日経エレクトロニクスの1.27号に『ハードウェアの設計力が危ない』とい記事が載っています。これはちょっと考えさせられる内容です。
これまで、「ソフトウェア・クライシス」という言葉はよく使われてきた。というより、我々ソフトウェアの世界に居るものにとっては「またか」という反応をしてしまうかも知れません。
ところがこの記事は、「ハードウェア・クライシス」に警鐘を鳴らしている。
今日では、ハードウェアの世界は、ソフトウェアの世界とは比較にならないほど激しい変化に晒されている。CPU(MPU)の性能の向上は目を見張るばかりだし、それに連動する形で、メモリーの性能や高速バスの開発など、その激しさには言葉もないくらいです。通信の世界では、それらが全部“出演”する。
「15年後(2011年)のMPUは、10億個のトランジスタが埋め込まれ、クロック周波数は100GHz、10万MIPSの性能を出す。」
というのは、インテル会長のAndy Groveの言葉です。
若干、誇張があるとしても、15年後に求められるハードウェア技術者のスキルは相当なレベルである。そこから10年後、5年後、とさかのぼって見て、ハードウェア・エンジニアに今から5年後に求められるスキルが想像できますか。あなたが、ハードウェアの技術者で、しかも、最先端のMPUを使うような「場」に居るなら、それが想像できないようだと「黄色」の信号が点灯していると思った方がいいのでは?
この変化の激しさは、ソフトウェアの世界に居る者から見て、2年という時間の空白をつくったら、復帰できないのではないかと思われるほどです。分野によっては、5年前の技術の出番はないのかも知れません。
ソフトウェアの世界も変化は激しいとはいえ、(幸か不幸か)これ程ではありません。現に、10年以上も前の設計のやり方や仕事の進め方を堂々と押し通している人たちもいます。もちろん、生産性という尺度では既に「赤信号」が点灯しているにも関わらず、そんなものを無視して進めている組織があります。
最近のROMチップの集積度が上がったことで、組み込み製品であれば、最終的に幾つかのROMチップに収まってしまえば、部品コストとしては問題にはならず、そのことが何時までもそのようなやり方を存在させている原因の一つでしょう。
組み込みシステム以外のソフトウェア製品の場合は、間違いなくコスト割れの状態になっているはずです。そうでなければ、予め上乗せした見積もりが為されているのでしょう。ソフト産業がグローバル化されれば、そのような組織は一遍に吹き飛んでしまうでしょう。それは、『生産性の高い健全な企業のみが社会での市民権を持つ』という原則に反するからです。
記事では、組織に熟練者が居なくなったとこを指摘していますが、それは熟練者が熟練者として居続ける仕組みを作らなかったことの結果です。わが国の犯した最大級の間違いの一つは、「役所の組織」の仕組みを、企業の組織に持ち込んだことです。その結果、熟練者が熟練者として居続けることができなくなった。これが大きな間違いなのです。
また記事では、技術の継承が途絶えていることも指摘していますが、それは後から来る人が、先に行く人の技術を超える仕組みを作らなかったことの結果に過ぎません。先に行く人が10年の歳月を掛けて手に入れたものを、後から来る人には3年で手に入れる仕組みを作らなかったから、追い越して行けないのです。
この問題は。個人で解決できるものではなく、組織として対応する仕組みを作るべきです。ある時点で優れた能力を発揮する人がいれば、彼が手に入れたものを継承する仕組みが無ければ、彼はそのことに張り付くことになる。その技術が必要無くなるまでそこに張り付くことになる。
わが国の開発現場の状況が今日のような状態になったのは、「組織」が全く機能してこなかったということです。日本の組織は、単に「Indivisual」の集団に過ぎず、組織として機能していなかったということです。
「将来ビジョン」の無い組織。
「あるべき姿」のない組織。
「人間性」を無くした組織。
そのような組織になっていることに気付くのが遅すぎたのではないか。
「ハードウェア・クライシス」−それは「ソフトウェア・クライシス」以上に深刻な問題である。日本の産業の根底を覆しかねない問題である。いま、ハードウェアの開発能力を失ってしまえば、この国は何によって立つのか。
ハードウェアの世界にいる人は勿論のこと、ソフトウェアの世界にいる人も、ぜひこの記事を読んで、自らを振り返っていただきたい。