相次ぐ金融機関の破綻を契機に「ゼネラリスト」の存在、或いはその“市場価値”が問題になっています。彼らはいわゆる「総合職」と呼ばれる人たちです。
10数年前、男女雇用機会均等法が実施される際に、金融機関は率先して「総合職」と「専門職」という2つのコースを設けました。別に新しく考えたわけではないと思いますが、既得権の確保や、女性の処遇の仕方に関するノウハウを持ちあわせていなかったことなどからも、この種の言葉が表に出てきたものと思われます。そのほか、当時すでに見えていた「ポスト不足」などにも対処することも狙っていたものと思われます。
その当時の詳しい“意図”は知る由もありませんが、結果として、それまで通りの「経験」を積み上げていく形の出世コースとして「総合職」のコースは機能したようです。逆に「専門職」コースは、救済のコースとしての役割を果たすことにもなりました。いずれにしろ、今、権限を握っている「自分たち」を「総合職」と位置づけ、「専門職」に対して“優位”に位置づけたわけです。そこには、「自分たちは、一通り“専門的”なことをやってきた上で選ばれた者」という意識を垣間見ることができます。もちろんその判断は独り善がりの判断であって、今になれば、全く世の中に通用しないものであったことは明らかです。
しかしながら、今日において、グローバル・スタンダードの尺度の中で、この「ゼネラリスト」の存在に疑問符が付けられています。日本の金融機関が育ててきた?ゼネラリストは、「グローバル」の世界では存在できないのです。
彼らはこれまで「広く浅く」をモットーに育てられてきました。組織の中のいろんな人の意見や立場を取りまとめることが仕事であると教えられてきた可能性があります。だから、それぞれの分野の専門的な知識やノウハウよりも、「経験」が物を云う仕組みになっていて、そのため、最終判断は自分たち「総合職」の手の中に確保してきたのです。
専門職の方も、判断まで任されていないので、どうしても取り組みが浅くなるし、全体として人数の多さから、一人の専門としての守備範囲も狭くなることも手伝って、結局、総合職を越えることが出来ないのです。
引き金となった金融ビッグバン
こうして“ジャパニーズ・ローカル・スタンダード”の中で、「ゼネラリスト」はその地位を確保し、脅かされることはなかったのですが、このことが多くの企業にあって、活力を失わせる原因となったのです。そして皮肉にも、金融ビッグバンを目前に控えて、金融機関の中で「総合職」を選んだ人たちは、時代の変化の中で行き場を失っているのです。
このことは、何も破綻した金融機関に居た人だけの問題ではありません。存在し続けている金融機関に於いても、まったく同じ問題が存在しているのです。そこでは、“ジャパニーズ・ローカル・スタンダード”に基づいた「ゼネラリスト」が、同じように存在しているのです。
しかしながら、日本企業どうしの第1ラウンドに生き残っても、来年4月以降の第2ラウンドには外国企業も参加します。それらの企業は、“グローバル・スタンダード”に基づいた「専門」で身を固めた僅かな人たちで構成され、コスト体質も日本の企業とは比べ物にならない程に優れています。そうでない企業は日本まで乗り込んではきません。そして、1999年、2001年と、第3、第4ラウンドが続いているのです。
“ジャパニーズ・ローカル”の「ゼネラリスト」は、第1段階で残ることが出来ても、そして、何らかの規制(=保護)によって第2ラウンドも残ることができたとしても、そのままでは第3ラウンドではとても残ることは困難です。もし、そこでこの「ゼネラリスト」を残せば、逆に国そのものが沈んでしまう危険が高くなります。既に始まっている中国とアメリカの直接の連携が、その可能性を一段と高くしています。
そして、第2ラウンド以降は、バトルは金融界だけに限らず、基本的には全ての業種で展開されることになります。もちろん規制が存続する度合いによって時間的なズレが生じますが、海外の企業と製品やサービスが競合する企業にあっては、順次生存のバトルが展開されることでしょう。
それにしても、もっとも保守的な業種と思われていた金融界が、逆に真っ先に“グローバル・スタンダード”の洗礼を受けることになるとは皮肉なものです。
金融界だけの問題ではない
このように、“ジャパニーズ・ローカル”の“ゼネラリスト”の問題、すなわち“専門性の欠如”という問題は、決して金融界だけの問題ではありません。一般のメーカーに於いても、同じような人事が行われていると考えられ、それらの組織・企業では新しい時代の要請に対応できないという問題に遭遇するでしょう。
その証拠に、ソフトウェアの世界においても、それぞれの部門の“マネージャー”という呼称を持つ人はいても、
●「プロジェクト・マネージャー」
●「ソフトウェア・マネージャー」
●「プロセス・マネージャー」
という人はいません。
組織構成図において、稀に目にすることはありますが、その「専門性」については、殆どの場合、不十分であると云わざるを得ません。また、“目にする”といっても、精々「プロジェクト・マネージャー」ぐらいで、「プロセス・マネージャー」は見たことがありません。もちろん、そのスキルは全く不十分です。
これらの人は、明らかに「専門領域」を持ったマネージャーであって、いわゆる“ゼネラリスト”を意味しているのではありません。敢えて“日本的に”云えば、「高い専門技術と、マネージメントのスキルを身に付けたゼネラリスト」ということになるかも知れませんが。
だが日本の場合、そこにいるのは、“日本的ゼネラリスト”の予備軍としての「リーダー」しか居ません。残念ながら殆どの場合、「リーダー」には、明らかに専門性が不足しています。それに責任範囲も守備範囲も狭すぎます。つまり、最初から「リーダー」としての“市場性”に欠けているのです。そのため、専門職としての領域に到達しないのです。
彼ら“リーダー”もまた、このままでは『ハンメルンの笛吹き』に操られるかのように、「日本的ゼネラリストの淵」に落ちていく危険が高いのです。この『笛の音』が聞こえなくするためには、
1.そこに居る「日本的ゼネラリスト」自身が変身するか、
2.「日本的ゼネラリスト」の影響を受けないように組織を切り離すか
の何れかしか無いかも知れませんが、ただし、果して権限を握っている「日本的ゼネラリスト」がこの判断(本当は“決断”)が出来るかどうかは、怪しいと云わざるを得ません。
というのは、この問題について「決断」が出来るためには、知識だけでなく、“こうあるべき”という「見識」と、おそらくは困難を突き破る「胆識」が必要になるのですが、これは一朝一夕に身に付くわけではありません。この国の「責任者」が問題を先送りしてきた理由は、まさに「此処に」あるわけですから。
マネージャーは専門職
これまで、日本の職場の中にあって、“マネージャー”という呼称は「管理職」を意味し、同時に「ゼネラリスト」的に使われてきました。実際、「部長」「課長」という呼称を、「マネージャー」と置き換えているだけのケースも多々あるようです。
しかしながら、本来“マネージャー”は「業務遂行に必要十分なマネージメントのスキルを備えた専門職」です。その証拠に、金融界に於ける「ファンド・マネージャー」は明らかに専門職です。ただし専門職だからといって、「一人」で行動するとは限りません。ファンド・マネージャーで、数十人のファンド・マネージャーを“マネージ”している“マネージャー”も居ます。彼自身、シニア・マネージメントでもあるわけです。日本流に云えば、「管理職(部長)でありながら、ファンド・マネージメントの専門家」ということになります。
したがって、この意味から「社長」も「会社経営の専門家」ということになります。
注意して欲しいのは、ただの「シニア・マネージメント」は通用しないということです。そのまえに、専門の分野を持たなくてはなりません。この点については別のページ(「管理職」にご注意あれ!) で触れていますので、そちらをご覧下さい。
経験だけでマネージャーは勤まらない
今日の「ゼネラリスト」の問題の背景に、経験だけでマネージャーの役に就いているという現実があります。特に、ソフトウェア開発の職場では、もともと“上手く”プロジェクトを遂行している組織は殆どないわけで、そこにいる人たち、即ちリーダーや管理者を含めて、上手くプロジェクトを推進できるノウハウを持っている訳ではありません。にもかかわらずマネージャー(あるいは管理者)の立場に就かざるを得ないということが問題なのです。
彼らは、“マネージャー”の役を果たすために、一体何を学べば良いのかを知りません。いや、もっと正しい言い方をすれば、それを知る時間も機会もありません。結果的に専門のスキルを身に付ける間もなく、“マネージャー”の役に就くわけで、その結果、いわゆる「広く浅く」のゼネラリストになるか、メンバーの“意見”をまとめるだけのゼネラリストにならざるを得なくなります。
そして、一旦そのような形でゼネラリストとしてのマネージャーの役に就いた後は、余程、上級のマネージャーに恵まれないかぎり、マネージャーとしてのスキルを身に付けることは絶望的になるわけです。
ゼネラリストからの訣別
もはや、“ゼネラリスト”とか“総合職”という意識は、早く捨てたほうがいいでしょう。そのような意識はむしろ、職業人としてのあなたの人生にとって障害になる可能性すらあります。それよりも、もっと専門性を高めて下さい。
すでに、“マネージャー”という立場にある人で、取り立てて“専門”と云える技能や技術、ノウハウなどを持っていない(と自認する)人は、特に急いで下さい。今後、「半年」の時間の中で、専門分野を修得する何らかのきっかけを手に入れなければ厳しい状態に直面することでしょう。
半年後には、今以上にコストや開発期間の引き下げが求められる可能性があり、そうなってからでは、今以上に日々の業務に追われる危険があるからです。半年で、それらの専門技能を修得することは不可能ですが、せめて、専門性に対する学習の手応えや、日常的に学習する習慣を手に入れて欲しいのです。自分が学ぶに値する専門性についてのテーマを見つけて欲しいのです。
そしてもう一つ、“マネージャー”としての新しいスタイルを、次の世代に確実に伝えて欲しいのです。自分がそれまでの組織の中で受け継いだスタイルを捨てて、21世紀にあって自らを託すことの出来そうなスタイルを、次の世代に見せて欲しいのです。そうでないと、あなたの代で組織は途絶えてしまう危険があります。そのようなことはとても想像できないかも知れませんが、決して在りえないことではありません。
実際、100年という「歴史」を持つ企業であっても、その組織が多くの“専門性に乏しいゼネラリスト”の集合体であったがために、時代の求める企業の有り様の方向に舵を切れなかったとすれば、それは、何も金融機関に限った話ではないことは、云うまでもないことでしょう。
時代は変わっているのです。