組織と幸福について

 「仕事の上手な仕方は、あらゆる技術の中でもっとも大切な技術である。というのは、この技術を一度正しく会得すれば、その他の一切の知的活動がきわめて容易になるからである。それなのに、正しい仕事の仕方を心得た人は、比較的に少ないものだ。」 これは、カール・ヒルティの幸福論の冒頭の句です。

 つまり、幸福になるためには、あるいは幸福を手に入れるには、仕事が出来ることが条件なのです。実際、仕事がうまく出来ることで、その報酬とは別に、充足感や幸福感が手に入ります。

 人は、仕事を通じて人や社会に貢献します。その貢献によって人々に幸せを与えることで、自分は幸福を手に入れるのです。この場合の仕事は、報酬を伴うものであろうと、ボランティアであろうと、幸せを配る行為に変わりはなく、従って、同じように幸福を得ることが出来ます。いや、報酬を伴わない分だけ、むしろ幸福感は大きいかも知れません。何れにしろ、人は仕事を通じて、人や社会に幸福をもたらし、それによって自らの幸福を得ているのです。そして「組織」は、そのような貢献の「場」を提供するものです。少なくとも、そのはずです。

 しかしながら、納期が間に合わなかったり、要求を外したりして上手く完成しなかった場合、人や社会に幸福をもたらすことが出来ないわけで、そのときは、自分も幸福にはなれません。誰も喜んでくれないわけですから、当然の結果でしょう。

 これはとても重要なことです。同じ「時間」や「労力」「資源」を投入しながら、片方は“上手く”やったことで多くの人に喜ばれ、自分も幸福を手に入れる。ところがもう片方は、上手く出来なかったことで、誰も喜んでくれないし、自分も幸福を手に入れることはできないのです。「時間」や「労力」は、もしかしたら浪費しただけかも知れません。その場合、厳しい見方になりますが、見方によれば“社会の損失”ということもできます。

 その違いは何処から来るか。単に「個人」の努力や能力の問題と片付けてしまうことはできません。人の能力は「ひと」によって引き出されるのです。自分だけで引き出せるものでもありません。実際問題として、有能な人であっても、その人の「意欲」を挫く“出来事”は幾らでもあります。彼らも、悪気でやっているとは限らないし、時には“前例がない”などのように「組織」がそうさせていることもあります。いろんな人が機能的に動ける仕組みになっていないとか、権限と責任がバラバラであったりすると、そのような組織では、必ずしも、願わしい方向に事が運ぶとは限りません。組織の意思は、一人のマネージャーの力を超えることがあります。

 当然、そのような組織にあっては、仕事が上手く捗る事はなく、その結果、誰も幸福にはなれません。あるのは精々自己満足で、それも、投入した時間や資源の大きさに由来したもので、必ずしも、世間には通用しないものです。少なくとも、これからの社会には、全く通用しないでしょう。場合によっては、「資源の浪費」というペナルティが課せられるかも知れません。

 要するに、仕事を上手く運ぶことが出来ない以上、そこには幸福が得られる「仕組み」が存在しないということになります。そしてそこには、今も多くの人(エンジニア)が居るのです。彼らは、「明日になれば上手く行くようになるだろう」とも思っていません。というより、そのような事を考えることをいつの間にか止めてしまっているのです。何時、止めたのかは誰も思い出せません。劇的な出来事があって考えるのを止めてしまったわけではなく、“何時の間にか”止めてしまったのです。

 他のページでも紹介したと思いますが、アミエルの詩に、

  心が変われば 態度が変わる
  態度が変われば 習慣が変わる
  習慣が変われば 人格が変わる
  人格が変われば 人生が変わる

というのがあります。そうです。自分の心が“いつ”変わったのか分からないのです。幸福をもたらさない組織に長く身を置くことによって、“いつのまにか”心が変わっているのです。そして考える習慣を忘れてしまっているのです。

 野村証券の事件も、第一勧銀の事件も、彼らは、幸福をもたらさない組織の中で、見せ掛けの幸福を手に入れてきた人たちであったと考えられますが、人生の最終幕で、その見せ掛けの幸福が剥ぎ取られてしまったのです。恐らく、その見せ掛けの幸福は、人の不幸や怨みの上に築かれたものだったのでしょう。人の幸福の上の築かれた幸福であれば、最後に剥ぎ取っていかれるようなシナリオにはならないはずです。

 幸福をもたらさない組織の湯船に何時までも浸かっていては、単に幸福を得られない、あるいは達成感を味わえないというだけでは済まないのです。「こころ」が変わってしまうのです。考えることをしなくなってしまうのです。幸福という「プラス点」が得られないからといって、必ずしも「0点」では済まないのです。心が変わってしまった分だけ、考えることを止めてしまった分だけ「マイナス点」なのです。

そして厄介なことは、余り長くこの湯船に浸かっていると、いざというときには、立ち上がれないことです。もちろん、当人は考える力が次第に失われていくことには気付くことはありません。それが試されることが無いのですから。

 一体、本当にそのような幸福をもたらさない「場」に、自分の人生を見出そうというのでしょうか。とは言っても、今の時代、幸福をもたらす仕組みになっている組織は殆どないかも知れません。グローバル・スタンダードが求められる新しい時代の変化に、組織の方が全く対応できていないのです。

 今の組織が幸福を得られる仕組みを持っていないとすれば、幸福を得られる仕組みを取り入れることです。もし、幸福を得られる仕組みを取り入れることに、組織自体が支障となるなら、対応はただ一つ。幸福を得られる仕組みを持つ組織を作ってしまうことです。停滞した状態でじっとしていては、いつまで経っても幸福をもたらす仕組みは得られません。今の組織が、どうしても障害になるとすれば、組織を新しくするか、作り替えるしかないのです。

 そのとき、組織に人をはめるのではなく、幸福を得る仕組みを作ろうという人(たち)に新しい組織を作らせることです。組織は、人が仕事を通じて社会に貢献する行為をサポートするものであって、邪魔をするものであってはなりません。“やろう”という人の下に、人が集まる仕組みと、そこに資源を投入する仕組みさえあれば再生するのです。再生する組織は、この点に投資することに躊躇しない組織ということになります。

 この種の取組みに対しては、多くの既得権者は抵抗するでしょう。その時のセリフは「そんなことをやって上手く行く保証はあるのか」です。もちろんそのような「保証」などあるわけがない。この種の「保証」は、誰かに与えられるのではなく、自分たちで手に入れるのです。残念ながら、殆どはこのセリフで怯むのです。でも、逆にいえば、そのような抵抗が姿を現わすということは、組織が停滞していることの証拠であり、この種の取り組みの必要性を証明するものでもあります。

そのような事情から、現実にこの種の取り組みは、会社のトップが推進しなければ、なかなか実現するものではありません。

 「幸福」は与えられるものではありません。自ら幸福に繋がる行動があって、はじめて幸福が得られれるのです。「福」という字は、秋になって田畑の実りを神様に捧げる姿を表しています。実りは、何ヶ月も丹精込めた結果としてもたらされたものです。その一部を神様に捧げたときに得られる満ち足りた「気持ち」が「福」なのです。従って「福」は行為に対する見返りなのです。

 人は誰でも幸福になりたい。幸福になる権利があります。幸福になる権利があるということは、そのような行為をする権利があるということです。したがって幸福をもたらさない組織とは、そのような行為に多大な障害がある組織ということになります。いったい、何時、その権利を放棄したのでしょうか。担保も無しに誰に預けたのでしょうか。

 この人となら幸福になれると“感じる”人には、幸福になろうととする人が集まる筈です。もし、集まらないとすれば、もともとその人も幸福をもたらさないのか、相変わらず既存の組織が邪魔をしているかどちらかです。もっとも、幸福をもたらしてくれそうな人も、一朝一夕に出来るものではありません。ある時間のなかで、多くの人に支えられて、そのような技量を身に付けていくのです。ですから、不足は、幸福になろうという人たちで補えばいいのです。

 もちろん、新しく組織を作ろうという人も、集まってくる人を選ぶ権利はありますし、ここで間違えば元の木阿弥です。例の湯船に浸かったままの人、考えることを忘れてしまった人、さらにはその事に気付かない人を、そのまま集めてしまっては何にもなりません。

 こうして、既存の組織がこの方向に動きださなければ、100年続いた会社であっても、その会社が存在し続けることを社会は拒否するでしょう。社会に幸福をもたらさない以上、当然のことです。

 いい加減に、幸福になる権利を放棄するのは止めにしよう。


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