要求仕様書には未決事項(TDB:To Be Determined)を含んではいけない、としばしばお説教されたことがあるだろう。明らかに、未決事項を含む仕様書は完全なものではないが、未決事項を含む文書を承認したり基準文書としてもよい正当な理由がある。これは、精密さが基本的な設計上の決定に重大な影響を与えない要求項目の場合には、特に正しい。
したがって、未決事項を作るときは、「自己消滅させる注記」、すなわち、この未決事項は誰が何時までに解決するかを規定した脚注と共に記述せよ。例えば、このような脚注は「ソフトウェア開発管理者は、この未決項目を1995年12月までに決定したものと置き換えること」といったものだろう。これは、未決事項が永遠に解決されずに残らないことを保証する。
(201の鉄則:原理59<要求分析の原理=未決事項は自己消滅させる注記と共に記述せよ>)
ソフトウェアの開発現場にあっては、要求仕様書について頭を悩ませていることでしょう。まず、どう書けばいいのか、どこまで書けばいいのか(これは私のホームページの「要求仕様書について 」を参照してください)、いつ書くのか、いつまでに書くのか、誰が書くのか等々。文献を読んでも、好き勝手な事を書いているし、自分たちの現場とは別の世界の話のようにも思えてくるものです。
私も職業柄、要求仕様はどのように書けば良いのか、とよく聞かれますが、製品の性質や組織の状態、開発体制、プロジェクトの特性などによって、答えは変わってきます。大事なことは、要求仕様書は、間違いなくこのあとの工程で使われるものであるということです。従って、この後の工程でどのように使われるかということを認識する必要があります。
例えば、設計方法を決めるための重要な判断材料になるでしょう。また要求仕様は「検証可能」であることという性質から、製品レベルのテスト項目を用意する際の材料にもなるでしょう。ただし、どのような使われ方をしようと、これを書くことによって「仕様モレ」を防ぐことが第一の目的のはずです。表現の細かさや深さも、組織の状況やプロジェクト状況とのバランスの中で決めていけば良いでしょう。時間的な要因などで、要求仕様書の中で具体的に規定することが出来ないなら、設計書の中で確認する事があっても構わないと考えています。ただし、要求仕様書の中では、そのことを明記しておく必要があることは言うまでもありません。
TDB が出てくる大きな要因は、要求仕様書を書く期限があることです。実際、いつまでたっても要求仕様書が出てこない事がありますが、その原因として、未決事項が残っているために制定できないということがあります。言い換えれば、期限が無ければ
TDB というものは出てこないのかもしれません。
でも、現実はそうは行きません。要求仕様書を書くのに、時間無制限ということはありません。それどころか、製品の開発サイクルが短くなっている関係で、要求仕様に与えられる期間も短くなってきていて、「未決」の状態を持ったまま制定が行われるのは避けられません。現実問題として「未決」状態が避けられない以上、原理59で言うような「自己消滅」の対応方法は有用なはずです。
同じ方法をレビューや会議の決定事項の中にも取り入れることをお勧めします。レビューなどの議事録を見ていると、「検討する」とか「調査する」とか「問い合わせる」という決定が書かれていますが、そこに期限と担当が書かれていないことが少なくありません。何時までに業者に問い合わせるのかを決めなかったため、結局は放置されるという経験をしているはずです。また、何時までに使い方を調査するか決めなかったために、結局、新しい方法が使えなかったでしょう。
レビューや会議などで行われる議論や決定が「具体的」であるかどうかを判断する基準は、決定の内容はもとより、期日と担当者が明確にされているかが大きな要因なのです。期日と担当が違えば、当然、決定内容も変わってきます。2ヶ月先と1週間後とでは、調査の方法も内容も変わってきます。
一方、要求仕様書は、それが実現されたかどうか検証できることが求められます(検証可能性)。つまり、そこでの表現が具体的であることが求められるわけです。それだけに、制定までの期限内に決められないことが避けられず、TDB をうまく使う必要性が生じます。止むなく TDB を含むとしても、制定に支障を来さないためには、分かっているところまでは書いておくことです。どちらかに決める事が出来ない状態であれば、両方の案を見せておいて、決定を期限付きで
TDB にすることです。TDB が含まれていても、やり方次第で設計作業などの以降の作業とうまく連携できるし、影響を最小限に留めることも出来るでしょう。
実際に、一旦制定したとしても、今日では仕様の変更は避けられません。そのために、「要求管理」や「変更管理」の重要性が高まっていて、そのことも構成管理用のツールが売れる背景となっているものと思われます。要求管理や変更管理の方法を確立することで、TDB もその枠の中で対応することになります。
最初の要求仕様の制定までに「80%」の仕様を確定することを目指すというのは、20%の TDB を含んでいることを意味しており、さらに「要求管理」や「変更管理」がうまく出来ることを前提としています。
TDB に期限(私は賞味期限とか時限装置と呼んでいる)を付けておくことで、担当者がいつまでも先送りするのを防ぐことが出来ます。特に、一度先送りされた項目は、その時の状況(忙しさなど)が変わらない限り、先送りされ続ける傾向にあります。その時、時限装置が付いていれば、優先順位を変えて取り掛かる踏ん切りがつくという効果があります。作業の品質は別にしても、「締め切り」というのは、非常に優先順位が高いのです。
もし、期限内に目的を達しないと言うことであれば、期限の延長を申し出る必要がありますが、その際は、間に合わなかった理由の説明や、新しい対応方法などを説明しなければなりません。単に期限を延長すれば済むようなことはほとんど無いはずです。これくらいの責任はあって当然でしょう。
このように、原理59の自己消滅の方法は、応用範囲も広く簡単に使えますので、ぜひ皆さんも活用してみてください。仕事の進み方が変わってきます。
▲日産自動車のCEOであるゴーン氏が予定通りに10月に再建策を発表した。幾つかの工場の閉鎖や整理を含め、2万1千人の削減や部品の納入業者の集中化、持ち合い株の解消などによって、自動車の生産に資源を集中させるという。発表を見る限り、必要な手は含まれているように思える。
▲実際問題として、今の日産自動車を再建するには、これくらいの手は打たなければ実現しないだろう。これまで多くの日本の企業は、ここまで“徹底”していないのではないか。下請けを含めると10万人程に影響が広がるだけに、これだけの決断は容易ではない。だが、ここまでやらなければ、結局は座間の二の舞いになる。
▲この日産自動車の決定に対して、通産相と労働相が早速横やりを入れた。日本中が雇用問題に不安を抱いているときだけに、この再建策には不満なのだろう。だがこれは1民間企業の決定であって、政府の関与する所ではない。関与するとすれば、その実施方法が適正に行われるかどうかだけである。
▲一方、日経連の奥田会長も、6月ごろから機会あるごとに「経営者はリストラだけが能ではない」と言う意味のことを言い出していた。確かに、これまでの日本的リストラの殆どが組織の体質を弱める傾向がある。それでも、マツダはフォードの下でリストラに成功している。ここで日産自動車に成功されては、競争力の上でトヨタも決断を迫られるかもしれない。
世界を驚かせたJCOの臨界事故は、「品質の日本」という神話を“溶解”させるのに十分であった。海外メディアの論調の中には、日本には原子力を扱う能力はない、とまで言い切るところも出てきた。
唯一の原爆被爆国の国民としては、ウランは危険な物質と認識している。それも「濃縮」されたものとなると、その危険性は誰でも分かっている。それをステンレスのバケツで扱うなど、信じがたい行為だし、それが、作業を早く終わりたいという“動機”に起因していると聞いては、開いた口が塞がらない。いや怒りさえ感じる。いったい、「担当者」や「管理者」の責任はどこにあるのか。
▼ ● ▲
事故後の対応も、全くお粗末きわまりないし、まるで工場の一角にあるボイラーが壊れたのと同じような感覚である。周囲の住民への対応はもとより、従業員に対しても、数時間ものあいだ工場の端に「避難」した状態のまま“放置”されていた。事故後10数分で「臨界事故」と気づいたにもかかわらずである。可視光線はコンクリートの建物で遮断されても、中性子はその程度では通り抜けていくが、まさかそんなことも知らないわけではないだろう。
▼ ● ▲
建物の構造も信じがたいし、工場の直ぐ近くに一般の住居があるというもの理解できない。当然、周囲1Kmぐらいは一般の住宅は見当たらないところでやっているものと思っていた、いったいあのような建物の中でウランの濃縮作業を扱うと誰が決めたのか。これを決めた責任者はどこにいるのか。おそらく“みんなで”決めたのであって、“誰”かの責任で決めてはいないのだろう。もしかしたら、本来なら適切な設備投資に使われるべき資金が、役員報酬や給料となってばらまかれてのではないかという気もする。これがこの国の「構図」だ。
▼ ● ▲
もう少し身近なところで、JR西日本のトンネル内のコンクリート崩落事故がある。この事故は、新幹線を利用する一般の人にも、乗っても大丈夫なのかという不安を抱かせた。夏に「総点検」が行われ、8月末に「安全宣言」が出されたが、その宣言の舌の根も乾かないうちに、これまでにない大きさのコンクリート(もはやコンクリートではない?)がはがれ落ちた。まるで、「宣言」をあざ笑うかのように。JRの説明では、その部分は、トンネルの構造に支障を来さない個所で、総点検で点検していない個所であったというが、それなら総点検の目的は、トンネル内のコンクリート崩落の危険を検知することであって、列車の安全運転を確保することではなかったことになる。
▼ ● ▲
第一、いつまでカナヅチによる「打検」に頼っているのかといいたくなる。テレビの画面で、台車に乗ってトンネルの壁を叩いている姿を見て悲しくなる。この国は、「非破壊検査」では、世界でもトップクラスの技術を持つ国ではなかったのかと。30年ぐらい時間を戻したような錯覚すら覚える。実際、高速道路の方は、超音波などを駆使したセンサーに拠る検査が行われているはずである。その方が漏れなく検査できるし、検査項目も多く作業のスピードも早い。なぜ、JRはそれを使っていないのか。予想できる理由としては。検査要員の再教育や再配置を怠ったのであろう。最新の機械を使うには、それを扱えるように、またそのデータを読み取って判断できるように彼らを再教育しなければならない。だがそれはカナヅチ一本でやって来た人たちにとっては決して易しいことではないことは予想できる。
▼ ● ▲
ここにも「責任」というものが感じられない。カナヅチ検査員の責任、彼らの管理者の責任、安全運行の「本部長」の責任、そして、それらを統括して経営する立場のトップの責任というものが見当たらない。彼らがやったのは、“無責任作業”であって、責任ある行動ではない。自分たちが、何に対して責任を負っているのか、誰に対して責任を負っているのかを認識していないのではないか。
▼ ● ▲
このようなトラブルは、この国のどこかがおかしくなっていることに気づくのに十分な現象である。そこに共通して感じるのは、「責任」を認識した行動が見当たらないことである。いや、その前に責任に基づいた「決定」が行われていないのではないか。多くの場合、決定は一人で行われなければならないのに、この国では会議などの場で決定する。そのとき何故か「責任」がどこかに飛んでいってしまう。
▼ ● ▲
「責任を取れ」と言っているのではない。その前に、日常の中で、それぞれの立場での責任ある判断と行動をして欲しいといっているのである。 ■
「およそ競争力は、競争それ自体のないところでは育たない」
韓国前大統領顧問、柳鐘根二年前、アジアの金融不安が発端で、韓国もその渦の中に巻き込まれた。国の危機を救うために、国民が家にある金銀や外貨を国家に寄付するという事までやった。それまでの韓国は、日本に追いつき追い越せとばかり走ってきた。外国からの資金の性質を吟味している余裕はなかったかもしれない。それでも追い風であったことで、半導体や家電製品の生産では追いついてきたし、一部では追い越した。
その矢先の金融不安ということで、躓きかたも大きかった。あれから二年が経過し、韓国経済も落ち着きを取り戻したように見える。IMFへの返済も、順調に進んでいるようである。個々の企業の方も、新しい状況の中で、競争力を付けることを念頭において行動しているようにみえる。
企業・組織の競争力というのは、その中に居る人たち(従業員)同士が競争することで実現するものである。役員もマネージャーも一般の従業員も、みんながそれぞれ縦に横に競争しない限り、組織の競争力なんて別世界の言葉である。
多くの人は、「競争」という言葉に「大変だ」と反応する。今でも毎日夜遅くまで働いているのに、まだ走れというのかと。そうではなく、今求められているのは「工夫」である。自分達の仕事の生産性を大きく引き上がるための「工夫を競う」ことである。決して働く時間の長さを競うのではない。
[“SCだより”のページに戻る]