残念ながら、この鉄則に違反している組織やチームは沢山あるものと思われます。
そのプロジェクト自体、本当に達成不可能なのかどうかは別として(というより、第3者には容易に判断できないこともありますので)、少なくともそのやり方では達成しないことが明らかであれば、そのまま作業を続けることに、一体どのような意味があるのでしょうか。それはまるで、脱線することが分かっている電車に乗っているのと同じです。もちろん、実際に脱線するわけではないので、ケガをするわけでもなく命を失うわけでもありません。しかしながら、そこに費やした時間は戻っては来ません。
期日に達成不可能と思いながらでも、何時かはそのプロジェクトは終わるかもしれませんが、その時には既に「期日」を外しているため、顧客から評価されることはないでしょうし、それが市場に出す製品であるなら、発売のタイミングを逸したことで売れる商品とはならないでしょう。「タイムリー性」も、「信頼性」などと同じように品質特性の一つであるという考えもあるほどです。それを外せば商品としての価値がなくなるという点では同じなのです。
そして、もっとも大事なことは、メンバーはそような目標を見失った作業から得るものがあったのかどうかです。今回は期日を外したとしても、次回はもっと上手くやれそうな「何か」を手に入れたのでしょうか。それならまだ救いはあるのですが、実際には、最初から達成する積もりもない状態で作業が為されてきたのですから、おそらく「次」に繋がる何かを手に入れることは無いものと思われます。その証拠に、彼らは次回も同じような姿勢で取り組むのです。
それではどうして、達成する見込みのないまま作業を続けるのか。
それは、「出来ない」と言えない状況がそこにあるということです。その主な理由は、前の作業の終了がずれ込んだため、次のプロジェクトに取り掛かるのが2ヶ月も遅れてしまったことです。当初の「計画?」では6ヶ月確保されていたのに、もう4ヶ月しか残っていないのです。とても、4ヶ月では出来ないことは分かりきっているのです。
でも、4ヶ月しか無くなったのは、その前の作業が遅れたからであって、だからこそ担当者は「出来ない」とは言い出せません。でも、そのままでは達成出来る見通しは0%なのです。
そしてそのような組織にあっては、管理者も彼らの「出来ない」という声を聞こうとしません。まるで、それを聞くことで、管理者としての“弱み”を見せることになるとでも思うのでしょうか。ただ、「出来ない約束」の履行を要求するだけです。鉄則147は、そこからは何も生まれないことを指摘しているのです。
着手が遅れてしまったものはどうしようもありません。というより、遅れることが見えたとき、適切な行動を取るべきなのです。つまり、
・遅れを取り戻すための別の方法を探す
・次のプロジェクトの取り組みを検討し直す
といった対応策を講じるべきなのです。機能のトレード・オフや優先順位の調整、あるいは別の人を回して先行させると言う方法もあるでしょう。時には、遅れている今の仕事を、更に1週間遅らせて、次のプロジェクトの段取りを先にしておいて、リーダーが居なくても、着手できる作業を割り出すという大胆な方法もあります。その方が、次のプロジェクトへの影響を最小限に食い止めることになる場合もあります。もちろんこれはリーダーだけの判断では出来ません。管理者が判断することなのです。
そのような非常事態にあっては、管理者(またはマネージャー)を交えて善後策を考えるべきなのですが、実際には、管理者は「要求」するだけというのも困ったものです。
達成不可能と分かっていながら作業を続けていても何も解決しません。出来るだけ早い段階で、もちろんプロジェクトの途中からでも、CMMの言うプロセス・レベルを1から2に引き上げる取り組みの中の、
・要求仕様をまとめる
・詳細な作業の計画と、その厳密な進捗管理
を取り入れることです。
このような組織では、自分たちの作業の「ゴール」が曖昧なために、リワークが頻発していることが多いのと、作業の段取りが悪いことで、殆ど全ての作業に遅延が生じているのです。こうした“ダブル遅延”の中で作業を行っている限り、どうにもなりません。
したがって、まずは「今」の作業から遅延をなくすことが先決なのです。そして遅延状態の中でとにかく、要求のまとめ方や、スケジュールの書き方、進捗の進め方を研究するしかありません。そのために時間を投入しない限り、達成不可能な状態は変わりません。もちろん、研究に投入した時間分だけ遅れる可能性はありますが、遅れを取り戻す方法を手に入れる可能性もあるのです。そしてそれは、どのような意識でそのことに時間を投入するかによって決まります。つまり、最初から遅れを取り戻す方法を手に入れる積もりで研究すれば、必ずそれは手に入るということであり、そのような「自分」を信じることが出来るかどうかです。
達成する見込みがない状態で作業を続けても、メンバーの志気は上がりません。そのような状況では、お互いが仕事をしているポーズを続けているだけで、時には、その“ポーズ”を見破られないことにのみ意識が向いている可能性もあります。これはもう「悲劇」以外の何物でもありません。そのような状態で作業を続けることは、単に「ムダ」というだけでなく、むしろ「害」ですらあります。
もし、本当に実現しないプロジェクトであるなら、それに取り組むことに合理的な意義は存在しません。取り戻すことのできない大切な時間をそのような形で使ってしまうことは、その人にとって損失以外の何物でもありません。
『人生は習慣の織物である』とは、アミエルの言葉ですが、そのような目標のない状態での作業を毎日繰り返していることで、思考回路もそれに合わされてしまうでしょうから、その人の人生を狂わせてしまう可能性が高いことを、関係者は認識すべきです。そして何よりも自分を信じることと、「勇気」を持つことです。
▲「お自動さん」「無人君」「いらっしゃいマシーン」―これらは大手消費者金融会社の自動契約機の呼び名である。この効果は抜群で、個人の無担保ローンの融資残高は、昨年8月時点で大手3社だけで2兆5千億円と突破している。各社とも前年比で20%近い伸びである。
▲誰にも顔を会わせることなく、しかも手軽?に新規の契約が出来るということで、機械慣れした20代の若者が急増し、契約者の半数近くを占めている。1口座あたりの平均貸出高も50万円に近づいており、すでに法律の限度に近づいているし、家計の可処分所得に占める消費者金融残高の比率も平均で23.2%と、米国の19.2%をとっくに越えている。
▲この国の経済は80年代以前のような成長路線に戻ることはないし、たとえ幾らか上向いたとしても、一層の生産性が求められる以上、雇用の門が以前のように開かれることはない。アジアや途上国の経済が拡大し、日本のコストの割高感が解消しない限りこの状態は続くだろう。国内のコストを引き下げる努力をしたとしても、「差」が縮まるには10年単位の時間が必要である。
▲消費者ローンの自動契約機は間違いなく多重債務者を増やす。業界で多重債務者をチェックする仕組みはあるはずだが、発生すると思われる貸倒損失以上に貸付残高を増やすことで、問題を隠そうとしている。その結果、数年の内に返済不能に陥る人が急増するだろう。既に、昨年の1〜5月の自己破産申請数は、前年比30%増で2万件を越えており、その兆候が見えている。
日本経済に対する判断として「ゆるやかな回復基調」という言葉が使われて久しいが、一向に回復しているという感じがしないのは私だけではないでしょう。そう思ってもう一度「緩やかな・・・」の言葉を見直して見ると、なんだかよく分からない言葉です。役人は見事な言葉を作り出すものです。
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今日のような経済状態のなかで行われる議論の一つに「雇用か競争力か」という二者択一の議論があります。言うまでもなく我が国では、これまで右肩上がりの成長の中で雇用が全てに優先されてきました。
そして今までは日本の経済そのものが世界経済の中で一定の競争力をもっていました。比較的低い労働コストと高い生産性、そして品質の良さが競争力となって日本の経済を支えたのです。その中で品質以外は、別段「競争力」を意識しなくても、当時の日本が相対的に備えていたものです。したがって当時としては「雇用」だけを考えれば良かったのです。労働や企業会計などの法律も雇用の維持に照準を合わせて作られています。
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しかしながら、今日ではその労働コストは世界でも最高水準となり、生産性は米国の半分近くにまでに落ちてしまいました。これまでのわが国の“生産性”は、単に均質な教育水準と、「人並み」意識の高い日本人の特性と、右肩上がりの成長神話の中で得られたものに過ぎないという一面もあります。「QC」活動も、今日の閉塞状況をみると、そのような条件の下に比較的容易に受け入れられてきただけかも知れません。
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この間、各国の品質に対する努力もあって、今日では三つの要素とも相対的に競争力に寄与しなくなっているのです。付加価値に対する総人件費の割合が七〇%に達するという状態が、全てを物語っています。
その結果として、「企業内失業」という言葉を作り出したし、「片道キップ」の出向という言葉も作り出しました。「雇用か競争力か」という議論は、そのような中で持ち出されているものです。
それは、ここに来て改めて「競争力」という問題が浮上していることを意味しています。韓国で大規模なストが行なわれているのも、雇用に対するイニシアチブを企業側に与える法案を可決したことがきっかけです。オーストラリアでは一月から同様の主旨の法律が施行されています。要するにこれ以上雇用のことを優先しておれないというものです。
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しかしながら我が国は、失業の存在を前提としていないため、再教育期機関などの社会的な整備が遅れています。というよりも、経済活動にもとなう雇用の変動は、企業の中で吸収することを前提としてきたので、そのような整備の必要性について議論がなされなかったのです。
雇用と競争力に関する議論は、緊急のテーマとしてもっと活発に行われても良いものですが、残念ながらそこで行われている議論は、
「労働者が居ての企業だから何としても雇用を守るべきだ」という主張と、「いや、競争力がなければいずれは雇用を維持できなくなる」という主張がぶつけ合っているだけで、そこから先に進展しているようには見えません。このように、最初から雇用と競争力を相対するものとしてしまっては、その両方を手に入れるためのアイデアは生まれてきません。
雇用と競争力は表裏一体であるべきです。「競争力を持った雇用」を求めるべきです。その時の状況によって、何割かはどちらかに重きが置かれることはあっても、あまりにも片寄っては何の意味もありません。
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一般の企業は福祉団体ではないのですから、全ての人を無条件に抱えることは出来ません。それに企業は元より社会に貢献するための特定の活動目的を持っていて、その目的に沿う人が集まって活動するわけです。そこでは、競争力は社会に対する活動を継続するための条件でもあります。A社と同じものを作ることが出来るからといって、品質が悪かったり、コストが掛かりすぎては、同じように経済活動に参画することは出来ません。
したがって雇用に際しては自ずから「条件」、すなわち企業が競争力を維持できるための水準があります。それを従業員に明示することが必要であり、「雇用」とはこの条件を満たす形で維持されるべきです。そうでなければ、一時的には雇用が成立しても、継続することは困難だからです。
もちろんその様な条件を備えた人をを集めるだけでなく、社内に於て継続的に教育することも必要でしょう。
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いま大事なことは、いろんな方法を使って「雇用」と「競争力」の最適解を求めるための方策を考え、実施することです。単に雇用か競争力かという二者択一の議論からは、明日の展開は生まれてこないのです。
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「爵禄は得易く、名節は保ち難し。
爵禄或は失うも時あって再び来たる。
名節ひとたびかくれば終身復らず。」
張 養告 『牧民忠告』
言葉が少々分かりにくいので、簡単に解説しておきます。例えば、爵禄とは地位や報酬のことで、役所や企業で言えば役職でありそれに対する報酬ということになります。これに対して名節とは名誉及び節操を指します。内容については別段説明を必要とするものではないでしょう。
今、厚生省の役人の収賄疑惑が持ち上がっています。しかも省庁の最高位という「名節」を得た人です。伝えられるところによれば、本人も容疑を認めたようですが、考え様によっては、悪いことと思っていなかったと思われるだけに、質が悪いともいえます。
政治に携わる人は、一度は張養告「三事忠告」を読んでみるといい。張養告は元の時代の役人でした。彼が監察の役に就いたとき、時の天子に次のような一〇個条の上奏文を書いています。
1、賞賜のたぐいが多すぎる
2、刑罰禁令に手抜かりが多すぎる
3、名誉や爵位を手軽に与えすぎる
4、政治(今で言うと行政)に対す る監察が弱すぎる
5、土木事業を興しすぎる
6、朝廷からの指示がやたらに変更 される
7、コネ、情実の横行が目に余る
8、風紀の退廃がひどすぎる
9、異端邪説の屋から徒が幅をきか せている
10、大臣の任用基準が甘すぎる
何だか、何時の時代のことかと疑いたくなります。六〇〇年も前に“これでは国が建たなくなる”と張養告に「忠告」されていることが、殆どそのまま繰り返されているのです。
ただし、彼は上層部の恨みを買い、命を狙われるのですが、辛うじて脱出しています。