「出来るSEはこう育つ」について

日経コンピュータの1.6号の「闘うシステムエンジニア」という特集に『できるSEはこう育つ』とい記事が載っています。いわゆる、顧客から指名が入るエンジニアです。この仕事をやっている人にとっては「夢」でしょうか。

このようなエンジニアが居ることは、その企業だけでなくこの業界にとっても救いです。彼らは顧客の要求を実現するために人一倍の努力をしてきた人たちです。その意味では、顧客に育てられたということも言えるかも知れません。いい顧客に巡り合うということは、エンジニアにとって幸運なことなのです。もっとも、いい顧客とは、慨して要求のレベルの高い顧客で、エンジニアの方にも、それに応える用意がなければ「出来るSE」として育つことはありません。彼等はその要求に必死の思いで応えたのです。その意味で、彼らのこれまでの行為に対して高く評価されるべきです。

ただ、この記事を読んでいて少し引っ掛かることがあります。それは殆どの場合、その組織の中で“一人の”努力する人であるということです。彼らはまさにスーパーエンジニアなのであり、時にはワイアットアープなのです。

「HP Way」の中に、たしか「時を告げる人より、時を刻む仕組みを作る人」というのがあります。時を告げる人は、その人が居る間は時を告げることができるでしょうが、時を刻む仕組みを作っておけば、その人が居なくなっても時を告げ続けることが出来るという意味です。そしてHPという企業は後者を大事にしてきたという主張です。

スーパーエンジニアが抜けたとき、その企業、または組織が今までと同じようにサービスを提供できるかどうかが問われるのであり、それが出来てこそ、企業、または組織が評価されるのです。それが出来なければ、単に優秀な人を抱えたというだけのことになってしまいます。そうならないことを祈りたいのですが、記事の中の一言が気になるのです。

それは、
 「彼らはどうしてこうしたSEに育ったのだろうか。結論からいえば王道はない。・・・」
という一節の中で、「王道はない」と断言していることです。
本当に「王道」は無いのだろうか。いや、「王道はない」と断定することで、最初から王道を求めようとしていないだけではないだろうかという懸念が湧いてきます。「王道はない」という言葉は、それ自身で説得力の高い言葉です。

「Engineering」という概念は、日本語では「工学」と訳され、何のことか分からない言葉になっていますが、もともと語源としては、「誰がやっても、ある程度の結果を保証する手順」という概念を持っています。

ソフトウェア開発の世界でも、「Software Engineering」「Requirement Engineering」「Re-Engineering」などと「Engineering」という言葉が沢山でてきますが、これらは全て特定の優秀な人だけでなく、ある程度の人なら結果を出せることを目指した「王道」を求める動きということができます。

最近では「Process Engineering」という言葉も生まれてきています。つまり、ソフトウェア・プロジェクトの運営や、組織の改善方法に「Engineering」の考え方を取り入れようとしているのです。つまり、その訓練を受ければ、納期を外さなくなり、客の要求を実現できるような工夫が出来るようになるという考え方です。

これが単なる発案者のたわ言であるなら、「Process Maturity」という考え方も、「Capabirity Maturity Model(CMM)」という考え方も、ISOの標準の対象になるはずはないでしょう。

企業や組織が、このような「出来るSE」を次々と産み出す仕掛けを作ることが出来るということです。そしてそのような組織が「プロセス・レベル」でいう「レベル4」から「レベル5」の状態なのです。

逆に言えば、そのような状態でなければ、こうした優れたSEが単発的に出てきても、仕事が集中して潰されてしまうか、あるいは、代わりのエンジニアがいないため、顧客の「今」の要求に引っ張りだことなり、新しい時代に踏みだす機会を逃すかも知れません。

組織がしっかりと支援しなければ、折角のスーパーエンジニアも潰されてしまう危険があるのです。そうならないことを祈りたい。


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