この原理を“勧め”ているのは、この本の著者ではなく、この伝言を発した人(この場合、Khris
F. Kemerer と言う人)です。「201の鉄則」という本は、著者アラン・デービスが、多くの人の「伝言」を集めた本ですが、その伝言は著者自身の波長と合ったものでもあります。著者にもこれと同じ考えを持っているが、それを自分の言葉として伝えるのではなく、同じようなことを別の人が言っている場合は、その人からの「伝言」として伝えているのです。従ってアラン自身の伝言は、この本の中には数%しかありませんそれだけ多くの人が、この201箇条の中で警鐘を鳴らしていると言うことです。
我が国において、「CASEツール」という言葉は普及していても、実際には普及していると言える状態ではありません。普及の先導役となるべき企業の開発組織が、効果をあげていないことが大きな要因と思われます。失敗とはいかなくても、成功していない状態であることには間違いないでしょう。そのため、そのような企業を中心に一巡したところで停滞している感があります。
CASEツールは一般に「手法=Method」を背景に持っています。それらの「手法」はおしなべて「Engineering」を提供するものです。「Engineering」とは、誰が行っても、そこに示された「Standard」や「Procedure」に従うことで、ある程度の成果を手に入れることを保証するものです。その為に「手法」には論理的な整合性や一貫性が欠かせません。
この「手法」を理解し、習得することが出来ないことが、CASEツールが普及しない直接の要因でしょう。
ソフトウェア・エンジニアにとってプログラミング言語が変わるということは、その言語でプログラムを記述しない限り、仕事が進まないことを意味します。しかしながらCASEツールの背景となっている「手法」は、言語のような“それでなければ進めない”というものではありません。実際に、今日までそのような「手法」を意識することなく設計しプログラムを書いてきた「事実」あるいは「実績?」があるのです。
頭のなかで適当に考えてはコンピュータの画面に向かってプログラムをインプットし、途中で、昨日書いたプログラムとI/Fが合わないことに気付いては、画面を切り替えて直していく、という方法でやってきたのです。もちろん、彼は最近の顧客の厳しい要求に対して不安を感じているとしても、彼にはこの方法しか考え付かないのです。
新しい言語によっては、その言語でプログラミングするために若干の進め方の制限が付くかもしれませんが、それでも、信頼性などの品質に目を閉じるとすれば、大部分の人は今までの方法で何とかしようとするでしょう。ましてや、言語が同じままで「手法」を導入しようとすれば、そのような現場にあっては、やり方を変える動機が無いかもしれません。
もう一つの問題は「CASEツール」の導入に、“信頼性の向上”“開発期間の短縮”といった付帯条件が付けられていることです。ソフトウェア開発組織の管理者(マネージャー)は、この点で大きな考え違いをしています。
今まで、信頼性の低いプログラムしか書いてこなかった人が、このツールを使った途端に、彼の書くプログラムの信頼性が上がるという根拠はありません。信頼性や開発期間の問題の原因は「手法」にあるのではありません。たしかに、作業の進め方に原因の一部があり、その分は「手法」に基づいたツールを使うことで改善される可能性はありますが、それでも、ツールを正しく使わないで、自分の都合に合わせて使うようでは、その効果も得られないでしょう。
一般に、この種のツールを使わせて効果が上がるのは、もともとツールの無い状態で、自分で手法を勉強して、適当なツール(正規のCASEツールではない)を使って表現しながら仕事を進めていた人に限られるようです。CASEツールは、このような人に与えたとき、その能力が十分に発揮されるのです。
言い替えれば、考えるところを文章にしたり絵や図にしたりする能力、及び、そのような習慣が無ければ、CASEツールは使えないと言うことになります。ツールが与えられればその様な能力が開眼する訳ではないのです。もちろん、それによって表現する“習慣”が身に付くはずもありません。論理がまったく“逆”なのです。
したがて、大事なことは、普段から考えるところを表現する習慣を身に付けることです。私はこれを「何事も形にしなければ力を発揮しない」という言葉で説明してきました。これには、いくらかの能力も必要かもしれませんが、それよりも「習慣」の方が大きな比重を占めています。
この他、現実的な問題として、プロセス・レベルが「1」の組織では、新しい「手法」や「CASEツール」の使い方等を勉強する時間が確保できないことです。この種の手法が身に付くためには、1年ぐらいの継続が必要ですが、常に納期を外している組織では、それが身に付く前に、元のやり方に戻さざるを得ないのです。また、予算をオーバーしている組織も、手法を習得するために外部のセミナーを受けることは難しく、自分で本を読んで習得しようとしても、直ぐに目の前の仕事に使えるわけではなく、結局は元のやり方に戻ってしまうのです。
したがって、CASEツールを使いこなすには、プロセス・レベルを「2」から「3」に引き上げることが必要で、その取り組みの過程で、この種のCASEツールを活用できるようになるはずです。少なくとも、書くべきものが書けて、ある程度「約束」できる状態でなければ、使いこなせないものなのです。
▼スイスの世界経済フォーラムというところが、97年版の「世界競争力報告」なるものを発表した。それによると、日本は14位にランクされている。去年は13位というから、余り変わっていない。ちなみに1位はシンガポールで、香港、米国と続いている。アメリカは本当に競争力を付けた。
▼他に、8位に台湾、9位にマレーシアと健闘している。大きくジュアンプ・アップしたのは英国で、昨年の15位から7位にアップしている。市場の開放政策が評価されたのと、新しい労働党のブレア政権の政策が、金融の監督機関を一本化するなど、市場の要請に素早く応えているのが受け入れられているのだろう。
▼このランキングは、社会基盤や外国からの投資や労働者の受け入れなどの開放度、さらには政府の政策など、「競争力」に関わる広い尺度で判定しているようである。日本の企業も個々の企業レベルでは、世界に伍していける企業も出てきたが、全体から見れば、ごく一部の企業にすぎない。
▼2001年に予定している「金融ビッグバン」は、国としての開放度を上げ、競争力を高めることに寄与するはずだが、その前に、軒を貸して母屋を乗っ取られる企業も、沢山出てくるだろう。それは「競争」というなかでは仕方のないこと。しかしながら一方で大店法(大規模小売店舗法)の運用がどんどん後退している。この国は、やることがバラバラだ。
「え〜っ、みんな持ってるから」
都会の裏通りのかわいい店に群がる女子高生に向けられたマイクに返ってくる言葉である。実際にどれだけ普及しているか分からなくても、“みんな持っている”と思い込んだら最後である。
いろんなアクセサリーや“たまごっち”も、この類で普及したし、最近では大きめのリボンが売れているという。たぶん、雑誌か何かで“流行っている”と書かれた文字を見たのだろう。それだけで売れるのだから、企業のマーケティング担当者も、女子高生をターゲットにしようとする。
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10代の飲酒も確実に増えている。酒類の自動販売機の普及や、低アルコールの飲料が増えたことに加えて、不登校や中途退学者の激しい増加が、その背景にあるものと考えられるが、もう一つ「みんなやっていること」という価値判断も、そこにあるように思う。
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そこには、行動の善し悪しや、公正/不公正の判断が、殆ど欠落している。行動の基準は、そんな処にはなく、「みんながやっているかどうか」にある。もちろん、この場合の「みんな」は、その人の主観であって、客観的なデータがあるわけではない。周りの何人かの行動を見て、自分の行動を決めているだけである。その結果、瞬く間に誰もが同じ行動を執ってしまう。そのような中で、「善し悪し」を判断の基準に持つ人の行動は、その集団から浮き上がってしまう。というより、異様な感じさえ与えるかもしれない。
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異様さは、いじめの対象になるのは言うまでもない。付き合いが悪いとか、“いい子ぶって”などと、難癖を付けられる。それに耐えられなければ、周囲に同調して判断規準を変えるか、その集団から離脱するしかない。そのような人にとって、自殺も、離脱の一つの方法だろう。
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このような行動は、まるで小さな魚の群れが、一糸乱れぬ行動をとるのに似ている。この場合も、リーダーになる魚がいるわけではない。自分の回りにいる何匹かの魚の行動に合わせることで、あのような動きになる。「かつお」などの大きな魚の位置や、海流などの外的要因を感じた一匹の魚が、ほんの少し動きを変えることで、周囲にいる魚もそれに同調する。それが一瞬の時間の中で、群れ全体に波及する。そこでの判断基準は「みんながやっているから」である。そこでちょっとでも反応が遅かったり、違った反応をすれば、群れの外にいる大きな魚の餌食なる。
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このような行動の問題は、何も10代の人に限ったことではない。学生の立場を終了して大人になっても、行動の善し悪しの判断がなされずに、「みんながやっているから」という規準?で行動している人がいる。というより、通勤電車の中や、人の集まるところを見ると、むしろそのような人が増えているようにすら見える。
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車両の進入が禁止されている道路を堂々?と通るのも、停止時間の長い信号の手前の道路中央の植え込みに空き缶やレジ袋のゴミの花が咲くのも、駐車場で運転席のドアを少し開けて車の下に吸い殻を捨てるのも、「みんながやっているから」である。
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さらに言えば、企業の経営も「みんながやっているから」という理由で、判断されている節もある。それがその企業の理念に対して正しい行動であるかどうかという基準は隅っこに追いやって、「B社もC社もやっている」ということが行動の基準になっている。しかも厄介なことに、この場合は個人の行動の場面と違って、「囚人のジレンマ」の問題が強く作用するため、「B社もやっている」という事実ではなく、想像と、先を越されてはまずいという思いで動いてしまう。
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証券会社の損失補填や総会屋との裏取引なども、行動に善悪の判断基準があれば出来ないこと。いや、もっと身近なところで経費の水増しがある。
日曜日にファミリー・レストランなどで、どう見ても家族での食事と思われる人が、領収書を要求しているのを見ることがある。また少し前に摘発された、在籍しない人に給料を支払うという方法も、古典的?なやり方である。これなども、「みんながやっているから」ということであろうし、そうだとすれば、日本中が小魚の群れよろしくやっていることになる。
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このような中で、頑なに善悪や公正/不公正を行動規準に据えていると異端者扱いされる。そこまで行かなくても、間違いなく「バカ正直」という称号がつけられる。
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魚の行動に善悪や公正/不公正の判断を持ち込むわけにはいかないが、人間までそれで善いわけではない。◆
「定年の必要は実際のところ、年老いたということではない。主な理由は『若者たちに道をあけなければならない』ということである。でなければ若者たちは就職もしなければ定着もしない」
P.F.ドラッガー
「わが国には「隠居」という制度があった。農業にしろ、漁業にしろ、家督を若い世代に譲る手続きである。年老いてどうにもならないから後を譲るのではない。そうしなければ、若い世代が育たないからである。そんなことをしたら、そこで途絶えてしまう。これは社会の知恵である。「隠居」という儀式の後、実権は若い世代に移り、隠居した人は相談を受けたとき以外は口を出さない。しかも相談は受けても、決定は若い世代がやる。
昔はこのような考え方が広く行き渡っていたから、企業にあっても比較的早く次の世代にバトンタッチした。60歳が引退の一つの目安であった。
しかしながら、最近は様変わりした。家督を継ぐような若い世代はいない。それに相続の問題もあって簡単にはいかないから、年寄りがいつまでも続けることになる。暇なのも困るが、休めないのも如何なものか。また、企業にあっては、長く社長の椅子に座っていることが多くなった。当人は70歳を過ぎても元気なものだからいいが、それでは次の世代が育たない。
経営者が適当な期間で交替する理由の一つは、時代の変化に応じるためです。世代の交替が、環境の変化に対応するのに効果的な方法であることは、昆虫などの生物が物語っています。
もし、トンボの寿命が10年もあったら、今ごろ多くの種は絶滅しているかも知れない。