“テスト”―それは、全てのソフトウェア開発組織にとって頭痛のタネでしょうし、開発者自身にとっても、好きになれない関門かもしれません。十分網羅したと思っていたのに、月曜日になってマネージャーが「どうだ、上手く行っているか?」と言って、ちょっと操作してみた途端にシステムが止まってしまった、という経験をした人も少なくないでしょう。「自分のソフトウェアを自分でテストするな」―これは原理109の表題ですが、それほど、テストは容易ではありません。
必要なテストを必要なだけ実施できたら・・・これは関係者の願いでもあります。システムの規模が大きくなり、複雑さが増し、その上、短い開発期間が要求されているなかで、どうやって効果的なテストを実施するかということは、今日ではとても重要なテーマになっています。
テストは何のために行うのか?
それは言うまでもなく、システムに要求されていることが、正しく組み込まれていることを確認するための行為です。新規の開発であろうと、保守開発であろうと、開発作業の動機は「要求」です。その要求を、どのように実現しているか、そこにテストの真価が問われることになります。従ってテストはエラーを見付けることにその意義があるのです。
しかしながら現実には、そこまでテストされないことがしばしばです。その理由は、テストの目的を勘違いしているからです。「正しく動くことを確認する」という姿勢からは、効果的なテストケースが想定されません。と言うより、考え付かないのです。
その結果、表面的な機能テストでは「合格」するかも知れませんが、限界値や発生しうる無効なデータを試した途端に、実現の不十分さが露呈するのです。
原理109で、「自分のソフトウェアを自分でテストするな」と言う意味は、自分が制作したソフトウェアは、どうしても“上手く動くこと”をテストしようとしてしまい、「エラーを見付けること」というテストの目的を外してしまうからです。実際、当事者にテスト作業の状況を尋ねると「上手く動いています」という返事が帰ってきます。本来は「まだエラーが見つかりません」という返事でなければならないのです。
設計者が気付かなかった「範囲」を試すのがテストの目的です。もちろん、そのケースに合理性がなければ問題外ですが、自分でテストをすると、本来の目的に沿った姿勢に立てずに、どうしてもテストが甘くなってしまいます。
とは言え、自分のプログラムを自分でテストしないで済む組織は殆どないでしょう。最終的な品質保証の立場からのテストは別の人(あるいは組織)が実施する体制を組むことのできる組織でも、設計者が、自分のプログラムのテストにまったく関わらないで済むことはありません。
しかしながら、テスト項目を事前に用意しないで、実際のテストの場で、自分のプログラムや設計書を開いてテスト項目を選び出すようなことをやっては、間違いなく自分のプログラムを擁護する結果となり、テストの目的を外してしまうでしょう。
そのような状態を回避するためにも、どうしても事前にテスト項目を作っておかなければなりません。そして、テストを実施する際には、そのリストに従って、感情や願いを交えずに、淡々と実施していく必要があります。
では、そのようなチェックリストをどうやって作るか。それは原理107に書かれているように「要求」に基づくことです。つまり、
・要求の範囲を間違って理解していないか?
・要求を実現する方法を間違えていないか?
・実現すべき要求を勘違いしていないか?
・そして要求を見落としていないか?
などをテストするのです。
これが出来るかどうかは、要求仕様書がうまく書かれているかどうかにかかっています。
残念ながら、多くの開発組織では、要求仕様書が書かれていないか、書かれていても貧弱で、簡単に個条書き程度のものです。個々の要求に固有の番号が割り付けられていなければ、要求とリンクした効果的なチェックリストを作ることは困難です。
それさえ出来ていれば、原理107で提案されている「マトリクス」を作ることが出来ます。もちろん、一つのマトリクスに限る必要はありません。状況によって複数のマトリクスを用意することも可能です。マトリクスにはどうしても“無駄”な部分が生じます。大きくすればするほどムダが増えます。要はそのムダを容認できる限界と、マトリクスを複数に分けるコストの問題です。
先々の使い方まで良く考えられた要求仕様書が、その後の設計作業やテスト作業をスムースに進めるのです。これをいい加減にして先に進んでも、設計モレやテストモレによって、結局リワークで戻されるだけです。
▲昨年発表された国連開発計画の報告書に衝撃的な内容が盛り込まれているという。それは、市場化で急成長する国がある反面、落ちこぼれた国々がある。平均所得が80年の水準より減った国が70ヵ国、70年より減った国が43ヵ国もある。世界の上位358人の億万長者の資産合計は、世界人口の45%が住む国の年間所得の合計を超える、という。
▲1971年以降、我々は「市場化」を時代の流れとして受け入れてきた。それが当然であるかのように振る舞ってきたし、今でもインドネシアを始め、近隣のアジアの国々に対して「WTO」という「御旗」を掲げて市場の解放を求めている。それを求めるのがまるで「権利」であるかのうように。そしてそれに抗する国は、世界貿易の敵であるかのように。
▲この国は、戦後の荒廃のあと今日のように経済的に立ち直った理由の一つは、復興の時期が、ちょうど為替が固定相場制であったことと、市場化を拒否しても、世界から攻撃されない時代であったことを見逃せない。1970年まで日本の産業の基盤は概ね整った。だからこそ、その後の変動相場制への移行や、オイルショックも乗り切れた。ただ、ちょっと気になるのは、それが日本人の優秀さを誇るかのように言われていることだ。
▲今日の「市場化」のルールは、一部の経済的先進国が、自分たちの論理で決めたものである。間もなく日本もそのルールを振りかざす側に加わる。そのルールの下では、遅れている自国の産業を育成するために、輸入品に対して高率の関税を掛けようものなら、経済的先進国は口を揃えて非難し、背広の内ポケットに対抗措置をちらつかせる。だが、これだけ富が片寄ってしまっては、もはやこれまでのような論理で、経済の市場化を地球規模で追及することは危険な状態になるだろう。
総会屋―この言葉から受ける印象は「悪」のイメージだが、果たして本当に企業側が「善」で総会屋はいつも「悪」なのだろうか。マスコミの報道も手伝って、総会屋は完全に「悪者」にされているし、実際に「悪」も居るだろう。法律の面からは、総会屋は追放されるものということになっている。
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総会屋に金品を提供する理由は、定時株主総会の議事の進行を“円滑に”するためである。ただし、この“円滑に”という意味が、式次第に沿って三〇分で終わることを言う。定時株主総会は、決算の報告、次年度の経営方針の説明、関する質疑応答の場である。それが「三〇分」で終わるということは、全ての議案に対して「異議無し」で、なおかつ質問は一つも出ない状態である。
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何故か、日本の企業経営者は一部上場の企業であっても、この状態を「良し」としている。彼らにとって質問されること自体が「汚点」なのか。その証拠に、去年よりも短いことを競っているし、総会の日程も、多くの企業が同一日に設定している。それによって、うるさい株主を排除しようというのである。衣こそは資本主義のマークの入ったものを纏っているが、実態は共産主義の国家運営と変わりはない。
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資本主義は、株主がいて始めて成り立つというのに、株主も邪険に扱われたものである。精々、ちょっとしたお土産をもたされる程度である。これでは、個人株主が増えないのも当然だし、相変わらず株主資本主義は成立しない。株主に、詳しい情報も提供されていないし、殆どの株主は企業の実情を知る方法はない。総会で配られる資料が全てかも知れない。それも事実である保証はない。
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しかしながら、総会屋は知っている。彼らの情報網は広いし、何よりも早い。談合の実態や、商品の欠陥情報、表に出ない金の動きなど、いろんな情報が集まってくる。逆にいうと「ネタ」を掴まれているのである。総会屋を締めだす法律を厳しくしても、一時は“鳴り”を潜めるが、しばらくするとちゃ〜んと「存在」しているのは、企業の方が相も変らずネタを提供しているからである。法律を厳しくすればするほど、逆に「ネタ」の相場は高くなる。
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「期待通りの収益をあげることと、倫理的に正しい行為のどちらかの選択を迫られた場合、私たちはもちろん迷わず正しい行為を選ぶ」。これはTI社の会長メッセージである。そして、同社には「倫理カード」というものがあって、六万人の社員に配られているという。そこには、
●「それ」は法律に触れないだろうか
●「それ」はTI社の基本方針に合っているだろうか
●「それ」をすると良くないと感じないだろうか
●「それ」が新聞に載ったらどう映るだろうか
●「それ」が正しくないと分かっているのにやっていないだろうか
という五つの判断基準が書かれているという。(三月二一日付け日経新聞より)
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もちろん、このカードが配られているからと言って、全ての社員が過ちを犯さないという保証はない。しかしながら、組織のどこに属する人であっても、この基準は通用する。
また、今日ではアメリカの企業の四割程で、倫理担当役員を置いて、企業のトップであろうとチェックの対象としているし、社員からの相談も受けるという。もちろん、所属のマネージャーには氏名は知らせない。
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確かに、アメリカという国は、企業に限らず、組織のチェック機能を働かせるのが上手い。それに、妙な経営をして「ネタ」を提供し、会社に損害を与えたら、すかさず株主から損害賠償を請求される。それも生半可な額ではないから、必然的に厳しくなるのかもしれない。
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これまで、「倫理」といえば日本の十八番だったはず。明治維新のときに、日本の資本主義の基盤を築いた渋沢栄一は、「右手に算盤、左手に論語」と言われた人物で、論語に精通し、論語を経営の精神的背景に据えてきた人である。同氏の著作である『論語講義』(講談社学術文庫刊)は、渋沢栄一が実業家の立場から論語を解釈し講義したものである。
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論語の里仁篇に『利によって行えば怨み多し』と言うのがあるが、これに対して渋沢栄一は、「これ実業家の終身恪循(かくじゅん)すべき明教にあらずや」と言い、「正当の道によらず無理をして得たる富や地位は永続せぬもの」と言う。そして倫理を踏み外すようだと「商工人は思想低下の賎丈夫(せんじょうふ)」となってしまい、「光輝なき実業となり終わらん」と、実業の将来を案じて、八四歳の時に「論語講義」を書いた。
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果たして渋沢栄一が、「思想低下の賎丈夫」の溢れた今日の状態を見て何と言うか。 ◆
「蓄うること厚ければ発すること遠し。
誠の物を動かすは、慎独より始まる」
佐藤一斎・言志四録
蓄えなければ発しない。発すると言っても口から出るものとは限らない。「貌」もある。貌といっても顔形(だけ)ではない。空気や雰囲気と言うものもある。蓄えは風貌にでる。だからリンカーンは、側近に推薦された人を一目見て、「顔が気に入らない」といって断った。
昔、顔の半分以上に火傷の痕を持つ女性と同じチームで仕事をしたことがあるが、それが全く気にならない不思議な雰囲気をもった人であった。今思い返しても、蓄えることの厚い女性であった。
企業の中では一枚の辞令で「発する」ことを求められることがある。事前に蓄えがあれば迷うことはないだろうが、我が国では技術者は一般にこの種の蓄えは不足しているか、殆ど持ち合わせていないこともしばしばある。或る程度蓄えが出来ていれば、あとはマイペースで蓄えを厚くしていくこともできようが、蓄えが大きく不足している場合は大変だ。
それでも、何とかして蓄え始めればいいのだが、一般にこのような人の場合、蓄える方法を持たないから厄介だ。本屋に行っても、一体、何を読めばよいのか分からない。そうこうしている間にも毎日の業務に追い回され、いつしか「蓄えの必要性を感じた」ことなど忘れてしまう。
今日、蓄えが不足している理由の一つに、独を慎んで何かを想うとうことが無くなったことも大きい。周りに画像や音が氾濫し、雑然・騒然に慣れてしまったために「閑」に耐えられない。
マルチメディアの時代だし、ネットサーフィンも結構だが、やはり「慎独」の必要性は変わらないはず。