庵主の日記2

2002年7月21日 子育ては夫婦で折半で良いのか?

 最近の若い夫婦の家庭では、子育ての時間を夫婦で半分ずつ分担しているケースが増えているようだ。たとえば、曜日を決めて交代で世話をするという。夫だけの収入で家庭が維持できなくなった時代を象徴しているのだが、果して「折半」で良いのだろうか。確かに、夫婦が同じような条件で働いているので、何らかの形での分担は必要になるし、たまには子供から離れてみたいという気持ちも分かる。

 だが、そこで論じられているのは、すべて親の都合ではないだろうか。“折半”で育てられる子供の側からの視点は入っているだろうか。子供の中に、母親をどのような存在として埋め込むか、父親をどのように意識させるか、という視点が欠けていないだろうか。

 たとえば、子供が成長する過程で道を外しそうになったとき、それを自制するのが母親の「無言の存在」である。大きな人生の選択という時は、父親の存在も有効かも知れないが、日常の中での危険から救うのは母親である。幼児期からの濃密な母親との接点は、悪友に誘われたとき、あと一歩を思いとどまらせる力となる。そのような場面では、子供自身はブレーキを持っていない。自分の行動で悲しむ人がいる、という状態がなければ自制は効かない。

 25年前、子供を作るかどか迷った。子供が大人になる頃の社会(すなわち今日)の状況が、ある程度予想できただけに迷った。でも、作ると決めたとき、子供にとって母親と父親の存在(の違い)を明確に刷り込もうと決めた。そうでなければ子供が迷惑すると思ったからだ。その結果、日常の中で子供と肌を触れ合う機会は、できるだけ妻の方にやってもらい、私は、その周辺のことを受け持った。専業主婦だったこともあって、比率は折半にはなっていない。多分4割りぐらいしか手伝っていないだろう。でも今、子供と妻の関係を見ていると、これで良かったと思っている。誘惑の多い危険な社会にあって、無言だが母親の存在がゴムヒモの役目を果している。母親の方は「信じている」だけだが、それが確実に子供に伝わっている。

 子育ての時間は、何らかの形で分担しあう必要はある。専業主婦であろうと「分担」は必要である。だが、親の都合で決めないで欲しい。

庵主の日記の目次に戻る