「全体と部分」について


今日では組織の中で役割の細分化が進んでしまったことで、自分の分担する部分だけに閉じ篭りがちで、どうも「全体」に関わらなくなってしまったようです。というよりも「全体」を避けているようにも見えます。

関係者は、ミスをして足元を掬われないようにとの思いからか、自分の分担するところについては完璧を目指そうとするのですが、元々、「部分」が「全体」の視野の中で連携していないため、そこでの行為の何割かは空回りしてしまいます。

私がこの問題に気付いたのは、15年ほど前にP.F.ドラッガー氏の何かの本を読んでいたときに、

  「現代文明は合成すると誤謬を生じる」

という文章を見つけたときです。

それ以来、この文章に引っかかっていましたが、その頃、相前後して、ミャンマーのインド洋に面したあたりで、旅客機が2機続けて墜落する事故が起き、その内の1機の機体が回収されたときに、「片側のエンジンが逆噴射状態になっていた」と公表されました。関係者のよると飛行中には“絶対に”起こり得ない筈とのことです。どうしてそうなったかが究明されたかどうかは記憶にありませんが、当時、この事故と上のドラッガーの言葉が、私の頭の中で繋がってしまいました。

旅客機の製造については、関係者は自分の分担範囲について最高の努力をしているはずなのです。それでも合成すると“起こり得ないこと”が起きてしまう。

一般に製品の品質は、それを構成する部品の品質の最も低い品質に引きずられます。そのため、日本の製造業は部品の品質を高めることに全力を注いできました。そしてそれは間違いなく効果を上げてきました。

しかしながら、そこには効果をあげた背景として、
  システムの構成の規模や複雑性が比較的緩かったこと
  そのため、役割として明確ではなくとも全体を見る人がいたこと
  部品にコストを掛けることが出来るほど物価や人件費に余裕があったこと
などがあったと考えられます。

それに対して今日では、上記の何れもが成立しなくなりました。にもかかわらず、過去の部品品質至上主義とでもいえるような姿勢が、そのまま組織の中に残ってしまい、今では、「部分の神話」のようなものすら成立しています。

つまり、色々な不具合は全体的な視野が欠けていることに起因しているのに、そのことに気付かないために、ますます「部分」の完成度を上げようとしたり、「部分」の責任者が追及されます。「部分」の責任者は全てのエネルギーを、益々「部分」に注入しますが、それはコストが掛かるばかりで結果は一向に改善されず、「難しさ」だけが強調されます。そしてその状況は「神話」を益々強固なものにするのです。

部分の品質は重要ですが、それは全体の視野の中でバランスされなければなりません。例えばソフトウェアの開発においては次のような「部分」が存在します。
 企画部分:新しい製品の仕様を決めたり、
      顧客の要望を受けて最初に要求仕様をまとめる部分
 設計部分:製品仕様や要求仕様を受けて設計し形にしていく部分
 評価部分:品質を保証するための検査や評価を行う部分
組織によっては、「設計部分」にさらに幾つかの「部分」が存在するかもしれませんが、ここでは話しを簡単にするために省略します。

これらの「部分」が、隣接する他の「部分」を顧みることなく“最善”を尽くしたらどうなるか。
まず、予定以上の時間が常に前工程で使われてしまう可能性が高く、その結果として後工程の作業が逼迫し、どこかで“最善”を放棄せざるを得なくなるでしょう。その結果、製品としての品質は間違いなく低下するはずです。

また、各「部分」における“最善”の認識が、全体的な視野に立っていないために、必ずしも次工程にとって都合の良いものにはなっていないという問題も起きてきます。自分たちにとっては何ら問題のないドキュメントでも、隣の「部分」の人達にとって扱いにくいものでは何にもなりません。そのような体制である限り、「部分」と「部分」の間には悉く「すき間」が発生することになります。そして、そのすき間を埋めるために、「部分」が必死の努力をしているのが現状です。そのようなやり方では、いくらコストを掛けてもやり切れるものではありません。

それはまるで、米を洗うときに小石を取り除かないで、炊き上がってからご飯をこね回して小石を探しているようなものです。米を洗って炊く人と、炊かれたご飯を検査する人の連携が悪いとこうなります。もっと言えば、小石は「米」になる前に、精米の段階(すなわち要求をまとめる段階)で取り除くようにすべきでしょう。

各々がバラバラに努力してもコストが掛かるだけです。いや、コストを掛けても十分な効果を得られるとは限りません。

たしかに、マネージャーと呼ばれる人は、一般にその「部分(部署)」の責任者です。しかしながら、責任範囲と守備範囲は同じであってはうまくいきません。自分の「責任範囲」を全うするためにも、どれだけ守備範囲を広げることが出来るかが問われます。野球でも、守備範囲は状況によって変化させなければ、いいプレーは出来ないでしょう。責任範囲を越えた守備範囲のところで、ボールをグラブに当てて落としても、“おしかったね”と許されます。もちろん、ボールを落とさなければファインプレーです。

「そこは自分の責任範囲ではないから」という論理で動こうとしない姿勢は、組織内の論理であって、そこには「顧客の論理」は見い出すことは出来ません。簡単に言えば、自分の責任範囲に接する部分は、通常は“守備範囲”でもあると考えられます。

企画部分なら、市場の動向や顧客、及び設計部分が守備範囲です。それによって企画書や製品仕様書をどのように構成すれば、自分たちには勿論のこと、設計部分の人達にとっても見易くなるのかを考えることができます。

また、設計部分の場合は、設計作業に入りやすい製品仕様書の在り方について企画部分の人達と話しをすることは重要なことです。さらに評価部分の人達にとって効果的な評価作業が出来るように高い品質で引き渡してあげることは、とても重要なことであり、そのことで評価部分の人達と真剣に協議すべきです。

こうしてそれぞれの「部分」の人達が、共通した「全体像」を求めながら、「部分の在り方」を追及することが重要なのです。

このように、「部分」は「全体」の配慮の中でそれぞれの役割と行為が規定されなければなりません。そのためにも、日常の業務を通じて、常に責任範囲を越えるところまで配慮する習慣をつけておくことです。




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