[SCだより 97号]

(第15回)

 Edward Bersoff とその仲間は、システム工学の第1原則として、「システム開発ライフサイクルのどの段階であろうと、システムは変更されるし、また、それを変更しようとする欲求は、ライフサイクルを通して持続する」、と規定している。ソフトウェアへの要求が、一旦使い始めると劇的に変化することを強調している原理185及び201とは異なり、この原理はソフトウェアが開発期間中でも劇的に変化することを述べている。これらの変化は、新たに書かれるコード、新たなテスト計画、または新たな要求仕様書を反映するものかもしれない。これらの変更は、正しくないことが発見された中間製品を訂正することを意味するかもしれない。あるいは、これらの変更は、製品を完璧なものにしようとする、あるいは改善しようとする、自然なプロセスを反映するものかもしれない。

 こうした変更に備えるためには、ソフトウェア開発のすべての成果物が適切に相互参照できるようになっているか、変更管理手続きが正しく行われているか、また、予算やスケジュールにぴったり合わせるために必要な変更を無視する誘惑に駆られないように、変更のための十分な余裕がとってあるか、などを確認することが必要である。

(201の鉄則:原理16<一般原理=開発期間中の変更は避けられない>)

― 解  説 ―

 「変更」に悩まされます。先週末に“これでFIXだ”と言ったのに、週明けにオフィスに行ってみると、さっそく変更の要請が届いていたりします。設計段階に入っても、インプリメントの段階に入っても、変更の要請は無くなりません。もちろん、件数は以前より少なくなっていきますが、それでも、影響範囲の広いものも出てくる。中でも、テスト段階で出される変更はとても危険です。

 担当者は、顧客からのこのような要請をむげに断ることも出来ないし、かと言って何時も“にこやかに”とは行かない。気分が滅入ってしまい、1日仕事にならないこともあるでしょう。

 でも、腹を立てる前に、どうしてそのようなことが頻発するのか、どうして腹が立つのか考えてみて下さい。

最初の詰めの問題

  要求が何時までも変更されるというとき、その変更の種類を見る必要があります。つまり、仕様の追加なのか訂正なのか、あるいは削除なのか。「開発期間中の変更」は避けられないとしても、だからといって放置しておくわけには行きません。変更の要因を分析することが必要です。ときには、その変更が開発者から出された疑問や質問に起因することもあるのです。

 多くの場合、仕様の変更が生じるのは、最初の段階で仕様の検討が甘いことが挙げられます。そのため、後になって仕様を補強するための変更が生じてしまいます。開発者も、要求の分析工程を省いたりして、早い時期に質問する機会を逃してしまうこともあり、そのような場合も、後になって変更を招くことになります。最初に要求をまとめる段階で、未決事項の扱い方が曖昧な場合も、後になって変更を招きます。

 このように考えたとき、本当に顧客自身の問題で、後になって要求が変更されるものは、そんなに多くはないのです。その意味で、開発者も、もっと開発期間中の要求の変更を減らす工夫が必要です。

要求は仮定である

 そのような姿勢が出てこない理由の一つが、「要求を固定する」という考えです。そういう“お言葉”を欲しがるエンジニアも多くいますが、その“お言葉”は、殆どの場合役に立たちません。それよりも、「要求は全て仮定である」というスタンスに立つことです。

 データの件数も人数も、インターフェースも、全て仮定です。問題は、その仮定が安定している期間です。顧客の口からでてくる「仕様」が安定している期間は、はたしてどれくらいなのかを考えることです。1年ぐらいは安定しているのか、10年か、いや1ヶ月か。あるいは、その仮定が変化する要因は何だろう。売り上げが2倍になれば変化するか。税制が変われば変化するか。組織変更で変化するのか。

 もちろん、完全に読みきることは出来ないでしょうが、現実には、殆ど読んでいる気配はありません。顧客から言われたまま、何の疑いもなくそれに従う。そのようなエンジニアに限って、顧客からの変更に怒りだすものです。さも、怒る権利があるとでも言うように。でも、それは本能的に出る「防御反応」なのです。仕様を仮定だと考えている人は、そんなに簡単に怒ることはないでしょう。それよりも、どうして見通せなかったのか、という問題に焦点を絞って考えるでしょう。逆に、そのように考える人の方が、もともと顧客からの変更の要請が少ないはずです。

後付け仕様は間違い

 変更が多発する組織に多く見られる光景として、要求仕様書(多くの場合、製品仕様書である)が、開発作業と並行して作られていることです。確かに、要求は変化し続け、なかなかまとまらないことは分かります。だからと言って、設計工程に入る前にある程度のレベルで要求をまとめる努力をしないまま作業に突入すれば、一層混乱し、その後の要求の変化を招くことになります。特にその場合は、顧客からよりも、開発者側から要求の変化のタネが蒔かれることになります。

 何よりも、そのようなプロセスでは、テストの責任者の承認なしに設計作業に入らないというルールを採用することは、未来永劫出来ないでしょう。

要求管理の出番

 結局、この問題は、開発組織にあって変更管理、その中でも「要求管理」が行なわれているかどうかの問題でもあります。要求管理は、それ自体、要求の変化に対応することを想定しています。要求仕様書が「発効」したあとで発生する要求の変化に対して、それを正しく仕様に取り込み、適切な手続きを経て作業に取り込まれる仕組みです。そこでは既に発効した要求から影響範囲も検討されます。そしてすでにインプリメントされた中から、特定の既存の要求に関係する部分を割り出し、新しく追加された仕様と調整して実現することになります。

 このような「仕組み」を用意しておかない限り、開発途中で発生する要求に振り回されることになります。


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(第97号分)

日本版ビッグバンに向けて

システムの更新急ぐ金融機関


▲来年の外為法の改正、そして2001年の日本版ビッグバンの実施に向けて、日本の金融機関がそのコンピュータ・システムの入れ換えに必死なっている。ある調査会社の予測によると、2000年までに330億ドルが、コンピュータ・システムの更新につぎ込まれるという。

▲今後、世界を市場と考える金融機関は、国内・海外を含めた地球規模の拠点を結んだネットワーク・システムが必要になる。残念ながら日本のソフト会社にはこのノウハウが十分ではない。膨大な情報を瞬時に管理・運用するためのシステムを考えると、結局ソフトを含めてアメリカの製品を買うのが一番早いという。実際、アメリカの金融機関はこれを使って運用しているのだから。

▲だが、ここに一つ見落としていることがある。それは「ソフト」である。関係者は「ハードと一緒にソフトを買ってくる」というが、高い金を出して買ってくるのは、実は“ソフト”を具現化した“プログラム”であって、そのようなプログラムの必要性を考え、システムとして構築し、さらにそれを具体化する“ソフト”自身ではない。

▲結局、買ってくるのは「過去の遺物」であって、これを売ったアメリカの企業は、そのお金でさっさと新しい“ソフトウェア”を考え、それをプログラム化して、日本に売った「遺物」をしのぐシステムを作り上げるだろう。残念ながら、日本にはこの“ソフトウェア”を生み出す背景を持っていないため、これを発展させることは容易ではない。恐らく、これによって日本の金融機関は、当分はアメリカから「システム」を買い続けることになるだろう。日本は、明治維新以来、常にこの間違いを犯し続けている


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 第80回

考える力


 最近、文部省から「学習達成度調査」が発表された。対象は小中学生である。前回、12年前に同様のテストを行っていて、その間の変化を確認するのが目的のようである。というのも、前回の反省点として、考える力や創造性に欠けるとして、「創造性・考える力・表現力の育成」という基本方針が出され、92、93年の「指導要領」にそのことが盛り込まれているという。

 今回の「新学力テスト」は、その成果を確認するものでもあった。だが結果は12年前と全く同じであった。何も変わっていないのである。実際、学校の中で行なわれていること、特に授業内容は何も変わっていない。というよりも現場では何も変えていないし、変えることが出来ないでいる。

  考えることの意味

 第一、教育の現場に「考える」ことの意味を分かっている教師がどれだけいるだろうか。「思い出す」ことと「考える」ことの明確な区別ができる教師が何人いるだろうか。殆どの授業の中で、これらが区別されることなく、安直に「さぁ、考えて!」という言葉が使われているではないか。そのとき、教師が求めている答えは30分前の話しの中にあり、そこで求めている行為は「思い出す」行為である。だから、完全に一致しなければ「間違い」なのである。

 「考える」という行為には、もともと「創造性」や「想像性」が含まれる。限られた知識では答えが見つからないために想像するのである。勿論「あてずっぽ」ではない。高尚な表現を使えば「推論」を働かせるのである。だかこの児童は、この段階で「考える」ことと「思い出す」こととが完全に一致してしまう。そしてこれが一生抜けないのである。この勘違いを知らしてくれる出来事に遭遇するまでは、本人はこの事に気付かないのである。

 私は、指導要領は見ていないが、この「さぁ、考えて」と「さぁ、思い出して」を正しく使い分けることが指導されているだろうか。

  選択肢の無い学校制度

 もう一つの問題は学校制度にある。日本の学校制度は、実質的に「1本」のルートしか存在しない。制度としては「高専」というのもあるが、実際は殆ど機能していない。あとは、高校の上に「専門学校」というものがあるが、これも日本では、そのカリキュラムが曖昧である。したがって、実質的には「1本」しかないといえる。

 その結果、このルートに乗ることが至上命題となり、そこに受験制度が過剰に反応する。そのルートに乗るためには「思い出す」力が多く求められる。そのルートに乗れない者は「落ちこぼれ」となっていく。そうした彼らは「自分には考える力がない」と思い込んでいくし、周囲もそのように洗脳する。だが、そのような彼らを見ていると、意外な想像力を見せることがあるが、彼らは今の学校制度ではアウトローである。

 飛び抜けて個人の能力を発揮することが、この国の教育制度では「混乱の種」と認識されている。先頃、オックスフォードだったと思うが、13歳の女の子の入学が認められた。数学の才能が認められたものである。日本では、先の「飛び級制度」に対して、日本数学会も物理教育学会も反対の姿勢を明らかにしている。たった「1年」の飛び級にもかかわらず、偏差値教育の普及した現状にあっては、偏差値競争をあおると言うのがその理由である。

 そこまで分かっているのなら、偏差値競争をあおらない方法を「考え」ればいいのにと思うが、優秀な人たちでも、「習ったことが無い」ことは「考え付かない」のだろうか。

 それとも、「結果平等」の社会を支えている人たちに、「結果不平等」の制度を作らせようというのが間違っているのか。

 こうした「基本方針」が実際に実現しない状況を見ていると、文部省の「役人」たちは、教育の素人なのかも知れないと思えてくる。実際に、小学校や中学校で適当な期間教えてきた経験を持っている人が参画していないのではないかと思われる。平成9年8月5日に発表された「教育改革プログラム」の改訂版(インターネットで読めます)を見ても、現場から遊離した表現が多く、緊迫感が感じられない。文部省の役人は、最高の教育を「受けた」人であることは間違いなさそうだが、果して「教育のプロ」なのだろうかと疑いたくなる。12年経って、何の成果も上がらなければ、一般の企業にあってはその経営者はクビである。

 文部省は方針を出すだけで、実際の改革案は、もっと現場に近い人たちに任せるという決断が必要になっているのかもしれない。そうでなければ、この国から「創造性」豊かな人は生まれてこない。◆



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 (第97号分)

「地獄の一番熱い所は、道徳的危機に臨んで
 中立を標傍する輩の落ちる所である」
      ダンテ[神曲]地獄篇


 企業と総会屋との癒着のニュースが後を断たない。マスコミの報道も紋切り型で工夫が足りない。閣僚の靖国神社参拝の時と同じように、「会社ぐるみ」を問うだけである。そこに居るのは“マスコミ”であって“ジャーナリスト”は居ない。だから、企業の関係者が弁明する記者会見の場で、ただ「会社ぐるみではないのか」と質問するだけである。誰も証拠を掴んでいない(はず)だから、企業の関係者はそれを否定すればよい。

 「そのような人とは会ったこともないし、名前を聞いたのも初めて」というのがそのときの決まり文句である。だが、いまだかって、その通りであったことは無かった。第一、企業の経営幹部が法的に問われることを(何年も)やっていて、それを社長が知らなかったと言うのでは、「私は全く無能な経営者でした」と言っているようなものである。そうでなければ、“悔し涙”の一粒でも流しても良いではないか。だがそんな光景を目にしたことは無い。こんなところで「達観」されても困る。

 この国は、「自分は関与していなかった」と中立を表明すれば済むという程度の思考しか出来ない経営者が蔓延ってしまった。それを取り巻く連中も、殆ど同じ思考だろう。彼らは、ダンテの言う「一番熱い所」に堕ちるしかない。一部上場の企業といえども、何時までも身内や取り巻きの経営をやっているようでは、「グローバル」の時代には通用しない。


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