(201の鉄則:原理167<管理の原理=計画とのずれにより管理せよ>)
プロジェクトの進捗管理は、多くのソフトウェア開発組織にとっては頭痛のタネでしょう。管理者もエンジニアも、結局ここで疲れてしまうようです。でも、仕事は「契約」であり「約束」である以上、“出たとこ勝負”とか、“やってみなければ分からない”なんて通用する世界ではありません。特に、これからは日本国内においても、企業の国際化に伴って、「契約」の概念の強い国の企業も入ってくることが予想されます。そのような企業を相手に、今までのようなずさんな計画と、いい加減な進捗管理をやっていては、訴訟種にもなりかねません。逆にいうと、21世紀を考えたとき、管理に耐える計画を立てることが出来て、それにしたがって遅延を1%未満に抑えることが出来れば、事業の展開が非常に有利になることは、容易に想像できるところです。
家を建てるにも、優秀な大工は、ちゃんと天候も予想に入れた計画を作っています。彼らは、天候を“不可抗力”とはしません。もちろん、何月何日に雨が降るかどうかなんて分かりません。でも、この時期は平均して何日程度雨が降るかは分かっています。そして降りやすい時期かどうかも分かっています。もっとすごいことは、雨が降ったときの作業を予め用意してあることです。その作業は、大きな作業の流れとは独立していて、その成果物はある時期までに用意すればいい作業です。これを雨の日には繰り上げてくるのです。そして優秀な大工は、多くの下請けを使いながら、予定の日までにきちんと仕上げるのです。最後の10日前後に余裕を持たせてあるのは、この時期に発生した問題は段取りの調節で吸収出来ないからです。
ソフトウェアの開発作業そのものは、天候に左右されることは殆どありません。確かに、うまく出来ていないかも知れませんが、そしてうまいやり方を持っていないかも知れませんが、何をしていいのか分からないということは殆どありません。にも関わらず、まともな計画が立てられないのは、いったいどうしたことでしょう。分析手法や設計手法を身に付けていなくても、今、身に付けている方法で作業をするのですから、それに基づいて計画を立てればいいのです。分析・設計手法が手に入れば、今度はそれを前提とした計画を立てればいいのです。どうしてそれが出来ないのか?
<計画とのずれ>によって進捗を管理しようにも、それに耐えられるような「計画」がなくては叶いません。残念ながら多くの開発組織では、「ずれ」が見えるような計画を持っていません。そのことの有効性が分かっていながら、一向に手に入れようとしないのは何故か!
その日の遅れがその日に分かるようなスケジュールであれば、進捗の報告も、「○月○日制定のスケジュールに対して、○日終了時点で、5時間の遅れです」で済みます。また、その遅延は「○○日以内に吸収可能です」とか、「その遅延を解消するために、△日予定の作業をBさんに委託しました」と付け加えれば済みます。管理者は、彼のスケジュールを開いて、○日の予定作業から未完了の作業を簡単に知ることが出来るし、Bさんに委託した作業が、内容的に適切かどうかを判断することもできるでしょう。また遅れの理由について説明が必要と感じり、Bさんに委託した作業の説明を求めたいときは、彼にメールを打てばすむでしょう。
今後、進捗管理は「IT技術」を最高に活用する必要があります。今までのように週に1回メンバーが全員集まって順番に状況を確認していく時代ではなくなりつつあります。もちろん、そのような「場」は必要に応じて開催すべきですが、それは、一人の人の問題が、メンバーの多くの人たちに関わる問題でもあるとか、全体に影響するような変更が生じたとかいう場合に限っていくべきでしょう。それに、今日では、遅延の調整が1週間単位では遅すぎます。その日の遅れがその日に分かるスケジュールが用意されていれば、タイムリーな個別の対応はそれほど難しくはありません。
詳細スケジュールは、実際とのズレが余りに大きいと「目標」としての意味を持ちませんので、そのときは、マイルストーンや残された日数などを考慮して、もう一度計画を練り直す必要があります。通常、最初に十分に余裕をもったスケジュールなんてないでしょうから、途中での1週間の遅れは、そのまま後ろにずらしたのでは納期に影響します。したがって、作業のやり方や段取りを変えるか、要求をトレードオフするか、有効かつ適切なリソースを投入することになります。そうして、改めてスケジュールに合わせるように作業を進めていくのです。対応が早ければ、選択肢があるものです。
作業の遅れは計測されなければなりません。しかしながら、詳細スケジュール表に書いた小さな単位の作業は、途中で内容が変更されたり、新しく段取りし直されたりして、遅延の状況が分かりにくいものです。したがって、遅延日数の測定は、マイルストーンで行います。具体的な細かな作業やその内容は変わっても、例えば「○○設計書を作成する」ことは変わらないものです。プログラムの関数の種類は変わっても、それらが集まった有効なソースの単位(タスク単位やクラス群の単位)は変わらないでしょう。そして、実際にそのような単位で「成果物の約束」が行なわれるはずです。したがって、そのようなマイルストーンの単位で、初期の予定に対して何日の遅れであったかを測定することは出来るはずです。
▲焼却炉の煙から出るダイオキシンが問題になっている。厚生省も漸く今年の1月に基準値を作ったが、それが4種類も提示されたことと、適用範囲が制限されているため、逆に混乱を招いている。基準値は、欧米では
0.1ng であるが、日本ではそれは新設炉に限定され、間欠運転の既設炉では 5ng
と規定された。
▲4月に公表された調査結果の中で、 80ng 以上のダイオキシンを排出している設備が公表されたが、調査方法については何ら規制されていないため、調査の当日、炉の途中に活性炭を吹き込んで故意に測定値を下げていることも知られている。厚生省はこの事実を黙認している。
▲ところで、最近の調査で日本の近海が高い濃度でダイオキシンに汚染されていることが分かった。報道によると、近海サバで100グラム当り最大216ピコグラムで、これはオーストラリア産キスの30倍近い値だそうである。近海魚の平均でも10倍の濃度である。ダイオキシンが川から海に流れ込んだ証拠である。
▲海はこの種のサイクルの終着点だけに、発生自体を無くさないかぎりダイオキシンは蓄積する一方である。この問題の行き着くところはゴミ問題であり、リサイクルの問題である。4月に施行したリサイクル法も、運用の段階で行き詰まっているし、ゴミの減量も全く捗っていない。この問題は、既にヨーロッパでは高い成果を上げているというのに、どうしてこの国では出来ないのか。このままでは、日本は「世界のゴミ」になる。
私もだいぶ歳を取ったからというわけではありませんが、政府の方で定年の延長問題が議論されているようなので、今回は「定年」について考えてみることにします。
▼ ◆ ▲
定年制というのは、見方によれば年齢による差別です。まだまだ働ける人も、そこで引退を強要されるのですから。そのため、欧米では、定年を定めることを法律で禁止している国もあるようです。そのような国では、年金の支給開始の年齢は決まっており、それと自らの蓄えの状況、あるいは労働に対する意欲や可能性などを総合的に判断して、いつ引退するかは自分で決めるのです。
▼ ◆ ▲
わが国も高齢化の速度は早く、二〇一〇年には、一五〜三五才の人口と六五歳以上の人口とが均衡し、両者で全体の五〇%を占めるようになります。そしてこれ以降は、三五歳以下の人口はどんどん減っていきます。この現実を前にすれば、何らかの形でもっと長く働いてもらわなければ、年金制度以外にもいろいろな制度が破綻することは明らかですが、だからといって、「定年の延長」という形で対応するのは正しいとは思えません。
「定年の延長」は、年金の支給開始時期を遅らせるのが目的です。政府としては、年金財政の行き詰まりが明らかなため、支給開始時期を遅らせたいのです。それにしても、どうして「定年」というかたちで一律に決めなければならないのでしょう。民主主義を標榜する国にしては、全くおかしな話です。中学校の教科書には「労働の権利」について書かれていて、国民には働く権利や、職業選択の権利がうたわれているのに、国家による「定年」の規定は、明らかにこれに反します。
▼ ◆ ▲
そもそも企業の「定年」は軍隊の制度から持ってきたものです。確かに軍隊には、その役割に応じてある程度の年齢による制限はやむを得ないでしょう。体力や運動能力、あるいは反射能力などが一定レベル以上でないと困ります。そして役所が、同じ公務員ということでその制度を取り入れました。さらに、戦後の経済の復興に合わせて、国として終身雇用を推進するため、その裏付けとして「定年」という制度を決めて、民間企業に適用していったのです。それ以来、国全体で横一列になって「定年」に向かって突き進んできたのです。確かにそれは一定の「成果」を上げてきましたが、そこには勝つための戦略があったわけではなく、勝てる条件が揃っていたに過ぎません。太平洋戦争に突入する前の状況に良く似ています。
▼ ◆ ▲
「定年」が法律で決められているということは、まだ十分に働くことが出来るのに、「定年」ということで働く場を奪われてしまうことを意味します。もちろん例外的にその後も「嘱託」といった形で雇用が継続されることはありますが、最近ではよほど重要な能力を持っていなければ無理でしょう。むしろリストラによって、「定年」を“目前”にして、退職を余儀なくされている人が増えています。だが「定年」というテープがあるため、そのような人たちは、「自分はゴールに達しなかった」という意識に陥る危険があって、このあとの人生に少なからず影響を及ぼすことが予想されます。
▼ ◆ ▲
それだけではなく、「定年制」はもっと大きな問題を引き起こしています。定年が定められていることで、個人の能力の判定を疎かにしてしまう危険があります。いつまでたっても日本の企業が個人を評価できないのは、一人ひとりが自分の能力をどのように開発し、どのように活かすかということを考える前に、どうやって定年まで(無事に)勤めるかということに意識が向いてしまうからです。つまり、社会に対して自分をどう活かすかということよりも、いかにしてそこに居続けるかが問題になってくるのです。
管理者の方も、今、苦労してその人の能力を判定し、嫌がられることを言わなくても、しばらくやり過ごせば時間が解決してくれるのです。これが個人の能力向上のプログラム開発に力が注がれない一つの原因です。日本の企業が個人を評価できないのは、単に文化の違いだけではありません。
▼ ◆ ▲
高齢化社会を前にして、少しでも長く働いてもらわなければならないのに、そして、本人は働く意思はあるのに、時代の要請にあわせた能力の開発を怠ってきたために、実際には労働力とはならない、いわゆる「ミスマッチ」となってしまいます。大企業の中で、「地位」の衣を着て部下の尻を叩くことで給料をもらってきた人が、その衣を脱いだ状態で、一体何が出来るでしょうか。多くの中高年者は、既にこのことに気付いています。でも、殆どの人は対応する方法を見出せないでしょう。そして、それに続く世代も、そのような組織に自分を「適わせてきた」ことで同じ道を歩いているのですが、彼らも、はっきりとは気付いていないのでは? ただ、閉塞感として感じていることは確かでしょう。
▼ ● ▲
自分の人生を自分で決めることを放棄しては取り返しがつきません。たとえ「定年制」という制度があろうと、そんなものに自分を適わせる必要はありません。 ■
「自ら思索することと読書とでは精神に及ぼす影響において信じがたいほど大きな開きがある。そのため思索向きの頭脳と読書向きの頭脳との間にある最初からのひらきは、ますます大きくなるばかりである」 シーペンハウエル
「人間は考える葦である」とは、パスカルの有名な言葉である。つまり考えることを放棄したら唯の葦に過ぎないというのである。確か、昔の高僧も「人間は糞の塊だ」と言った。綺麗に着飾っても、目糞、鼻糞、耳糞など、穴という穴に糞を詰めて歩いている、というのである。思索を放棄した人間は、まさに「糞の塊」に堕ちてしまう危険がある。
人間としての価値を高めているのは思索する生き物だからである。だが厄介なことに、ショーペンハウエルに言わせると、「思索の意思があっても思索できるわけではない」。永らく「思索」の行為を放棄していると、いざというときに思索しようとしても出来るものではない。
思索は、その時点で手に入れている知識や真理を結合したり評価して新しい知識や真理を創造する行為である。確かに知識を手に入れるために読書は有効である。だが、読書という行為は、それ自体思索という行為を殆ど含まない。読書によって得られる知識は、すでに他の人によって考え抜かれたものにすぎない。そのような「古着」をいくら身に纏っても、それは思索の結果ではない。
日常の中で、思索の行為を確実に組み込んでおかないと世の中の真理は見えてこない。その結果、表面に現れた状況に振り回されるだろうし、逆に、表面に現れるまで気付かないだろう。