日本が約束したもの

 

 1998年6月16日、アメリカ政府による3年ぶりの為替市場での協調介入が実施され、さらに20日に緊急の国際通貨会議が東京で開催されました。

 前週からの急激な円売り攻勢によって、円は142円を易々と突破し、146円台に入ったところで、米国の介入によって円は135円付近まで押し返され、ようやく円安に歯止めがかかったのです。ひとまず、日本発の世界恐慌は踏みとどまったわけですが、まだまだ安心できる状態ではありません。

日本は、これまでこの種の約束を何度もすっぽかしてきたから、単なる意志表明では、ほとんど効き目はないし、市場は信用していないのです。

 この国の最大の問題は、国民がこの種の問題を自分のこととして考えないことです。“ちょんまげ”は付けていなくても、相変わらず「お上」のやることと思っているようです。政府の約束は国民の約束でもあるのです。「景気回復」は、政府の仕事ではなく、国民一人ひとりが“やる”ことです。「景気回復」ということで政府の出来ることは、今のままでは公共事業の形でお金を流し続けることしかありません。

 そのことには反対しておきながら、相変わらず景気回復を政府に押付ける、という巨大な矛盾を犯していることに、多くの日本の国民は気付いていないのです。

 >> 円安の意味 

 そもそも、なぜ円安になっているのか。ここは細かな仕組みを説明する場ではないので、簡単に言うと、今年の4月から外為法が改正されたことで、円の海外流出が加速しているということです。大蔵省はそのような兆候はないと否定していますが、現実に円安が加速しているということは、円が流出していることの証拠です。あるいは、外国資本が引き上げに入っているということです。実際、昨年暮あたりから東京株式市場では、外国人の持ち株は売り越しが続いています。言い換えれば、国内に適当な投資先がないということです。

 外為法の改正は、本来、海外から日本の市場(株式、不動産、債権など)に投資が行なわれることを期待したものです。そうなれば円高に向かうのですが、現実は逆になってしまいました。

それも当然です。今の日本の企業に投資する人は世界にいるとは思えません。上場会社の中で株価に対して5%以上の配当を実施している会社はどれだけあるでしょうか。5%以下というのは、海外では投資の対象にはならないのです。そんな低い配当なら銀行に預けておいたほうがましなのです。海外では、定期預金は概ね5%以上の利息を付けています。

 このように低い配当を続けてきた背景には、日本の証券会社の誘導があったものと思われます。これまで、日本の証券会社は売買の手数料で稼いできました。売り買いを繰返してもらわないと儲からないのです。株の配当が高ければ、株主は長く保有することになってしまい、その後の売買は発生しません。逆に、配当を低くしておけば、株主は配当を期待することはできないので、最初から売買益を狙うしかないのです。

 この他、企業の持ち合いもあって、健全な個人株主が育たなかったわけですが、同時に、健全な経営も見失ってしまいました。10%以上の経常利益を上げられないというのは、世界の基準では事業とは認められないのです。その証拠に、アメリカでは「ROE」が18%を割り込めば、売りの対象となってしまうという。それでは銀行よりも高い配当なんて期待できないからです。

 繰り返しますが、外為法が改正され、円安が止まらないということは、日本にまともな投資先が存在しないということです。金融機関に隠された不良債権の問題は、円安を食い止める入口の問題であって、円高に向かわせる根本の問題ではありません

 >> 内需拡大の意味

 今回の約束の中には、内需の拡大も含まれています。だが、日本では「内需拡大」というと、国内で生産した製品を、海外に出さないで自分で使うこと、と定義されているのではないかと思いたくなります。

 これまで日本は、長く「国民経済」を進めてきました。したがって、殆どの工業製品は国内で生産されています。ヨーロッパのように国を跨いで分業が進んでいないのです。周囲が海であることも、「脱国民経済」を阻んだと言えるかも知れません。

 かっての円高の際に、日本から多くの企業がアジアに出て行きました。だが、日本の中が完全に空洞化したわけではありません。つまり、完全に分業まで進んでいないのです。その結果、アジアと同じものを作っているという状態になってしまいました。

 今日、世界から内需の拡大を要求されても、同じものが国内にある以上、簡単にはアジアの製品を輸入させるわけには行かないのです。だから最近になっての貿易統計で輸入は大きく減少しています。石油の価格下落も大きいのですが、国内の需要そのものが減退している中では、アジアの製品が入ってくる余地はないのです。

 でも、これでは世界が求める「内需の拡大」は、全く進展しません。そして、この進展しない状況は、圧力の強さとなって跳ね返ってくる可能性があります。

 >> 規制の撤廃 

 規制の撤廃(日本では、規制の緩和)も、今回の約束の根底に含まれています。ある意味では、これは内需の拡大とセットでないと意味がありません。

 規制を撤廃するということは、新しい事業を起こしやすくするということです。合理的なルールの下で自由に参加できることを意味します。しかしながら最低資本金の引き上げは、その意味では逆方向の規制です。トンネル会社の規制や暴力団関係の動きを抑えるのが目的だったと思いますが、角を矯めて牛を殺す結果になっています。実際、ソフトウェア関係の事業を始めるのに、そんなに資本金がなくても支障はありません。

 もっとも、規制緩和の約束をしている裏で、先の通常国会では、派遣事業の枠を撤廃する法案は葬られました。というより、労働組合関係の反対から法案の提出もされなかった。参院選挙が「人質」になったのかもしれません。

 まったく矛盾しています。というより、既得権益に対して弱すぎるし、あるべき姿(日本が進むべき姿)に対して「信念」を感じさせません。こんなことでは、変革は全く進まないし、今回の世界に対する約束は、その足元から「空手形」であることを内外に公表しているようなものです。

 例えば、韓国製の自動車がなぜ輸入されないのか。誰かこの理由を明かしてくれないでしょうか。韓国製の乗用車は、欧米では結構出回っているらしいのです。現に昨年までは、年間200万台が輸出されています。が、日本には入っていない?

化粧品や医薬品も輸入が進んでいません。数年前の円高の時と、販売価格がそれほど変わらないということは、当時、利益をぼったくっていたということでしょう。

 先頃はシステムキッチンも談合の疑いが指摘されています。あんな「箱」ばかり並べたものが、なぜ150万円もするのか理解に苦しみます。この他、病院のベッドなども参入規制が問題になったまま何も解決されていません。

 こうした輸入規制や参入規制が撤廃され、透明にならないかぎり、日本の経済は世界の投資の対象にはならないでしょう。規制の撤廃というのは、まさに競争の時代に入ることを意味します。商品の値段やサービスに少しでも「技術」や「工夫」の入る「隙」があれば、新規の参入を許すことになります。それは消費者にとっては選択肢が増えることを意味します。もちろん、選ばれなかった商品は消えていくことは言うまでもありません。

 これでは提供する側は、気が抜けないと言うかも知れませんが、それはもともと、そのような商品やサービスを提供できる体制になっていない証拠です。社内の管理(正しい意味で)体制や教育環境、情報や技術、問題などの共有体制の整備など、日常の作業そのものが高い生産性を維持できるやり方になっている状況では、通常の活動で実現できるはずです。優れたマネージャーと、彼の活動を支援する仕組みがあれば、実現するはずです。

 >> 高い生産性を実現すること 

 結局、円安を食い止め、円高に向けていくためには、日本を投資の対象にするしかないのです。優れた製品を作ることができ、生産性の高い労働者が沢山いて、低コストで進出できるとなると、すぐにでも投資の対象になるはずです。

 だが、現実には、日本の企業の収益性は極めて低い。上場企業の中でも、売上に対する営業利益率が1%前後という会社が沢山ある。いわゆる大企業というところでも、その程度の会社が沢山ある。利益率が5%以下となると、わんさとある。このような企業にたいして、正常な感覚で海外から投資資金が入ることはありえません。

 今の日本の企業の収益の足を引っ張っているのは、不要資産や過剰資産の償却費と人件費です。売上がわずか2%ダウンしただけで、利益が20%も落ちる仕掛けがそこにあるのです。「日本の企業は、雇用を守る使命がある」という大企業の役員の言葉は、この現状に対する言い訳でもあります。だがそれでは、何時まで経っても世界からは投資の対象にはならないのです。それとも、この言葉は、海外の投資家に対する煙幕なのでしょうか。毒を持った昆虫は、鳥に捕食されないようにけばけばしい色をしていると言いますが、それと同じように“日本の企業は美味しくないよ”ということをアピールしたつもりなのでしょうか。

 円の凋落を止めてもらった代償が、日本を投資対象国にするということであるなら、それは現実問題として、我々に非常に高い生産性を達成することを求めてくることを意味します。30〜50%の生産性の向上を短期間で求めてくるでしょう。それが実現できなければ、日本は依然として投資の対象国とはならないわけで、円は二度と日の目を見ないことになります。それは同時に輸入物価の上昇をもたらし、国内物価の上昇だけでなく、ひいては、輸出産業の足を引っ張ることになるはずである。つまり、衰退である。他にこの状況を表現する言葉はない。

 天然資源を持たないこの国は、基本的には貿易によって国を立てるしかありません。経済がグローバル化した今日、円が他国の通貨に対して弱いと言うことは、この行動を大きく制限されることになります。しかしながら、円高に誘導するには、日本中の企業がそれに耐えられるように生産性を高めなければなりません。更に言えば、一人ひとりが生産性を高める方向に動かなければなりません。でも、現実は、まったくそのような方向には動いていません。

 ソフトウェア開発の現場で繰り広げられている光景は、まさにこの要求に引っ掛かってしまいます。1年で実現できるものを、段取りの悪さやいい加減なプロセスのために、2年もの時間をかけているのです。要求を早い段階にまとめなければならないと分かっているのに、そこでは相変わらず“出来ない理由”を並べているし、上級の管理者もその状況を「仕方のないこと」と放置しています。当人は放置しているつもりはないというでしょうが、適切な対応策を講じていないわけですから結果的には同じことです。これが収益の足をまともに引っ張っているのです。

 要するに、プログラマー、デザイナー、アナリスト、コンサルタント、マネージャーのそれぞれが本来求められている仕事をしていないのです。特に「マネージメント技術」が発達していないことが致命的です。いや存在すらしていない。だから、最近になって、市場の要請が厳しくなってきたり、職場に「選択の世代」が混じってきたところで、うまくマネージメントができないで混乱していますし、相変わらず、「マネージメント=管理=目を光らせること」という認識しかない管理者が横行しています。

 営業部門の人たちの中にも、接待以外で話しをまとめる「技術」を持っていないのでしょうか。接待を廃止するというと、一斉に不満の声を上げているようです。それも、どちらかというと責任の重い人の方から反対の声が上がるのだからどうしようもありません。彼らは違うやり方に移れないのでしょう。時代の要求の応えられないのでしょう。

 このような「仕事の仕方」もカール・ヒルティに言わせれば『最高の技術』になるのです。実際、プロセス・コンサルタントの仕事は、言ってしまえば「仕事の仕方」を指導しているようなものです。時々、自分でも変な気持ちになります。

 それにしても、よくも此処まで「放置」してきたものです。とっくにアメリカではこの変化は起きていたのに、文化の違いということで捨てられて来ましたた。この国の「先送り体質」は、政治レベルの問題ではなく、個人レベルの問題です。にもかかわらず、多くの人は、政治の問題だと言って放置してきました。そう言っている限り、この国は何も変わらないし、貧しい国へのエスカレーターに乗っていることに気付かないでしょう。

 結局、これからはこうした効率の悪い状況が問題になってくるでしょう。そして、この現状を変えることが出来なければ、その企業は投資の対象とはならず、資金の調達に支障を来し、重大な局面に遭遇するすことになるでしょう。これが市場による選別です。経営者が自分の任期中の波風を避けようと適切な判断と行動の選択を先送りしても、市場によって淘汰されることになるのです。そしてそのことで、多くの従業員は混乱の中に巻き込まれるのです。

 21世紀は、まさにそのような世界となることを予感させるし、6月20日のセレモニーは、そのことを世界に宣言するものでもあったのです。

 >> マネージャーに求められるもの 

 結局、日本の企業に求められているのは、どうすれば生産性の高い組織にすることが出来るかということです。もちろん、生産性を上げれば、一時的には失業が発生します。というより、それは避けられません。この問題を避けて通ろうとすれば、ほとんど全ての方策が断たれてしまう。政府のやることは、この種の失業は避けられないものとして、再生のための機関とか制度を整備することです。にもかかわらず、政府は、「痛みを伴う」ことを避けてきました。

 とは言っても、経済の歯車の中で活動している個々の企業では、少しでも早く生産性を上げるための方策を考え、その順序づけを明らかにし、確実にそれにそって動くことです。もう、先送りは許されないのです。

 すくなくとも、ソフトウェア部門のマネージャーであるなら、「スーパーエンジニアへの道」(ワインバーグ)、「ピープルウェア」(デマルコ/リスター)、「ソフトウェア病理学」(C.ジョーンズ)、「ラピッド・デベロップメント」(マッコーネル)、「ソフトウェアプロセス成熟度の改善」(ハンフリー)などの文献を読んで、開発組織の在り方を研究して欲しいと思います。この他、「リスク管理」に関する文献もあたって欲しいです。製品全体のマネージメントとなると、自分が通ってきた分野は精々半分しかありません。経験に頼っていては、残りの半分が手も足も出なくなります。したがって、どうしても「リスク管理」のスキルが必要になるのです。これらの知識は、組織の大きさに応じて重要性も増してきます。

 もはや、経験と勘だけでマネージメントをやる時代ではありません。先輩の“やり方”を継承している時代ではないのです。もっとも、その組織のレベルが高く、生産性や品質などの市場の要請をうまく実現していると言うのなら、やり方の「継承」も意味があるのですが、現実には、そのような組織はほとんど無いと言っても過言ではありません。ということは、そこでのやり方の「継承」には何の意味もないということです。上手く出来る見通しもないのに「継承」しているのです。

 もちろん、上に挙げた文献を読むにしても、読み手の「文化」の中にある「理解のメカニズム」によって解釈されることになるでしょうから、単に読んだから上手く行くとは限りません。でも、そのような「状況」は直に気付くことが出来ます。そこに書いてある事に対して「こんなことな無理だ」というような言葉を浮かべたときが、その「時」です。

 読むように言われたから読む、という時には、このような姿勢が直に表面に出てしまいます。でも“そこから何かを得たい”という強い姿勢があれば、「どうすればこれができるか」という読み方に変わります。「どこまでなら出来そうか」という読み方になります。実験してみる機会は幾らでもあります。特に、マネージャーの立場なら、その気になれば幾らでも出来るはずです。

 こういうマネージャーが求められているのです。常に目標をもって探求し、その結果(成果)を広く分けていくことの出来るマネージャーです。もし、このような能力がなければ、その組織に属する人たちは疲弊し、生産性は落ちていくでしょう。

 「庶務2」というテレビドラマは、このような疲弊が組織の中に起きていることの反発、あるいは警鐘ではないでしょうか。多くの人は、自分の言いたいことをそこで言ってくれていることで、うっぷんを晴らしているのかもしれません。でも、これだけでは何の解決にもなりません。疲弊を伴わないで、市場の要請の応える方法を手に入れなければ何の意味もないのです。

 これが出来ないマネージャーは、これからは存在できなくなると思って下さい。相変わらずノルマを課すだけで、その解決方法、実現の道筋を示せないマネージャーは存在意義を持たなくなります。それはマネージャーの役割の半分以上は、「リーダーシップ」にあるからです。そして、リーダーシップは、「あるべき姿」を持たないかぎり出てこないでしょう。

 1998年6月20日の世界へのアピールを、自分たちのあるべき姿の一つの提示と受け取ったマネージャーは、いったい何人いたでしょうか




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