「捨てられる技術者」


 日経エレクトロニクスの2000.12.4 号に、「捨てられる技術者」というタイトルの特集記事が載っている。おそらく、多くの人がこの特集記事を目にしたことだろう。もっとも、その人たち全員が、この記事を読んだかどうかは怪しいところがある。この種の記事を読むには、それなりに勇気がいる。まさに、自分のことが書かれていると感じることが少なくないからである。
 だが、現実に目を閉じても何も得られない。それでは,ライオンを前にして、砂の中に顔を突っ込んで恐怖を避けるダチョウ(本当にそんなことをするのかどうかわからないが)と同じである。むしろ、“なるほど、自分はそのような位置に居るのか”というように、これを正面から自分を見つめる機会にして、すぐにでも対応すべきである。

技術者だけではない

 最初に断っておくが、この問題は、何も「技術者」に限ったことではない。掲載された雑誌が、「日経エレクトロニクス」だったから“技術者”になっただけで、これが経営者などが読む雑誌であれば、「捨てられる管理者」となるだけであり、金融の分野の雑誌であれば「捨てられる銀行マン」となる。今日の日本においては、“捨てられる”原因は共通して存在しているからである。企業内の制度は、相変わらず戦後の慣習の枠の中から出ようとしていない。「人事」などは、その最たるものである。本来、時代を先取りして、他部門に“仕掛ける”ぐらいでなければ組織は変わらないのに、旧態依然の典型となっている。
 ある家電メーカーが、さきごろ「部課長制度を廃止する」というニュースが流れた。プロジェクト単位での行動にあわせる形をとるのだろう。ただ、そのための準備をどこまでやっていたかは、ニュースからは窺い知ることは出来ない。今までの制度にな慣れた人たちが、急に、「プロジェクト・マネージャー」だと言われても、簡単に行動できるものではない。
 日本ではこれまで、急に制度を変えてくることが少なくなたったが、これでは成功しない。考え方を切り替え、必要な知識を与え、上手く行動できるようにトレーニングの機会を作って行かなければ、成功するものではない。「執行役員制」も、同じであるし、従業員の評価の仕方も、突然、全社で実施するようなことでは、混乱するだけだ。
 「ゼネラリスト」という意味不明の存在を正当化し、正しい意味で「専門職」を育ててこなかったことが、ここにきて企業の行動の選択肢を狭める結果となっている。

なぜ捨てられるのか

 21世紀を前にして、食品や、電機製品のトラブルが表面化していている。12月から始まったBSデジタル放送でもトラブっているし、H2Aに至っては、今ごろになって、エンジンを作り直すと言い出した。しかも「安全性には問題はないが、作り直すことで万全を期す」という声明に内在する論理矛盾に、関係者が脳内窒息を起こしている様子を見ることが出来る。この思考では「万全」を定義できないだろう。
 ソフトの分野でも、あまり表面化していないが、開発が大幅に遅れたり、多くのトラブルを出したりしている。このホームページの他の所にも書いたが、頭数ばかりで「設計」できないSEが多すぎる。そこからは、かって70年代から80年代にかけて、アメリカを震撼させた「技術の日本」のイメージには遠いものがある。
 なぜ、こんなに弱くなったのか、という議論には、ここでは深入りしないが、少なくとも言えることは、「技術的な参入障壁」が低すぎることがあげられる。その仕事に従事するために必要な知識や技術が全く不足しているにもかかわらず、“経験年数”だけで「エンジニア」のつもりになっているし、マネージメントに必要な知識や技術を持っていないまま、同じ論理で「管理職」に就いてしまう。あるいは“就けて”しまう。周りも同じだから、違和感が無いのだろうが、これでは組織はもちろん、個人も命取りである。だから「課長よ現場に戻ろう」といったのである。
 適切に「差」をつけず、「競争」を促さなかったことが、個人の停滞を招いてしまったと見ることも出来る。「差」を付けないということは、「評価」を避けたことを意味する。個別に評価しないことで、たとえば医者の資格があれば一様に医者として扱われる。そこに必要とする技術を明確にしなかったため、逆に「小児科医」が過小評価されている。必要とする技術は、高度な技術を必要とする外科医にも匹敵するにもかかわらずである。「看護婦」も同じである。このままでは、日本から「小児科医」は消えてしまうだけでなく、彼らの多くは、「捨てられる医者」や「捨てられる看護婦」となってしまう。それは同時に、日本人の命が危険にさらされていることを意味する。そこで起きている問題は、「ソフトウェア」の世界で起きていることと「相似形」なのである。つまり、それぞれの「役」の人が、本来の「役割」を全うしていないのである。「アマチュア」なのである。21世紀を前にして日本中で“捨てられる”状態が迫っているのである。

 結局、組織をあげて、いや日本中あらゆる所で、自分の「コミットメント」を忘れた状態で、毎日「忙しく作業を“する”」ことがまかり通ってしまっているのである。ソフトウェアの世界だけでなく、学校にあっても「教師」や「校長」としての「コミットメント」は存在していない。今日では、「自分のコミットメント」を意識して行動する教師は、“職員室”の中では浮き上がってしまうだろう。特に、校長が自分のコミットメントを持っていない状態では、間違いなくそのような教師は排斥される。そうなると、学校の中は「感情」に支配され、「理性」によるコントロールは効かなくなる。そこで語られる「命の大切さ」の、何とむなしい響きであることか。
 議員や役人(警察も含む)も、「パブリック・サーバント」としての「コミットメント」なんか忘れ去った状態である。相次ぐ、警察官の不祥事が報道されようと、「コミットメント」を意識しない別の警察官にとってそれは全くの他人事でしかない。記者会見の場で、起立して頭を下げても、その場を離れた途端に「やれやれ」と一件落着してしまう。同じよな不祥事が起きないような方法を考えたり対応策を講じるのは、それが自分に課せられた「コミットメント」だという自覚があるからである。そのような「コミットメント」が存在していない状態では、新潟県警の問題も、たんなる「対岸の火事」でしかなくなってしまう。

一冊の文献も読んでいない

 自分の「コミットメント」は何か、ということを意識しない“エンジニア”には、その仕事を遂行するのに必要な知識や技術、いや、少なくとも、今の自分にとって足りないと感じているわずかな知識すら補うための“行動”は、日常のなかで生まれてこない。それでも「給料」がもらえる。いったい、その給料は何に対する“報酬”なのか。ある状況においては、「期待値」ということもあるが。自分は、その報酬に値する行動をしたのだろか、と考えてみて欲しい。それが「捨てられない技術者」への第一歩でもある。
 もちろん、現実には“その人”だけの問題ではないかもしれない。課題を“丸投げ”してくる「管理者」の下では、まともに「コミットメント」を考えておれなくなる可能性はある。そうなると、その「丸投げ管理者」の“上”にいる人の「コミットメント」が問われるべきなのだが。
 記事の中では、「だったら自分を変えればいい」という。まず、手近なところから問題を解決していくために、有効な知識や技術は何か、ということを考えることだ。もしかしたら、もっと素早くコードを書くことが、“今の”問題を解決してくれるのか。あるいは、「設計とは何をすることか」という問いに答えられないとすれば、そこが問題なのかも知れない。あるいは、リスクをきちんと把握して対応していないことが、事後処理を増やし、デスマーチに陥れている最大の要因なのか。とにかく、「一つ」確実に手に入れることから始めるしかない。来週からではなく“今すぐ”始めるしかない。
 もし、この1年間に、自分の役割に関連した知識や技術を確実に高めるための文献を1冊も読んでいないとすれば、「技術者」としては、やっていくことは出来ないだろう。

経済構造の変化

 政府の発表では、景気が“低空飛行ながらも上昇しつつある”というが、私に言わせれば、そのように見ようとすれば見えるだけであって、上昇する根拠はどこにも見当たらない。せめて、80年代の経済環境であれば、100兆円も投入する前に上昇したかも知れない。だが、90年代に入って、世界経済の枠組みが大きく変化している。製造業で世界の「経済大国」になった日本だが、今日では、すでに製造の拠点は国外に移っているし、それを食い止めるための施策は何も講じていない。言い換えでは、世界の枠の中で、経済活動の分担が大きく変わっているのである。「構造改革」というのは、その構造的変化に対応する必要があるという意味であって、単に税金をつぎ込んで公共事業で浮揚効果を期待しても、国内での経済的波及効果は限られているのである。言い換えれば、ガスの抜けた風船を下から扇いでいるようなもので、扇ぐのを止めるとすぐに落ちてくるのである。
 20世紀の「日本神話」を復活させるのであれば、国内で製造業が成り立つような施策が無ければならないが、アジアや中南米の国々の発展もあって、それにはおのずと限界がある。今の流れのままでは、21世紀に日本国内で成立する製造業はもっと減少するだろうし、分野も限られてくるだろう。それが、世界の「変化」である。すでにその兆候は始まっている。
 1年ぐらい前から企業の「M&A」が盛んに行われるようになってきた。昨日まで、競争相手であった企業が、生き残りをかけて特定の分野で統合しはじめた。繊維業界や紙パルプや造船などは、既に第一段階を終えている。先ごろには、半導体の分野でも始まった。このあと、自動車や家電の分野にも広がっていくだろう。消費者にとっては、優れた技術が一つの製品に統合されるというメリットはあるが、反面、技術者の淘汰が始まり、一時的には消費力を減退させる方向に作用するかもしれない。
 表面的には「選択と集中」というキーワードで動いているが、その背景には、もっと大きな「変化の力」が働いている。それは地球規模で動いていて、冷戦の終結によって加速された形になっている。10年前、冷戦の終結が何をもたらすか、日本ではその意味するところをほとんど検証してこなかった。単なる、米ソの睨み合いが終わった程度にしかとらえていない。確かに政治(や軍事)の世界ではそうかもしれないが、経済の世界では、国の壁が取り払われ、人や物が自由に行き来し、有利な投資先を求めて「マネー」が世界を駆け巡るようになった。
 まったく不運なことに、世界が変化の舵を大きく切った時に、日本はバブルの崩壊とその後の不況に追いまくられた。その間、視界は完全に「内向き」になってしまい、世界的な「経済構造の変化」に気づくのが遅れた。いまだに、60年代の景気の回復手法を飽きずに使っているのは日本だけではないか。問題はそれだけではない。目の前の変化に対して、産業構造の変化を促進していないし、時に、教育の分野はまったく対応できていないのである。これが、継続して上昇する根拠がないと言わせた根拠である。

インターネットの驚異

 その変化の大きさの判断を誤った原因の一つが、インターネットの威力に対する過小評価である。高速のインターネットでは遅れをとったが、「携帯電話」ではアメリカを凌いでいる、などと言って浮かれているが、インターネットの威力はそんなものではない。「iMode」なんて、ほんの小さな“出来事”にすぎない。盛んに「iMode」が世界に先駆けた技術であるなどと浮かれている「経済評論家」もいるが、インターネットの威力はそんなものではない。多くの人は、通信手段の一つに過ぎないとでも思っているのではないだろうか。確かに、日本では、いまだにそのような姿しか見せていないが、世界では、既に違った姿を見せ始めている。
 インターネットは、元来、「中抜き」の力を持っている。組織や産業構造の中で、明確な役割をもたずに「中間」に位置している人や企業を「外す」力をもっている。世界の企業は、そのことによって一層の競争力をつけてきた。カルロス・ゴーン氏の率いる日産自動車が大きく収益を上げたのも、部品業者の選択と効率化が大きく寄与しているのである。もちろん、その裏で、生き残れなかった企業も出たはずである。先ごろ、幕張にオープンしたフランスのスーパーも、商品のほとんどすべてを「市場」を通さずに調達しているという。まさに「中間」に位置していた「総合商社」も、必死になって変身しようとしている
 日本にとって、もっと大きな驚異は、インターネットは「地理的」「時間的」な“間”を抜いてしまうことである。そのため、ある日、気がついてみると、競争相手が世界中に居ることに気づかされることになる。既に、韓国や中国、インドのソフト会社が“日本語”を装備して日本に「代表」を送り込んでいる。ソフトを外注する企業にとっては、ようやく「選択肢」が手に入ったのである。もちろん、このことは、「捨てられるソフト会社」がでることを意味している。自ら抱える技術者を教育し選択してこなかったソフト会社は、ここにきて市場からの「選択」によって外されることになるのである。
 インターネットの威力は、こんな程度ではない。我々が学校で習った「産業の発展」のステップすら抜いてしまおうとしている。インドがそれを証明した。これまでは、産業の発展は、農業革命に始まり、軽工業から重工業へというステップを経て、情報産業へと発展してきた。だがインターネットは、この中間を省いて農業革命から一気に情報産業への参入を可能にする。チベットの山の上であろうと、中東の砂漠の町であろうと、スリランカの森の中であろうと、農業が確立しておれば情報産業への参入は可能なのである。つまり、日本の情報産業にとっては、ある日突然、聞いたことのない企業が競争相手として現れるのである。
 インターネットは「出版」という行為も省いてしまう。印刷や出版の技術の遅れがハンディであったアジアの国にとって、インターネットは、一気にそのハンディを消してしまう。「本」にする必要などないのである。各自が、世界中の最新の知識や情報を手に入れることが出来る。しかも英語で手に入る。国内で出版されるのを待つ必要はないのである。逆に、英語の教育を改革してこなかった日本にとって、目の前にあふれる英語の知識や情報を受け止めることが出来ないというハンディとなっている。21世紀になって、このハンディは大きな障害となるだろう。
 ソニーの出井氏が、盛んに「ブロードバンド」の脅威を訴えているが、多くの国民には、その「脅威」の意味が伝わっていない。いや、「技術者」の中にも認識できていない人が少なくない。BSデジタル放送の開始で高額なテレビが発売されているが、「ブロードバンド」放送が始まれば、ほとんど意味をなさなくなる。それだけではない。既存の放送局すら、その存在を危うくしかねないのである。同時に、放送局に依存して来た企業にとっても脅威にさらされることになる。
 インターネットは、学校も病院も変えてしまう力をもっている。産業革命以来、営々として築いてきた「インフラ」や仕組みが、インターネットによって、大きく姿を変えようとしているのである。10年後には、世界は今は想像できない状態になっているだろう。先進国が、躍起になって優秀な「IT技術者」を集め、教育プログラムを変更しているのは、そのためである
 これが、今日の日本の技術者の置かれている状況であり、この記事の背景でもある。要するに、世界は一時も停滞しない中で、個人が停滞してしまったことの「ミスマッチ」なのである。私自身は、コンサルティング先で、盛んに「変化」の警鐘を慣らしてきたつもりだが、残念ながら、鐘の音は小さかったかも知れない。周囲が停滞している中で「変化」の動きを維持することは、少なからず摩擦熱を発生させるのだろう。中華半端な動きでは、いつの間にか、周囲と同じように停滞してしまうし、そのことに気づかないのである。

選択肢がどちらにあるか

 大事なことは、組織は「舞台」に過ぎないということを自覚することではないだろか。個々のエンジニアは、その舞台で自分の「役」を演じる「役者」であるということである。プロの役者として、自分の役を確立できるかどうかが問われているのである。実際の役者の世界では、素人化が進んだせいか、「NG」が番組になるという体たらくであるが、我々には度重なる「NG」は許されない。舞台側は、すでに選択肢を手に入れつつある。世界から、役者が「役」を求めて姿を現しているのである。彼らの多くは、ソフトウェア・エンジニアリングを心得えており、設計能力も高い。その上、日本語を話し、読み書きも出来るのである。ここまで状況が迫っていても「役」を磨かない技術者は捨てられることになってしまう。もちろん、舞台の周りには、いろんな仕事があるので、舞台の上の「役者」は外されたとしても、他に「仕事」はあるかもしれないが、それらの仕事のほとんどは、その人には選択肢がない。もちろん、そのかわり「終身雇用」が可能な仕事もあるだろう。ただし、十分な報酬は得れないことは承知しておく必要がある。
 エンジニアであり続けようとすれば、選択肢を自分の手に持つことが必要である。まずは、小さな選択肢を手に入れ、それを活用して、より大きな選択肢を手に入れることに使うことだ。もちろん、楽ではない。だが、一度選択肢を手に入れたなら、その「流れ」が習慣になるので、実際にはそれほど苦にはならないものである。

捨てる前に捨てろ

 記事の中で「捨てる前に捨てろ」ということで、幾つかの示唆が書かれている。多くの読者は、「確かにそうだが・・・」と、苦々しくこの部分を読んだことだろう。つまり、それが「理想」なのだが、現実には、「理想」は、いつまでも理想のままになっているのではないだろうか。コンサルティングの場やセミナーの場でも、たとえば「CMM」は理想であって、現実にはそうは行かないという姿勢を示す人が少なくない。そのような人たちは、まさに「捨てられる前に捨てろ」というのも、単なる棚の上に飾ったままの「理想」なのかもしれない。だが、そうした姿勢で安直に10年という時間を過ごしてきてしまった人たちにとって、この先の10年は、今の延長上には存在しえないだろう。それは、21世紀の世界が許さない。少なくとも、日本という国においては。
 確かに、多くの人(技術者)にとっては「理想」かもしれない。だが、私自身が30年前にこの世界に入ったとき、30年後に、こんな役を演じているとは想像もしなかった。いや、20年前ですら考えられなかった。ただひたすら自分の役を演じるために、必要な知識や技術を身に付けることを続けてきただけである。お客さんの要求をどうすれば外すことなく把握できるか、どうすれば見積もりの精度を上げることが出来るか、どうすれば6ヶ月の予定を1日も遅らせないで約束できるか、どうすれば、未知の分野であっても設計から実装までの作業を円滑に進めることができるか、ということを止むことなく追い求めてきただけである。「理想」は求めるためにあるものとして走ってきただけである。もし、この状態が「捨てられない」状態の範囲にあるとすれば、私以外の多くの人だって、出来ないはずはない。

 21世紀を前にして、産業構造の変革が迫られている日本にとって、優秀な技術者の確保は不可欠な条件なのである。捨てられない技術者が演じる舞台はいくらでも用意される。「捨てられる」時代というのは、言い換えれば「選別」や「評価」が入るということであり、舞台に上がる(残る)チャンスでもある


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