庵主の日記2

2001年8月17日 人の一生

 人は、年齢を重ねると、自身の人生について思いを馳せる機会が増えるようだ.自分の人生はこれで良かったのか、人や社会に対して何かを為しえたのかなどと.同期の人や、一緒に仕事をした人など、自分の周りで、亡くなる人が増えてくることも、そのような思いに駆られる機会を増やしているのかも知れない.
 先日も、オムロンでプロセス改善活動を進めてこられた坂本啓司氏が亡くなった.坂本氏とは直接の面識を持つ機会はなかったが、日本に於けるCMMの草分け的存在として、早くから私の中で意識してきた人である.昨年、独立されたばかりで、これからフリーで活躍されるものと思っていた矢先である.知らせを受けたときは、まさかと思った.だが数分後には、イスの背もたれに深く寄りかかって、机の前の白い壁を、ぼんやりと眺めていた.そして、「自分は、いったいどれだけの貢献を為し得たのか」と、自分に問い掛けていた.もちろん誰も応えてくれない.

 “死を目前にしたとき、それまでの自分の人生に対して静かに微笑んで終わりたい”ー30年前、自分の「生き様」をこう決めた.良い悪いの問題ではない.一つの「決定」なのである.それ以来、ことあるごとに、これを検証しながら生きてきた.
 この世に「生」を授かることについてはコントロールできない.だが、「生」の終えかたについては、ある程度コントロールできると思っている.人生の「五計」も、心得ているつもりだ.だが本当に微笑むことができるかどうか分からない.その時になって、やり残していることが一杯あって、唇を噛んで終えるのかもしれない.坂本氏も、唇を噛んで死を迎えたのではないだろうかと思う.宮城大学の糸瀬茂氏も、唇を噛んでの道半ばの死でいったのだろう.もしかすると、社会に対して働き掛けを続けているかぎり、微笑んで終えることは出来ないのかも知れない.

 それでも構わない.その場になってみるまで分からないのだから.

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