庵主の日記2

2003年2月22日 「円安がデフレに速効」という安易な議論

 21日、デフレに関する討論会(デフレと経済政策)が財務相の中で公開で行われている。その中で「1ドル130〜140円の円安になれば、デフレに即効性がある」とか「経済の基礎的条件からみて円高に行きすぎている」ということが“真面目に”議論されている。つまり、この人たちの主張は、円はもっと弱い筈だというのである。「日本は決して強い国ではありません。強かったのは昔の話です。今は、日本経済もがたがたで、110円台というのは買い被りです。世界の皆さん、もっと円を売ってレートを下げて下さい」と言っているのと同じである。あるいは、日本政府や日銀に対して、「もっとドルを買って円を下げろ」と言っているのである。

 確かに、今の日本の状況にあっては、円安になってくれればと思うのも無理はない。だが、「円」は機軸通貨ではないし、円のレートは、実際には日本の都合で決っているのではない。ほとんど、ドルやユーロとの「相対」の中で決っている。今「ドル高」が期待または許容されているのであれば、「円安」を期待できるが、「ドル」が売られているときに、「円安」を期待しても無理である。それが実現するとすれば、もっと日本の価値を下げるしかない。もっと貧しくするしかない。つまり、この議論は、まったく言葉の遊びでしかないのである。

 もう一つの問題がここで露見した。
 それは、戦後の日本の経済発展が、“たなぼた”でしかなかったと言うことである。防共政策から日本に対する米国の市場の提供、朝鮮戦争の勃発と戦後の供給力不足、低い為替レート、たまたまの勤勉性と江戸時代以来の教育の普及などが重なって経済活動が活発になったのである。つまり、意図した部分は少なく、「偶然の成功」の部分が多いということである。

 日本は、反省や検証が昔から苦手である。失敗したことはもちろん、成功したことも検証されない。うまくいったのだからそれで良いじゃない、で通ってしまう文化を持っている。「偶然の成功」でも構わない。そのときに「なぜうまくいったのか」ということで、うまくいった「原因と結果」を繋いで検証していれば、状況が変わった時に、おなじような「結果」を得るためには「原因」の部分をどのように変化させるかという「応用」ができる。

 実は、これは「CMM」の中にある「ポスト・モーテム」という検証の仕方でもある。うまくいけばそれで良いわけではない。うまくいったときこそ、何故うまく行ったのかを検証する必要があるのだが、日本は、そのような検証をやってこなかった。そして今日、揚げ句の果てに「成功体験を捨てよ」というセリフを吐いて分かったような顔をしている。このセリフの特徴は「成功体験」の何を捨てるのかを示していないことである。いや「原因と結果」を繋いで検証していないから、何を捨てて何を残すのかを示せないのである。

 だから、この討論会の議論も、単に「円安」になれば救われるという議論になってしまうのである。だがそれこそ「捨てるべき成功体験」の部分である。たとえば「生産性」という意図して行動(自力)できる部分があるにも関わらず、それを脇に置いて(かつての状態である)「円安」という「他力」に期待している。

 もっとも、「生産性」に足を突っ込むと、必ず「指名解雇」という“タブー”に触れざるを得ないのだが、それを知って避けているのか、知らずに避けているのか。

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