「Manage」を辞書で引けば「権限を持つ人が、巧みに人を使用し、細かなところまで気を配ってある目的を達する。あるいは事業をおこなう」とあります。マネージャーとは、まさにその「権限を持つ人」です。
しかしながら現実に「人をその気にさせて」いるマネージャーはどれだけいるでしょうか。目的を達する為に「細かなところまで気を配って」いるマネージャーはどれだけいるでしょうか。残念ながら、そのようなマネージャーは少ないといわざるを得ません。特に技術系の部署にあっては殆どいないと言っても過言ではありません。
「SCだより」(90号)にも書きましたが、技術畑の人は、自分自身「管理されたくない」という思いから、「管理」を忌み嫌う傾向があります。しかしながら、彼がイメージしている「管理」は、「人をその気にさせ」る管理ではありません。そんなものは見たことがないため、想像もできないでしょう。ましてや、“「Manage」とは何ぞや”なんて追及することもありません。
結局、間違った妄想によって、「管理」を正しく認識することが出来ず、「管理」を正しく身に付けることもできず、間違った管理をやってしまうことになるのです。
多くの人の抱いている「管理」とは「Manage」ではなく「Control」なのです。ちなみに「Control」の意味は“規制または制約を与えて厳重に指導して支配する”です。つまり「裁量」を与えないのです。多くの人は、これを「管理」と思っています。だから管理者になった途端に、権限を行使して支配しようとする。「任用」せずに自分の手足として「使用」しようとする。
技術や権限の看板だけでは人はついて来ません。従うように見えても、それは命令や恐怖に基づくものであって本心からではありません。人は「人」に動くのです。それまで毎年500枚以上もの年賀状が届いていたのに、会社を定年で退職した途端に20分の1になってしまったという例もあるのです。
もう一つ、技術畑のマネージャーの陥る危険は、どうしても「技術」を優位に考えてしまう結果、管理の問題を技術で解決しようとする傾向があることです。
『ソフトウェア開発 201の鉄則』の原理127には、「優れた管理は優れた技術よりずっと重要だ」とあります。だが、技術系の人には、これを認めたくないかも知れません。もちろんその時にイメージしている「管理」は本来の管理ではないとすれば、そんな管理は技術と肩を並べるものですらありません。しかしながら、正しい意味での管理は、技術よりも遥かに重要なのです。
そして原理128には「適切な解決策を用いよ」とあり、そこでは“技術的な問題には技術的な解決策が必要で、管理的な問題には管理的な解決策が必要で、政治的な問題には政治的な解決策が必要である”と指摘しています。これもたいへん重要なポイントです。
組織にはいろんな問題が起きます。製品の不具合やスケジュールの遅れ、組織内部での責任の所在をめぐっての争い、などなど。しかしながらそれらのトラブルは技術の不足が問題なのか、管理の不手際が問題なのか、政治的な行動が為されなかったことの問題なのかを明らかにしたうえで、適切に対処すべきなのです。
たとえば、あるグループのプログラムの品質の問題は、技術の不足が原因というよりも、物事を「決める」人が存在していないことが原因ということもあります。だとすれば、プログラミングや設計技法のトレーニングだけでは、問題の解決に繋がりません。本当の原因は「管理」にあるのですから。
また、担当者の作業の段取りの悪さは、直接その人のところに仕事の依頼が入ってしまう管理の仕組みが原因であったり、回りの人たちの作業が計画されていないため、何時、どのような作業がその人のところに流れてくるか明らかにされないことが原因かもしれません。だとすれば明らかにこれも「管理」の問題です。
表面に現れた現象に騙されることなく、問題の本質を見抜き、その問題に適した解決策を講じる必要があり、これこそマネージャーの仕事です。「目的を達する為に細かなところまで気を配って」、そこにいる人たちの「ベクトル」を分散させないようにするのがマネージャーの仕事です。
部下(21世紀に不適切な用語かも知れない)の人生を考え、その人がいい状態で長く仕事を続けられるように、必要な技術の習得の機会を作ったり、それを妨害するような状況をブロックすることもマネージャーの仕事でしょう。その中で、「今」マネージャーに課せられた仕事(プロジェクト)をこなすために、彼らの力を借りるのです。
部下(メンバー)の将来も考えず、その時点で課せられたプロジェクトを完成することだけしか眼中にないのなら、メンバーの力を結集することは望めないでしょう。
人は、自分の人生を考えてくれる人、仕事を通じて感激を分け与えてくれる人、生きる力を与えてくれる人に自分を捧げるのであって、人生を踏みにじり、生きる力を削ぐような人に自分を捧げるような人はいません。このことは逆に言えば、マネージャーとは、人に生きる勇気を与え、感激を与える事の出来る立場でもあるのです。勿論、そのために「決める」という困難な行為を全うしなければなりません。しかしながら、その人がメンバーに生きる力を当たるような人なら、その困難を全うする力を、彼のメンバーは惜しみなく提供するでしょう。それが感激を得ることであり、生きる力を得ることに繋がることを、彼らは知っている、いや“感じて”いるのです。
まもなく、「命令もされず、命令もできない」時代が来ます。そのとき、ただ権限を背負っての命令は、殆ど意味を成さないでしょう。組織が「プロフェッショナル」で構成されるようになれば、そこには住人のいない机しか残らなくなるでしょう。今のところ、多くの組織では「プロ」集団で構成されていないため、そこに居る人たちは、表面的には従っているように見えても、メンバー間の情報は滞り、作業は遅れ、「決定」は空気のように軽く、各自が自分の「壷」の中に入ったまま自分の事しか考えない・・・。そんな組織から、一体何が産み出されると言うのでしょうか。
一人の喜びを皆の喜びに広げ、一人の悲しみを皆で薄め、“そこ”で仕事をすることに喜びを覚える。そしてそこに居る人たちが、日々向上することに愉びを感じるようでなければ、“マネージメント”とは言わない。そしてマネージャーはそれが出来る役回りなのです。何と素晴らしい役回りであることか!