これからの人事とソフトウェア開発現場の在り方

 多くの企業では、今年も、新規に採用された人たちが、そろそろそれぞれの部署に配属される頃でしょうか。ところでこの国の企業は、この「一括採用、一斉配属」のやり方を、いつまで続けるのでしょう。もちろん、それで済む職場もありますが、それではミスマッチが起きやすい職場もあるのです。特に、これからのソフトウェアの開発現場は、これまでのような「一括採用、一斉配属」は、実態にそぐわなくなってきています。

 採用官の能力が追い付かない?

 問題の一つとして、企業の人事部門に於ける採用官の能力が、ソフトウェアの開発環境の変化に追い付いていない状況が考えられます。その上、企業によっては何千人という応募者の中から選ぶことになると思われ、一人の応募者に費やす時間が余りにも少なすぎます。また、一般の事務職と違って、ソフトウェアのエンジニアの候補となると、この世界の変化は激しく、そこで求められるスキルは、年々多様化しています。予めそのような学科を専攻している人を採用する場合でも、一体どのような事が学習できていればよいのかということを認識できている採用官は殆どいないのではないかと思われます。と言うよりも、居なくなっているのではないかと思われます。

 そのうえ、大学等における情報処理教育は、現実には時代の求めるレベルには遠いのが実情です。そんな中で、何をどのように習得しておれば良いかということを、人事部部門の採用官が認識できていることは、殆ど望めないのではないでしょうか。

 ましてや、専攻学科を特定しないとなると、その人の潜在能力、学習能力、性格等が選考の中心となるため、採用官そのものの「眼力」が問われます。果して、今日にあって、第一印象や30分程度の会話から、判断に必要な情報を収集できる採用官は、一体どれだけいるでしょうか。

 それが出来るためには、普段から、ソフトウェアの開発現場の責任者との間で、時代の変化や、人材に求められるスキルなどについて緊密な交流が為されている必要があります。あるいはそれまでの配属者の状況なども、フィードバック情報として入手していることが必要でしょう。

 現場主導の採用

 それなら、最初から開発現場の方で採用の可否を判断する方法があります。もちろん事務手続き等は人事部門の方でやってもらうとして、これからは面接(の比較的早い段階)から採用に至るまでのプロセスを、人材を必要とする「現場」の責任者が行うべきでしょう。

 特に、ソフトウェアの開発部門に於ける、企業の期待と責任は大きくなる一方です。それならば、人を選択し採用する権限も現場の責任者に与える方がよいでしょう。今までのように“あてがわれた”人事で、所定の結果を出す責任を求められても、弁解や言い訳の余地を作っているだけです。

 それに、今までのように「前年度実績」をベースにした採用計画も、すでに時代遅れになっているのですが、相変わらずそれを続けている理由には、現場の責任者の怠慢もあるとも言えます。本来は、現場の責任者の事業に対するビジョンに基づいて採用の計画が立てられるべきなのです。人事部門による「一括採用、一斉配属」は、彼らの本来の役目をスポイルするものです。

 人材や資金などの「資源」は、ビジョンを持った人に対して投入されるべきで、そのビジョンに基づいた計画案はその責任者が策定すべきであり、面接もある段階からは自分で行うべきなのです。自分の考えるビジネスを責任をもって推進するのに、どうして重要な人選を人任せにするのでしょう。どうして自分の「眼」で確かめないのでしょう。誰がやっても成長が約束された時代では、このような問題は表面化しませんでしたが、90年代に入って、そうは行かなくなりました。

 考えてみれば、今日まで長く続けられてきた人事部門による「一括採用、一斉配属」は、こうした現場の責任者にとって、事業展開に対して最も重要なスキルをスポイルしてしまったかも知れません。21世紀を迎えて、一層厳しい競争が予想される中で、新卒、中途を問わず、採用のプロセスを現場の責任者に回すべきでしょう。

 新しい人事部門の役割

 そうなると、企業内の人事部門の役割が変わってきます。面接の大部分と採用の可否判定を現場が行うとすれば、「採用」における人事部門の役割は、最初のお膳立てと、途中のフォロー、そして採用を含めた事務手続きが主な仕事になってきます。いわば現場と応募者の間に入っての橋渡し役ということになります。

 人事部門の人の中には、この事を「権限の縮小」と捉えて抵抗する人も出てくるかも知れませんが、そんな所で抵抗するということ自体、時代の要請が見えていない証拠でもあります。極端に言えば、「採用」に関して企業内の人事部門の役割は、今日では殆ど存在しないと言えるほどの状況にまで時代は変化しているのです。僅か100人の新卒者を採用するのに、5000人と面接することにどれほどの意味があるか疑わしい部分もあります。採用官のスキルの問題などを考えると、「採用」業務を外部に委託することも可能でしょう。もちろん、100人に絞るのはこちらでやるとしても、ある程度、事前に絞っておくことは可能です。既に中途採用の場合は、外部の業者に人選を委託しているわけで、新卒者だからといって、それが難しいわけではありません。

 これに対して抵抗があるとすれば、恐らく人事部門の意識から出るものと思われます。その仕事が外部に委託されることによって、自分たちの仕事が減り、存在価値が消滅するかのように思うからでしょう。でも、それもまた、余りにも時代が見えていない証拠と言わざるを得ません。

 これからの人事部門の役割は、社内異動の仲介に力を発揮すべきです。「選択世代」に対して一律の価値観を要求することは難しくなります。会社にあって、各人はそれぞれの価値観に基づいて貢献をし、幸福を得る権利を行使することになるでしょう。あるいは、変化の激しい時代にあって、企業内部での人材の流動化が必要になります。そうなると、組織内での人材の引き抜きや、個人の移動願いが増えてきます。そのような問題は、当事者同士ではなかなか調整がつきません。大局に立って判断する人や機関が必要になってきます。そして、これこそが新しい人事部門の役割なのです。

 シニア・エンジニア制度

 もう一つ大きな問題は、エンジニアの待遇に関する問題です。これまでわが国の企業組織では、勤続年数や、それに準ずるような制度に基づいて、従業員の昇進、あるいは昇給が実施されてきました。企業内での「試験」制度も、職制を変化させるための制度で、それが昇進や昇給の基本的な条件となっていたりします。そこでは、より高い給料を得ようとすれば、社内試験によって職制を変化させなければならず、それは殆ど同時に「管理職」への道でもあります。いいかえれば、わが国の多くの企業では、高い給料を得ようとすれば、殆ど自動的に管理職への道を選択することになります。それぞれの役割において、どのように、そしてどれだけ貢献したかではないのです。職務に基づいた給与体系は、言い換えればそのような評価が出来ないことの現れということもできます。

 一方、エンジニアに求められる技術的な知識やノウハウは、量的にも質的にも年々増えています。もはや半年程度の初期教育で、あとはOJTで誤魔化せるような時代ではないのです。一流のソフトウェア・エンジニアになるためには、相当な資金や時間が投入されなければなりません。当人の高いポテンシャルは勿論ですが、10年、20年という期間の継続的な投資が必要になります。そして、そのような投資に絶えられるエンジニアは、決して多くはありません。特別にスカウト人事で集めた組織でない限り、一般の企業では、数%しかいないかも知れません。

 こうなると、今までのように30歳半ばになったからといって、スーパー・エンジニアを安直に「管理職」に付けてしまっては、組織の損失以外のなにものでもありません。もちろん彼がそれを望むのなら話しは別ですが、そうでなければ、「シニア・エンジニア」として処遇すべきです。「高給=管理職」という人事や給与の制度も早急に見直すべきです。そうでなければ、スーパー・エンジニアは自分の活躍の場を外に求めることになるか、さもなければ昇給のために、やむなく「管理職」への道を選ぶことになります。その結果は、いうまでもなく組織は開発能力の低下に見舞われるでしょう。実際、わが国の多くの開発組織は、人事異動の度にそこにあったノウハウが伝承されず、組織としての開発能力の低下を招いています。

 それもこれも、時代にあわなくなった制度を何時までも大事に戴いているからです。会社全体で制度を統一することを優先し、そのことに組織としての価値を置いてきたからです。なぜ、複数の制度があってはいけないのでしょうか。職務的にも全く性質が異なり、短期間に高度な知識やノウハウの蓄積が求められる以上、一般の職種や、工場の労働者とは違った待遇をしてもおかしくはないでしょう。これを避けてきたのは、組織としての管理能力の欠如であり、説明能力の不足の裏返しではないでしょうか。

 マネージャーの養成

 もう一つ、将来の課題として、今までのようにエンジニアの“経験者”が、そのままマネージャーに就くという仕組みを見直す必要があります。

 そのような仕組みが通用したのは、有能なエンジニアが、同時にその職場において、殆どすべてに勝っているという状況を満たしてきたからでもあります。それは、その人が特別に優秀であったというだけでなく、ソフトウェア開発にまつわる知識や技法、あるいはノウハウなどが、今日ほど広さや深さが求められていなかったのと、変化のスピードも、優秀なエンジニアであれば対応できたことなどが背景にあります。

 しかしながら、これからの時代は、変化のスピードも内容も、これまでのようには行かなくなります。また、生産性の観点からも、優秀なソフトウェア・エンジニアは、今以上に優秀なエンジニアとして活躍する事が求められます。チームの編成も、色々な専門分野をもった人の集合体になっていきます。システムの機能が複雑化し高性能化し、しかも、生産性や品質、タイムリー性などを満たそうとすれば、当然、各自の専門性は高いものが求められます。

 そのような状況においては、一人のソフトウェア・エンジニアが経験できる範囲は限られることになり、いままでのように「組織の管理者」は、全てにおいて優れているという状況は維持できなくなるでしょう。技術をキャッチアップ出来るエンジニアは、その作業環境を整えてあげれば、40歳になっても50歳になっても、キャチアップ出来るはずです。年齢による体力的な衰えは、効果的な技法やツールのセットや経験に裏打ちされたノウハウや先見性などで十分カバーされます。

 そもそも、わが国において「35才定年」が相変わらず存在している最大の理由は、ソフトウェア・エンジニアリングの関する基礎的知識の不足であり、効果的な技法を修得してこなかったからです。特に、システムを抽象化する能力を修得してこなかったからです。これが必要なレベルに達している人には、「35才定年」は存在しません。したがって、ソフトウェアの開発組織にとって第一に重要なことは、年齢を超えて一流であり続けるソフトウェア・エンジニアを育てることです。

 そして、同時に重要なことは、これらの一流のエンジニア達を“マネージ”できる「マネージャー」養成することです。一流のソフトウェア・エンジニアは、このような優れたマネージャーの下でしか、その能力を発揮できない可能性があるからです。彼らは、「誇り高い」存在であると同時に、ある面では「デリケート」な存在でもあります。単に、長くソフトウェア開発を続けてきたという理由だけで、そのような組織のマネージは出来ない可能性の方が高いでしょう。言い換えれば、エンジニアが「プロ」であるなら、そのような組織では、マネージャーも「プロ」でなければならないということです。

 プロセスをどのように進めればよいかを知っていて、また人は何に喜び何に怒り、何に失望し何に奮起するのかを知っている人の下で、あるいは、自立心の高いエンジニアの間に起きる問題を熟知していて、適切な対応が出来る人の下で、彼らは存分に自分を発揮する筈です。このようなマネージャーを養成しなければ、優れたエンジニアは育たないし、育っても定着しないでしょう。

 これまで、わが国の組織では、マネージャーは現場から育つものという考えに基づいて組織運営をやってきました。役所のような組織では、概ねそれでも間に合うかも知れませんが、厳しい競争にさらされている一般企業にあって、そして、70年代のような成長が約束されない時代にあって、「現場から育つ」ことに依存していては間に合いません。

 それだけでなく、そのような環境で育ってきたマネージャーには、「今までのやり方」から抜け出せない危険があります。彼は、ちょっと前まで「優れたエンジニア」を目指してきたわけであって、マネージャーを目指して、しかるべき訓練を積んできたわけではありません。組織もそれを承知しているため、彼には「エンジニアの延長」でのマネージメント(?)を黙認することになります。それ以外に彼をマネージメントに就ける方法はありません。

 わが国のソフトウェアの開発組織は、長年このようなやり方で組織を運営してきました。その結果が、今日では世界に全く通用しない組織となっているのです。世界で何が起きているかも知らず、いや、隣りの組織で起きている事すらも知らず、使用している言語は違っているかも知れないが、作業のやり方は20年前と殆ど変わっていないのです。「アメリカでは、この10年間に、高生産性組織と低生産性組織との格差が4:1から600:1に広がった」と言われても、何の実感も湧かないし、何の危機も感じないのです。いい加減に、ソフトウェア開発に相応しい組織運営の考え方を取り入れなければ、30年後にこの国からソフトウェア開発が消滅してしまうかも知れない。

 今年に入って、イギリスのある投資家が、人口の減少を目の当たりにして何の対応もしないわが国に対して、「何れ消滅する国に、投資など出来ない」と発言したという報道がなされていますが、そのことは、そのまま、ソフトウェア産業にも当てはまるのです。

 「上手く運営されない組織に、投資などできない」のです。



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