この国は、「管理」というものを避け過ぎています。「管理」という言葉が、過去の忌まわしい時代を彷彿させるのか、それとも、そのように教育された所為なのか。
そのために、「管理」という言葉の使われる場面も、「管理教育」とか「管理野球」「徹底管理」「時間管理」といった使われ方をしていて、イメージは良くありません。何だか「管理」と「監視」が同じようなイメージで捉えられているようです。
だが、本来「管理」というのは、後方支援であり、ロジスティクスの要素を多く含んでいるものです。戦争も、これ無しでは作戦がちぐはぐになってしまうし、物資の調達や兵員の配置が上手く行きません。そのような状態ではとても戦えないし、前線の兵士の志気は上がらないでしょう。かってのソ連軍のアフガニスタン進行は、まさにそのような状態でした。それぞれのセクションがばらばらで動いてしまい、全体の管理が為されなかったために、効果的な作戦が立てられず、兵士は正に生きたまま地獄に連れていかれたのです。
ソフトウェアの世界も、基本的には同じです。
「管理」は手足を縛るものであってはなりません。もし、何らかの規制が必要であるなら、それは「管理」ではなく「契約」で実現すべきです。何を契約するか、そして契約した内容に対して、適/不適を問題にすればいいのです。そのようなところに「管理」を持ち込む必要はないのです。
ところが、わが国では「契約」の概念が乏しいため、適/不適のチェックが「管理」の役目となってしまっているのです。さらに減点主義的発想も、この「管理」と手を繋いでしまい、まさに、「管理」は関係者の一挙手一投足を“見張る”役目に落ちてしまったのです。
「君の管理がなっていないからだ」という叱責の言葉からは、まるで、監視カメラを連想させます。金融の分野での不祥事を見ていると、「管理責任」を問われるとき、欧米では、問題の当人が反れた行動をしていることを検出する方法を講じなかったことが問われているのに対して、日本では、目を光らせていなかったことが問われています。これでは「管理責任」ではなく、「監視責任」になってしまいます。
「管理」は支援活動であり、人々のやる気を引き出す活動でなければ意味がありません。
“マネージメント”は“リーダーシップ”と対になって、初めて大きな効果を上げることができるのです。リーダーシップは、正しい方向を見定め、その方向に全員を引っ張っていく力です。開発の方法や、設計方針、アーキテクチャの選択、ライフサイクル・モデルの採用、分析や設計技法の選択、品質保証の標準や手順など、「正しい」と思われる方向に引っ張っていく「力」です。時にはワンマンになることもあるでしょうが、その場合は、その背景に確たる信念と見通しが必要になります。そうでなければ、多くの人を説得することはできません。
ラグビーの平尾氏は、その著書の中で、「チームリーダーは30%の謎を」ということを書いています。それくらい理解されない部分があっても、それはリーダーがそれだけ「先」を考えている証拠であれば、説得できるはずです。
そして、マネージメントは、そのリーダーシップを支える形で、「方向」に対して必要なリソースを用意したり、その後のフォローの為の体制を整えたりします。この「管理の為の体制」は、走り始めてから現状分析し、「方向」とのズレをチェックし、リーダーや関係組織に必要な情報をフィードバックします。
効果的な管理とは、リーダーシップを支援するためには、何を測ればよいのか、それをどのように加工して判断すればいいのかが考えられていることです。
しかしながら、わが国では、このような角度から「管理」というものを捉えられていません。そのため、「管理者」は「経験者」と同義に捉えられています。経験すれば管理ができると思われています。もちろん、経験していることは「管理者」にとって有利に働きますが、それは、別に管理者としてのスキルを持っている場合にいえることです。
特に、経済がグローバル化され、市場の要請が変化し、どこから競争相手が出現するか分からないような時代にあって、「経験者」というだけでは「優れた管理」を実現することは難しいでしょう。特にソフトウェアの世界にあっては、確かに「経験者」はそれまでの業務に於ては相当の成果を上げてきたかも知れませんが、時として外部世界と有効な接点を持っていない可能性が高く、経済の国境が取り払われた今日の状況に、明日から直に対応せよと言うのは気の毒です。
チャンピオン・ベルトを手に入れたボクサーに、来月から突然「Kー1」のリングで闘えと言うようなもので、まるで「世界」が違います。
組織は、有能な技術者を、管理者としても有能であって欲しいと願うなら、それに相応しい教育を実施すべきです。その企業の理念に沿いながら、時代の求める管理者に育ってもらうために、適切な教育の場を彼に与えるべきです。
それは「選択肢」の問題ではありません。もし、これを怠れば、組織は次第に衰退して行くことになります。技術者として有能であった人を、その活躍の舞台を取り上げるのですから、間違いなく組織の力は落ちていくはずです。
「管理」とは何か?
もう一度、いや、今こそ「管理」の在り方を見直して頂きたいのです。
▲東海村の動燃再処理施設で「レベル3」の事故が起きてしまった。見方によっては先の「もんじゅ」の事故よりもはるかに質が悪い。「もんじゅ」のナトリウム漏れの方は、技術的に確立していない部分であり、事故の可能性はもともと高かったが、今度の事故は、事故に慣れきった関係者の怠慢であり、判断ミスである。状況の把握も怠った上に、報告も遅れた。
▲さらに悪いことは、放射能が建物の外に漏れたことだが、それも、最初は外部に漏れていないと発表していたし、環境への影響はないと発表していた。これが全くウソであったから質が悪い。毎日、隠す事ばかり考えているから、事故に対して、瞬間的、反射的に取られる行動が、最適な行動ではなく「隠す」行動となってしまうのは悲しい。
▲この国は、別のセクションで起きた事故は教訓にならないようだ。それに「複雑系」をコントロールするようなシステムを考える能力が不足しているように感じる。阪神大地震から2年が過ぎたが、あの大災害を教訓にして、効果的な防災システムが作られたという話は聞かない。近隣自治体との物資の融通協定や、ヘルコプターの応援体制の協定は結ばれているようだが、実際に上手く機能するか怪しい。
▲原子力発電所は、立前上、事故は起きないことになっているために、事故を想定したシナリオが書けないし、それに基づいた対策を講じることは出来なくなる。熱源を使い、動力を使っているにもかかわらず、火災の発生を想定していないこと自体ナンセンスなのである。いい加減に「立前」の世界から脱却しないと、世界の物笑いになるだけだ。
近くのおばさん達の立ち話の輪から、「これからは情報化社会だから、自分たちも遅れないようにしないとね・・」という会話が漏れてきた。今では「情報」という言葉を耳にしない日は無いだろう。
テレビのニュース番組を見ていても「何か新しい情報が入りましたら・・・」とい言葉が使われているし、番組そのものも「情報・・・」という具合である。バラエティ系の番組では「美味いフランス料理の穴場情報」といった「・・・情報」というフレーズが氾濫している。
本屋さんに行っても、「就職情報」「リサイクル情報」「中古パソコン情報」等など、何と「情報」の安いこと。果ては「情報産業」という訳の分からない産業分類まである。
このように今日では「情報」という言葉に殆ど何の抵抗も無く接しているが、一体「情報」って何だろう。
▲―▼
統計上、日本も六軒に一軒の割でパソコンが普及したという。その所為かインターネットが繋がりにくくなった。そのインターネットも、三年前にはこの国では殆ど存在していなかった。二年間で此処まで広がったと言ってもいいだろう。それも「情報」の仕業か。
普段、会社ではワープロ程度しか使っていない人も、「インターネット」や「情報」という言葉に脅迫されてパソコンを買っている。「これからはインターネットぐらい使いこなせないと・・・」と思っているのだろうか。
そして、説明書片手にモデムを繋いでブラウザソフトを動かす。電話番号やメールアドレス、アカウント名、パスイワードをセットするように書いてある、何の事かと思いながら必死の思いでセットしていく。そして接続開始。“ピッポッパッポッパ”“ビービー”“ブーバー”という訳の分からない「音」を発するモデム。そして一瞬間をおいて「繋がった!」という感激を味わう。「あぁ、これがインターネットか」。
▲―▼
だが、これで「情報」が手に入ると思ったら大間違いだ。多くの人にとって、情報なんて殆ど存在しないだろう。極論を言えば、もともと「情報」なんて何処にも存在しない。そこにあるのは「事実の断片」であり「状況の表現」である。それらが「情報」になるのは、受け手の「意図」が働くからである。
例えば、新聞にも「情報(の素)」は沢山書かれている。だが多くの人はそこから「情報」を取りだしていない。「円が一時的に一二四円を越えた」「平均株価が一七五三六円で、取引量が一億八千万株」「製品輸入の増加と貿易黒字の減少・・」「失業率が三・四から三・三%に改善」・・・もっと多くの情報の素が一日の新聞の中に存在しているが、多くの人にとってこれらは殆ど「情報」になっていないのではないか。
▲―▼
そういうこと(事実)があったということを知っただけでは、「情報」を手に入れたことにはならない。多くの場合、新聞の見出しを拾う程度であり、連続する時間の中でそれらの事実を捉えていない状況では、事象の認識以上にはならない。
「情報の素」は、受け手が「意図」を持って集めたとき、始めて「情報」となる。「何が起きているのだろう」「どうしてだろう」「こう言うものはないだろうか」といった「意図」があって始めて情報は集められ、整理されるのです。そうして関連づけられた結果、情報は読み手の「意図」に対して何かを表現する。つまり判断の材料として形を成すのです。こうなって始めて「情報」となるのです。
情報とは、自分の生活や行動に対して、有効な判断の材料を与えてくれるものなのです。
▲―▼
ソフトウェアの不具合の報告書も、それが一冊のファイルに閉じられているだけでは情報でも何でもありません。単なる「不具合の記録」に過ぎません。だが、それは間違いなく「情報の素」を含んでいます。読み手が、これに対してどのような「意図」で接するかが問題なのです。意図が無ければそれは「二四一件の不具合があった」という事実を表しているに過ぎないのです。
でもそこに「不具合をもっと減らす方法はないか」という「意図」を持ってこの情報の素に接したとき、この一冊のファイルは今までとは違った姿をあなたの前に現わすでしょう。時間軸で捉えてみたり、発生ケ所で捉えてみたり、ピア・レビューの実施記録と照合してみたりすることで、次の行動の判断材料として利用価値の高い情報となるのです。
▼―▲
やっとの思いでインターネットに接続できた人たちも、普段から「意図」を持つ習慣がなければ、そこからはあまり有益な情報は手に入らないでしょうし、いずれ電話代とプロバイダ料金の出費が気になるようになるかも。 ■
「不運に耐えるよりも、幸運に耐える方が
より大きな美徳を必要とする」
ラ・ロシュフーコー(フランスのモラリスト)
ある本を読んでいたら、不思議な言葉を見付けてしまった。というより、私の目がその行に止まったまま、そこから動かなくなった。ナンダコレハ!
だが、この言葉の意味を考えている内に、人間の持つ弱点を見事に突いていることに気付かされ、その見識の深さに感動した。が、すぐその後に、私を襲ったのは、なんともやりきれない憂うつさであった。
それは他人事ではなく、自分の中の物陰に潜んでいることに気付いたのと、この国そのものが、幸運に耐える美徳を持っていなかったのではないかという思いである。
戦後の荒廃に、この国の人たちは耐えた。住むところに耐え、食べ物に耐え、貧困や不衛生に耐えた。自分たちは構わないが、子供たちにはこのような思いをさせたくないと、一所懸命に耐えた。それはまさに「美徳」と言えるものだろう。時代も、そのようなわが国に味方してくれた。美徳は幸運をもたらしたのである。
そうして掴んだ「経済大国」という幸運に、この国は酔ってしまった。舞い上がってしまった。成り上がり者よろしく、世界に対して札びらを切って回った。まるで、町内総出の清掃作業を免除してもらうかのように、「金」をばらまいてきた。国のレベルでも、個人のレベルでも、全く同じことをやってきた。その間に、国家とは何か、国民とは何かということを考えることもせずに。
人は、寒さや貧乏や不自由には耐えることが出来るが、ひとたび、温かさを手に入れ、富を手に入れた途端に、堕落しやすいようである。以前の不運の状態を恥じて、隠そうとすらする。幸運を手に入れた途端に「糟糠(そうこう)の妻」を捨てようとする。
確かに、富は手に入れたかも知れないが、幸運に耐える美徳を持ちあわせていなかったために、それ以上に失ったものがあるのではないか。
(註)「糟糠の妻」の“糟糠(そうこう)”とはヌカミソのことです。つまり自分の不遇の時期に、一緒に4畳半一間の生活に耐えてきた妻のことです。有名人になった途端に、回りに集まって来る若くて綺麗な女性に目移りして、糠ミソ臭い皺だらけの手をした妻が煩わしくなってくる様子を表しています。時々週刊誌のネタになっていますね。