[SCだより 93号]

(第11回)

  これは、Gerald Weinberg の「自ら効力を失わせるモデル:Self-Invalidating Model」の原理と、原理171に述べたもっと一般的な状況に、強く関係している。ソフトウェアは複雑であり、それの正しい振舞いが「完璧さ」に依存しているので、それに対する1つ1つの変更が暗に意味することを深く突っ込んで考えなければならない。関係者がその変更を簡単で、容易で、また自明だと考えた瞬間から、警戒心が薄れ、品質意識を徐々に浸透させてきた地道な努力が軽視され、そして、多くのケースで変更が誤って行なわれるようになる。これは、誤った変更というかたち、または考えもしなかった副作用というかたちの何れかで、やがて結果が現れる。

 こうした状況を防ぐために、今やっている変更が承認されたものであるか(原理182、および183)、1つ1つの変更を机上チェックしているか(原理97)、そして変更をまとめて実施した後に必ず回帰テストを行っているか(原理196)を確かめよ。

(201の鉄則:原理197<進化の原理=この変更は簡単だという信念が正しくない変更をもたらすことが多い>)

― 解  説 ―

 この原理は、ワインバーグの著書(邦訳:ワインバーグのシステム思考法:共立出版)から引用されています。ワインバーグという人は、ソフトウェア開発者の心理についてとても造詣が深い人で、どのような行動から、どのような結果がもたらされるか、いわゆる「因」と「果」を、とても良く知っている人です。

 それだけにこの原理は非常に厄介な問題を提起しています。実際、多くのソフトウェアの開発現場では、何度もこの問題で苦汁を舐めさせられたはずです。にもかかわらず、そこでは「原因」に触れられることなく、殆どの場合“不運な出来事”として処理されるのです。それは、この「原因」が、余りにも“心理”の奥に根差していて、殆どの人は、そこに辿りつくための「糸口」を持っていないのではないかと思われます。

タイタニック効果

 ここで参照されている原理171は「タイタニック効果」と呼ばれているもので、それは「惨事は起こりえないという考えは、しばしば考えられない惨事を引き起こす」というものです。要約すると、タイタニック号の所有者は、この偉大な船は沈まないということを“知っていた”ために、救命装備も不十分だった上に、氷山に遭遇する可能性のある航路であったにもかかわらず、見張の徹底など、氷山を避ける明確な行動を取らなかった、と言うものです。

 いうまでもなく、これはタイタニック号に限られたことではありません。ソフトウェアの開発現場でも、ほとんど日常的に行なわれている「行動」でもあります。

完璧さの上に

 ソフトウェアは、ある意味ではそれが求められている機能や要件に対して「完璧」でなけれななりません。もちろん、使われない組み合わせについては、ある程度「許容」されることはありますが、それ以外では許容されることはありません。その完璧さが、“この変更は簡単だヨ”という言葉で崩されていくのです。しかも、実際のソフトウェアの変更は、コードを変更するだけであって、壁に穴を開けるわけでも、鉄パイプを溶接するわけでもありません。実に気軽に変更できるのです。

繰り返される“簡単よ”

 それにしても、何度“この変更は簡単だよ!”という言葉に騙されれば気が付くのでしょう。その度に、“思わぬところ”の仕掛けに振り回されるのです。そして「どうしてこんなところに仕掛けがあるんだよ!”と、大声を上げる。当人は、ここで声の大きさによって「不可抗力」という認定が得られることを知っているのです。

 そうしてやっと終わったときには、既に「タイタニック効果」について振り返られることはありません。今となっては、あの時の“新鮮な”戸惑いは既に色褪せて、その後の“献身的な”努力が、戸惑いの色を塗り替えてしまったのです。

簡単だと思いたい状況

 なぜこうも落とし穴にはまるのか。それは、「簡単だ」と言いたい状況にあるということです。たとえば、最終段階に入って作業の遅れを取り戻したいときに、新しい要求を引っ張り込んで、そこに便乗して“何とかしよう”と考えることがあります。そのような状況では、その変更の影響範囲や副作用については、十分に検討されることがありません。

 もう一つのケースは、要求段階の詰めが甘いまま作業に入ったものの、テスト段階に入ってその機能を入れないわけには行かないという時に、担当者に向かって「簡単だろう」という言葉を使うことがなります。その際、開発期間に余裕があればいいのですが、責任者の「面子」などもあって、期間的に厳しいときには、どうしても“簡単だと思いたい”心理に陥るのです。だからこの問題は厄介なのです。

一度の過ちの代償は

 こうして、強引に「問題ない」と思うことで、いつもの変更に対する警戒心を押し込め、必要な検討作業が省かれ、“誤った変更”、或いは“副作用”に見舞われるのですが、こうした1度の過ちが、納期を大幅に遅らせたり、ソフトウェアのアーキテクチャを崩してしまったりするため、その後の開発作業に大きな後遺症を残すことになります。実際、この原理に引っ掛かるときは、1週間の「見積もり」が1ヶ月掛かるということは、決して珍しいことではありません。

 開発の遅れの最大級の原因の一つは、そのプロジェクトが予定通りに開始されていないことにあり、この1度の過ちがその原因になることがしばしばあるのです。その後は、全て後手に回るという恐ろしい状態に陥るのです。

プロセスの改善

 この状態を脱するには、その原因がスケジュールの遅延にあるのか、要求定義の甘さにあるのかを見極めることが必要です。前者の場合は、詳細なスケジュール管理を取り入れることになります。一方、後者の場合は、勇気をもって要求仕様書の策定作業に有能な人材とリソースを投入することです。管理者が勇気をもってこの判断をするしかありません。もちろん、それによってスケジュールを圧迫するように感じるかも知れませんので、この場合も、詳細なスケジュール管理を併用する必要があるかも知れません。

 何れにしても、“この変更は簡単だ”という言葉が安易に使われないように気をつけて下さい。


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(第93号分)

外為市場  東京からシンガポールへ 


▲今年に入って、有力外国銀行が相次いで東京市場から撤退し、外為業務のアジアでの拠点をシンガポールに移した。外為業務を中心に営業していた東京支店そのものを閉鎖した外国銀行もある。一方、東京の株式市場の方は、既に縮小均衡の状態にあり、株式の持ち合いの解消などといった施策が講じられない限り、賑わうことはない。

▲今日では、「マネー」は眠らない。これまではロンドン、ニューヨーク、東京の3拠点で、世界のマネーは動いてきた。東京とシンガポールの時差を考えると、位置的にはどちらでも問題ない。要はどちらが「市場性」に優れているかという問題であり、需要と規制の問題である。

▲フランスに左派政権が誕生したことで、一時的には「ユーロ」の発足に影響が出るかも知れないが、はっきりしていることは、「円」は完全に“ローカル・カレンシー”になったという判断であり、ドル、ユーロに相当な「水」を明けられる可能性があるということである。90年代始めにグローバル・カレンシーになるチャンスがあったが、大蔵省は通貨の操縦権を手放すのをためらったため、そのチャンスは消えた。

▲もう一つの原因は、当面アジアに於けるマネーの需要は、シンガポール・マレーシアを中心とした地域にあって、日本にはないということである。来年4月に改正外為法が実施され、引き続いて「日本版金融ビッグバン」が計画されているが、これが予定通りに実施されることはないという判断も入っており、たとえ実施されても、アジア以上に日本に資金を呼び込む力にはならないとの判断である。「選択肢」が与えられないのなら、「選択肢」を手に入れるしかない。



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 第76回

ベル友


 「ポケベル」―これは本来は緊急の呼びだし用に開発されたものだ。営業マンには必携の道具であった。それが今日では10代の若者に必携の道具となっている。テレビのコマーシャルもそれをあおった。

 そのためポケベルを持たないで中学・高校生活を送るには、それなりの覚悟が必要になっている。持たない生徒が少数派になっているからである。もちろん、持たない生徒も何割かはいるし、ポケベルを持ていても、中間に位置している生徒もいるが、そのような生徒に行き当たるには、一度や二度は「悩みのトンネル」を通り抜けなければならないかも知れない。

    § × §

 だが大抵は、トンネルの途中で立ち止まってしまう。これまでの10数年間に、耐えること、悩むこと、そして自分なりに答えを見出して来ていなければ、「ポケベルトンネル」は通り抜けられないかも知れない。

 途中でしゃがみ込んで、ポケベルを与えてくれない親を恨むだろう。そのような「姿」は「いじめ」の対象になってしまうこともある。そうなると親はポケベルを与えるしかない。ポケベルを手にした子供は、嬉しさのあまり大急ぎでトンネルを戻って、手前の公園に屯している「ポケベルの輪」の中に飛び込んでいく。「買ったよ!」。

 こうなると、次は携帯電話も同じ経路をたどることになることになるのだが、親としては、取りあえずこうしてでも、目の前の問題を解決するしかないし、それまでの「親としての悩み」が深かっただけに、安堵感の光が強く、その向こうに来る問題には気付かない。子供も、トンネルを“抜けた”と思っているから厄介だ。それでも、ポケベルがあることで今は「1人」ではない。

 「みんな」と一緒に街へ繰り出したり、カラオケで楽しい時を過ごすことが出来る。離れていても、ポケベルで「言葉」をかけあうことも出来る。なんと素晴らしいことか!

「今日どこに行っていたの?」

「午後ヒマ?」

 まるで傍にいるような錯覚にすら陥る。

    § × §

 はては、「ただいま!」というメッセージまで飛び込んでくる。

 家に帰ったときに誰もいないから、「ベル友(ポケベル友達)」に話しかけるのである。「ただいま」をいう相手は何時も決まっているとは限らない。それを受けた人もまた「おかえり!」と返す。返さなければ、たぶん「その人」からのメッセージは2度と来ない。それが怖いから「お帰りなさい」と返す。

    § × §

 だがそんな彼らもそのうちに気づくことが一つある。それは「ベル友」は表面的な調子合わせの“友人”でしかないことを。もちろんそうでない「ベル友」もいることは断っておかなければならない。

 10代は悩みの「るつぼ」でもある。好きな人、ファッション、ダイエット、小遣い、勉強、学校、クラブ活動、親との関係、自分の将来など一杯ある。これらが形を変えて、彼らの前に立ちはだかる。「ベル友」はこれらの問題を解決できる友だろうか。だから、今度は個人情報誌を通じて「親友」を求める。

    § × §

 そんな彼らに「親友ってどんな友達?」と聞くと、「何でも話せる友達」と答える。そう言う定義しか知らない。「ベル友」はそんな他人の煩わしいことに関わってくれないのである。だから自分の悩みを聞いてくれる人を求める。

 だが、「個人情報誌」の世界は、「ベル友」の世界でもある。会ったこともない人のポケベルにメッセージを流すのと同じ感覚で、個人情報誌にメッセージを流す。「親友になって下さい!」と。そのメッセージに反応があっても、悩みを打ち明けるところまで行くと、返事は返ってこなくなる。顔を合わせたわけでないから、別れるのも簡単である。

 この世界で「親友」を求めるのは、波に打ち上げられた無数の貝殻の中から、生きた貝を見付けるようなもの。それよりも、ひろ〜い砂浜で一つの貝を見つける方が易しいかもしれない。

 そこで「親友」を求める自分の姿は、かって「ポケベル」を欲しがった姿と同じであることに気付かない。唯一違うのは、親にはねだることが出来ないということである。それが分かっているから、代わりに「個人情報誌」にねだったのである。だがそれも空振りだ。

    § × §

 彼らは。個人情報誌を通じて親友を“求める”だけで、親友になろうとはしていない。いや、なれないのかも知れない。親友になるためには、その人の話しを聞いてあげなければならないし、一緒に悩むことになるかも知れない。それは“煩わしい”ことだったのではなのか。

     ◆  ◆

 多感な時期に、対人関係を築くトレーニングをしてこなかった人は、大人になってから間違いなく苦労するだろう。   


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 (第92号分)

「わが国では、多くの若者が絶望という学校
 の中で生きている」

    (チャンゲ=アメリカの教育家)


 今、日本の中学生は、まさに「絶望」という学校で生きている。特に都会の中学校はまるで刑務所だ。何の罪だか知らないが、3年間服役しているようなもの。朝の校門では教師が、竹刀やスカートの丈を測るための定規を持って立っている。外から見れば異様な光景だが、当の教師は正気なのである。

 全校集会で講堂に集まったときは、生徒を座らせて、その周りを回遊して服装や姿勢をチェックしている。教師自身、校長の話しを聞いていない。これは最早「学校」ではない。まるで公立の「更生施設」である。

 授業について来れない生徒は置いていかれる。座席の順に答えていきながら、或る生徒のところで飛ばしてしまう。これは屈辱以外の何物でもない。気に入らない生徒は幾ら手を挙げても指名しない。完全に無視である。学校でのいじめの原点はまさに此処にある。先生に逆らったら、テストの点数は及第点でも評価は「1」に落とされる。そのような生徒と、一緒に居るだけで「仲間」と見做される。「職員室」では、腐敗と頽廃の区別もつかないのではないか、と思いたくもなる。信じられないかも知れないが、これはフィクションではない。

 この3年間で、成長期の若者は、誠意や公正さはもちろん、優しさや弱い人を思いやる気持ちも、はては人間性とか人間としての尊厳までボロボロにされてしまう危険がある。中にはこの期間を無事に過ごす代償として「見ザル、聞カザル、言ワザル」を身に付けてしまう。本気で疑問を抱いたら学校には行けない。こうなると不登校がむしろマトモなのかもしれない。

 大人は、総会屋に便宜をはかったり、利益を隠したりしているだけではない。「学校」という場で、明日の日本を支えてくれるはずの若者を、完全にスポイルしてしまっている。あぁ、なんと罪深きことか。


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