[SCだより 94号]

(第12回)

  過去を思い出さない人たちには、過去を再体験させる宣告が授けられる。(George Santayana)

 どのプロジェクトにも問題がある。原理125は、技術的な誤りを記録し、分析し、そしてそこから学ぶことについて述べたが、この原理は、管理または全般的な技術的誤りについて、同じことを行うことについて述べる。すべてのプロジェクトが終わったときに、プロジェクトの期間中に起こったすべての問題を分析するために、主なメンバーを2〜3日その仕事に割り当てる。例えば、そこで「我々が統合テスティングに入るのが10日遅れたが、このことをその時点で顧客に言うべきであった」、あるいは、「我々は、もっとも基本的な要求さえ知らないうちに、あまりにも早く設計を始めてしまった」、あるいは、「部長が悪いときに“昇給停止”の発表をしてみんなのやる気をなくしてしまった」、といったことが議論される。一般に、この会のアイディアは、うまくいあかなかったことのすべてを文書化し、分析し、そしてそれから学ぶことにある。また、将来このような誤りを防ぐために、あなたが違ったやり方でうまくやれると信じるならば、それも記録しておくとよい。将来のプロジェクトは、こうしたことから大きな恩恵を受けるだろう。 

 (201の鉄則:原理172<管理の原理=プロジェクトの事後検討会(または反省会)を実施せよ>)

― 解  説 ―

 私も、30年近くこの世界に身を置いていますが、プロジェクトの最後にはっきりした形で反省会や事後検討会が開かれた例を見たことがありません。殆どの場合、プログラムが完成(?)し、システムが稼働すれば、そこで開発作業は終わってしまいます。最初の打ち合わせのミスから機能の盛り込みに失敗したり、納期をオーバーしたことなどは、その時点では、まったく「過去の出来事」のように扱われてしまうのです。というより、「喉元過ぎれば・・・」に近いかも知れません。時には“思い出したくもない”という言葉を使って、遮断してしまうこともあります。

 原理125というのは<エラーの原因を分析せよ>というもので、この連載の2回目に掲載しました。ここでいう「原因」とは、本当の原因であって、バグの発症のメカニズムのことではありません。その本当の原因を分析し、次回に活かさない限り、誤った作業(プロセス)は何度でも繰り返されることになります。

過去から学ぶ

 私たちは、将来をうまくやっていくためには過去から学ぶ必要があります。「将来に対する最上の予見は、過去を省みることである」という言葉は、「人生」に限ったものではありません。仕事に於ても、全く同じことが当てはまるのです。今回の失敗を次回に引きずらないためにも、今終わったプロジェクトを反省することが重要になってきます。しかしながら、多くの関係者は、そんなことを脇に置いて、私たちコンサルタントや文献、或いは事例に即効性の高い「抗生物質」を求めるのです。確かに、そこには自分たちが「答え」と思えるものはあります。でも、その「錠剤」は、自分たちの組織には必ずしも効き目をもたらしません。プロセスのレベルが違っていたり、処方を間違えているため、効果を発揮しないのです。

 それよりも、今、終わったプロジェクトを反省し、上手くいかなかったことを文書化し、その中から取り組めるものを探して取り組む方が早いのです。つまり、薬を飲むよりも、生活習慣を変えることです。コンサルタントの意見や文献に書かれていることは、飽くまでも「モデル」であり「参考」であって、何らかの生活習慣の変化を伴わなければ、その「錠剤」は効かないのです。改善の手掛かりは、今、終わったプロジェクトそのものにあるのです。

反省会を実施できない理由

 反省会を実施できない一つの理由は、そのような組織では、何を反省すればよいのか分からないことです。考えれば分かることですが、もっとうまく開発できるようになろうという向上心がないと、そのような状態に陥りやすいものです。受け身のままでは、何を反省すればいいのか考えられないのです。

 もう一つの理由は、作業が遅れたことによって、既に次のプロジェクトの開始時期を過ぎており、「反省会」を催す余裕がないことです。また、チーム構成によっては、チームのメンバーも散会している可能性もあります。

 いずれにしても、反省会を実施できない「理由」は、その気になれば幾らでも見付けることが出来るのです。

プロジェクトの目標を決める

 反省は、今終えたプロジェクトに対して、管理的誤りや技術的誤りについて書きだすところから始まりますが、反省会を実施しやすくするために、プロジェクトの開始時に、プロジェクトの「目標」を決めておくと良いでしょう。今回のプロジェクトで目指すもの、たとえば、ドキュメントを上手く書くこととか、レビューの精度を上げること、テストケースを整理することなど、システムを完成させること以外に目指す「目標」を文書に残しておくことです。こうすることによって、プロジェクトの最後に、その目標を達したかどうか判断し、それを記述することで、反省会の材料になります。

 また、「様式」を決めておくのも効果的かも知れません。

 例えば、納期についてはどうであったか、変更制御は及第点に達したか、外注管理は混乱無く行なわれたか、など、予め項目を用意しておくことで、反省会の材料作りに必要以上の時間をかけないですむでしょう。そして、できればその目標は「計測できる」形であることです。

躊躇しないこと

 大事なことは、何かをやろうと思った時に、躊躇無く行動に入れることです。どのような項目について考えればいいのだろうと迷った瞬間、行動に「躊躇」が入ってしまいます。何事も「躊躇」が入り込んでしまえば、行動に移されることは難しくなります。反省会も同じです、いかに躊躇することなく反省会の材料を集めることができるかです。たとえば予め反省会の招集の手続きが決まっていれば、躊躇無く反省会を実施できるでしょう。

反省から一歩踏みだす

 しかしながら、ここで注意しておかなければならないことは、反省だけでは前に進まないということです。そこから一歩進めて、どうすればいいのか、どんなやり方があるのか、を考えることが必要になります。この踏み出しが不十分だと、次回も同じような失敗をしてしまうことでしょう。それでも、毎回同じような反省が上がってくれば、大抵の組織は何とかするものです。


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(第94号分)

揺れる アジア通貨 


▲7月に入って、タイ・バーツの下落を契機に、フィリッピン・ペソ、マレーシア・ドルなど、次々と国際金融市場の“売り”の洗礼を浴びている。インドネシアも危険な状態である。通貨不安は経済の混乱を招き、宗教問題や民族問題に点火しかねない。そうなると二〇世紀の残された時間の中では、台湾ドルや香港ドルも安心できない。中国政府も冷汗ものだろう。

▲これらの国は、国内経済の立ち上げを急ぐために、90年の後半に入って積極的に欧米資金の導入を図ってきた。国内には再投資するだけの原資がないため、税制の優遇とか、土地やの提供、インフラの優先整備などの優遇策を並べて、外資による投資を誘導してきた。

▲しかしながら、一旦こうした“売り”を浴びると、自国の通貨を買い支えるため、外貨を放出しなければならず、それがまた外貨不足となり貿易の決済に不安感をあたえ、ますます窮地に陥ることになる。悪循環である。こうなるとしっかりしたスポンサーを付けるしかない。かってメキシコはアメリカの支援を取り付けてようやく危機を乗り切った。

▲だが、アジアはアメリカの自分勝手で強硬な姿勢が気に入らない。そこを察してか、日本政府は積極的に通貨支援外交を繰り広げている。一時期、わが国はアジアに関してはヨーロッパ勢に遅れをとったが、今回の「通貨危機」に対する支援を契機に巻き返しを図っている。その背後には、アジアにおいて出番を失いかけていた「ODA」関連の企業の思惑が見える。



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 第77回

経営目標・・「数値目標」の落とし穴


 決算後の株主総会を終えて新年度の経営目標が公表されている。相変わらず、売上高や営業利益を目標にしているところが多いようだが、時代を感じさせるものに「ROE(株主資本利益率)」を揚げる企業が増えてきた。しかしながら、今度は猫も杓子も「ROE」を口にする。いつもの「横並び」である。

 かって、バブルの時代に「売上至上主義」というものが企業の経営を歪めるとして問題になったとき、それに代わって出てきたのが「利益」であった。

     ◇ ◆ ◇

 だが、売上が上あっても利益が伴っていなければ、“実り無き繁忙”ということになり、企業の存在理由が疑われるし、そこで働く人も満たされない。その意味では、「売上」から「利益」に旗印を変えることは意味がある。しかしながら、コストを無視した経営をやっているかぎり、目標の「利益」を達成しようとすれば「売上」を増やすしかない。つまり、「売上」であろうと「利益」であろうと、その「額を目標」にする限り、そこで繰り広げられる行動は同じものになる危険がある。

     ◇ ◆ ◇

 それに対して「ROE」の方は、株主資本に対する利益率ということで、資本の“効率”を問題にする。必要最小限の資本で、どれだけ利益を上げることができるかを問題にする。売上額1兆円の企業と100億円の企業を、売上や利益の「額」によって両者を比較することは適切ではない。しかしながら、株主資本に対する比率という尺度であれば、資本の規模に関係なく同じ土俵で経営の効率を測ることができる。「ROE」が株式市場における投資の尺度として使われている理由がそこにある。

     ◇ ◆ ◇

 ニューヨークの市場では、「ROE」が16%を割り込むと、「不適格」と判断されて「売り」の対象になるという。当然、「ROE」の低い企業は、利益が十分に上がっていないから配当も期待できない。これに対して東京市場の企業の「ROE」の平均は4%前後だという。この差は、経営能力と言うだけでなく、企業文化や税制、あるいは会計則にも原因があるのだが・・・

     ◇ ◆ ◇

 わが国は、明治以来「世界に通用する大企業」を輩出することを目指してきた。通産省を初め役所はみな「大企業」を誘導してきた。この姿勢こそがエイズにおける血液製剤の判断を間違わせた原因である。そして、この国において「大企業」というのは「資本金」の大きい企業のことで、100年かけて、「大企業」=「優良企業」という「常識」が作られてきた。

     ◇ ◆ ◇

 ところが、時代は変わって「優良企業」が資本金ではなく「ROE」のような「効率」で測られるようになった。その結果、かっての「優良企業」のROEが2%台、ときには2%を割り込むという数字しか出てこないのである。エクティファイナンスで「分母」を不必要に膨らませたために、コスト体質が悪く、資本が効率的に活用されていないのである。それは社会にとっても損失である。「常識」は、その背景が成立している間だけしか「常識」として通用しないことを忘れてはならない。

     ◇ ◆ ◇

 来年四月に「外為法」が改正されれば、直接に外国資金が日本のマーケットに入ることが可能となる。このとき、「ROE」のような効率を表す尺度が投資の判断尺度として使われる。最初から16%という数字が、そのまま日本において適用されることはないと思われるが、それでも、3%未満の株が投資の対象になることはないだろう。ここにも「ROE」を今後の経営目標に上げる背景がある。

     ◇ ◆ ◇

 ただ一つ大きな問題は、経営目標が「売上」や「利益」から「ROE」に変わったとしても、わが国では相変わらず「数字」が目標であるということである。

 たしかに数字の目標は分かりやすい。しかしながら、それだけでは「手段を選ばない」ことになり易い。目標や目的が手段を正当化してしまうのである。最近でも野村証券や味の素など、相変わらず企業の倫理が問題になる事件が摘発されているが、それらの殆どは、そこに「目的が手段を正当化する文化」が存在することを物語っている。したがって、目標が「売上」や「利益」から「ROE」などに変わっても、そこにある「文化」が同じで、そこに居る人たちの発想が変わらないのなら、同じ問題が起きる。

     ◇ ◆ ◇

 「数字」は、ある時点では、単に「結果」としての存在でなければならない。大事なことは、そのような「結果」を得るためには、どのような考えで行動すべきなのか、どのような仕事の仕方をすべきなのか、を考えることであり、それを広めていくことである。もし、敢えて「数値化」し、それを追うとすれば、どれだけの人が、そのような考え方や行動規範を理解してくれているかという「普及率」であり、それを普及させるための活動に投入した資源の「比率」であるべきである。  ■


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 (第94号分)

「我々はしっかりとした中核的思想を持って、いわゆるバックボーンを持って、正しくこの時局を懐疑し、漫然たる不安であるとか、何にもならない漫談に時を過ごすべきではない」   
            (アラン


 アランの言葉は辛辣である。本題にずばり入ってくる。この点アミエルとは大分趣を事にする。だが時によっては、このアランの言葉は背筋を伸ばしてくれる。

 戦後五〇年を過ぎて、この国は明らかに岐路に立っている。自己責任でバブルの精算が出来ず、嘘で固まった金融界は、この国における本来の役割を果たせずに、景気回復の足を引っぱり続けている。兵庫銀行の処置に関連して、大蔵大臣は「これで峠を越えた」といったが、これを信じている人は誰もいない。恐らく大臣本人も分かっているのだろうから空しい。事実を隠し続けるかぎり“蛙の顔”で通すしかないのだろうが、これではバックボーンを持たない人々に、益々不安を蔓延させるだけだ。不安は前向きの力にはならない。

 今、この国は変わらざるを得ない状況に追い込まれている。これまで上手くいった戦後のルールが、ここへきて行き詰まりを見せている。銀行の問題だけでなく、公共事業を含めた予算の在り方や官僚機構の在り方、国と地方の関係、学校の意義や在り方、個人の選択肢の問題や社会への関わり方、そして家庭の在り方といったことが、芋づる式に金属疲労を起こしており、その中で、考える力を失った国民は方向を見失っている。

 テレビカメラの向こうに居て、民主主義を床の間の飾りのように思っている人たちに、この事態の先が見えているだろうか。


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