ででしょう。問題は、それがどのような基準で競争力がある部分と判断されたかです。おそらく、全社の中で、相対的に収益が上がっている部分であったり、シェアが一定以上を獲得している部分であるということが判断の基準になるのでしょう。もちろん、今後の可能性という判断で残すこ部門もあるでしょう。

 そうして残された部分〔部門)が本当に競争力に基づいた強さを持っているのかどうかです。競争相手も、同じように不採算部分をカットして対応してくるのです。その分、今までとは違った動きをするでしょうから、こっちは、それ以上の動きをしない限り市場を失うことになります。

チーム内での競争を!

 企業・組織に競争力があるということは、その中の構成員である従業員一人ひとりが競争しているということです。組織の誰も競争していないのに、その企業が競争力を持っているということは、商業的ルールを越えた「特権」〔既得権の擁護を含む)を与えられない限り実現しないでしょう。

 したがって、いったい我が社に競争力があるのかないのか、それを見る方法は、社内で、いやもっと小さな単位組織〔課やグループやそれ以下の「組」など)で競争しているかどうかを見ればいいのです。従業員が、会社が何かをしてくれるのを待っているとすれば、とても競争力があるとは言い難い。少なくとも、遠くない時期に競争力を失うでしょう。そこには競争力を維持できる合理的根拠は見出せないでしょう。

 組織内で競争すると言うことは、同じチーム内で、技術や知識の勉強のテーマを競い、日常の作業の効率を競い、お客さんの満足を競い、報酬を競うことです。組織は、このような競争がうまくできるような仕組みやルールを用意することです。今日では、インターネットなどの普及が、それを容易にしてくれているではありませんか。

 組織としての最低限のマナー〔人の足を引っ張らない、競争結果で個人攻撃しない、など)をはっきりさせたうえで、それ以外に「自由」に競えばいいのです。「ISO」「CMM」も、組織で行動するうえで守るべきことを決めて、それ以上は自由に競えばいいのです。もっと良い方法を競えばいいのです。隣りのグループがうまくやったのなら、こっちは、別の方法を考えればいいのです。これが企業・組織の競争力となって表に出てくるのです。

 学校の試験と違って、仕事にはいろんな形で競争が可能です。ある分野で勝てないとすれば、違った分野で挑戦すればいい。必ずしも競争に負けたからそこに居れないということでもありません。成果と報酬とをリンクすることで存在する方法もあります。いずれにしても結果不平等を避けていては、組織の競争力は低下していくでしょう。

 もちろん、競争する自由もあれば、競争しない自由もあります。その選択は本人の自由ですが、その結果として大きな「差」が開くことに文句は言えません。自分が選択したことである以上、その結果は受け入れなければなりません。それが「自由」ということです。

             ◆  ◆  ◆

 このホームページをご覧の皆さんは、一刻も早く、日々の中で競争力を身に付けることです。それが、皆さん自身の人生を創造していくことになるのです。どのような時代になろうと、少なくとも「社会主義社会」でない限り、「競争力」は皆さんの身を守ってくれるはずです。

 皆さんが、問題の本質を見誤ることなく、時代の求める役割りを演じ続けられることを祈っています。

 1999年3月

 「硬派のホームページ」主催者より