どんなソフトウェア・プロジェクトでも、おかしくなることを正確に予測することは不可能である。しかし、正確に予測できなくても何かしらおかしくなるものだ。計画立案の早い段階で、そのプロジェクトに関係して起こりそうな最大のリスクを頭に描いて見よ。その各々について、もし潜在的リスクがプロジェクトで現実に起こった場合に起こり得る損害の大きさを数量化し、また、こうしたことが起こる可能性を数量化せよ。これらの2つの数値から、ある特定のリスクに関するリスクの被曝度(risk
exposure)が求められる。
プロジェクトの開始時点において、リスク被曝度を低くするために実施できるあらゆることを描く決定木を作図せよ。次いで、直ちに結果が現れることを行うか、または、被曝度が受け入れ可能な限界を超えた時点でいろいろな対策を実施する計画を作成するか、の何れかを行う(もちろん、どのようにこの状況を認識するかについて、前もって規定しておけば、手遅れになる前に矯正活動実施することができる)。
(201の鉄則:原理162<管理の原理=直面するリスクを理解せよ>)
「リスク管理」―これはプロジェクトの管理者やリーダーにとって、避けて通れないテーマですし、決して新しいテーマではありません。でも、これをうまく実施している管理者やリーダーはどれだけいるでしょうか。
その最大の問題は、「リスクとは何か」というところでの認識が間違っていることです。リスクとは、発症して欲しくないが、発症する可能性のあることがらです。発症してしまったり、ほとんど発症が避けられない状態を「問題」と呼びます。したがって、リスクとは、「問題」として表面化していない事柄、ということができます。
もう一つ紛らわし言葉があります。それは「課題」です。CMMの「プロジェクト管理」の中にも、リスクの追跡とは別に、「技術的課題」の追跡が求められています。今回のプロジェクトで取り入れる新しい技術テーマがあって、そのテーマに対してどのように取り組むか、ということを計画し、その進捗状況を追跡するというものですが、明らかにリスクとは違います。リスクは起きて欲しくない事柄です。
もちろん、新規性の高い課題には「リスク」の要因が存在することは言うまでもありません。したがって、新しい技術テーマは、それが決まった時点で「課題」として対応されるのと同時に、「リスクの要因」として認識され、「リスク管理」の中で問題(新しい技術の搭載に失敗するという問題)が発症しないための対応や監視が必要になることがあります。
簡単に言えば、「課題」は、どうやって実現するかという視点であり、「リスク」は、どうやって実現させないかという視点ということができます。
日本においては、リスク管理は「危機管理」と訳され、ほとんどが発症したときの対応策を講じることと認識されています。そのために、発症させないための対応策が不十分なのです。「Y2K」にしても、本来のリスク管理の観点から言えば、“2000年に由来する問題を発症させないこための事前の対応策を講じること”ですが、実際問題として、対応しきれないところがあることが分かったということで、発症の確立が高くなったわけです。そうなると今度は“Y2Kの発症を防げない”ということを新しい「リスクの要因」として捉え、さらにそこから発症して欲しくない事柄について、発症を避ける方法を考えるべきなのです。たとえば、発電所のコンピュータが誤動作して発電能力が低下するという「要因」があって、そのために病院の手術に影響を与えるというリスクが存在することが見えてきます。
ところが、現実にこの国でとられている行動は、「Y2Kの問題が発症したときの対応を考える」ということで、完全に事後処理の対応にすり替わっています。これでは本当の意味で「リスク管理」になりません。
確かに、中には同じところに行き着く可能性はあるのですが、あくまでもリスク管理の立場に立つことで、リスクの要因が「受け入れ可能な限界」を越えない方法を考える余地が残されます。
一般に、プロジェクトのリスクはたくさんあります。余程小さなプロジェクトでなければ、20個以上は考えられるでしょう。ただし、20個以上のリスクを同時に扱えるかというと、それは無理でしょう。そこで優先度を考えて対処することになります。緊急性の高いものや、発症したときの影響が大きいリスクへの対応を優先するのですが、そうなると、優先度を計量化しなければなりません。
そこで原理162では、発症の確立と、発症したときの被害の大きさを数値化し、その両方を合わせて「被曝度」という概念を提案しているのです。もちろん、発症の可能性を客観的に捉えることは容易ではありません。実際には、発症しそうな状況がどれだけあるかによって、何段階かの発生確率の中から選ぶことになるでしょう。もちろん、その時に重要な要素として「時期」を忘れるわけにはいきません。値としては、「50」を最高に何段階か設ける方法があります。
最高値を「50」としたのは、これを越えるほどの可能性というのは、もはや“可能性”の段階を越えているという判断です。
一方、発症したときの損害の方は、遅延日数に対応する費用や、そのために失われるリソース、回復のために投入される費用などから求めます。損害の中には、「士気」なども考えられのですが、金額に換算できないものは除外します。
こうして得た数値を組み合わせることで、一応の取り組みの優先順位が決まります。“一応”と言ったのは、取り扱っているのが「リスク」だけに、単純に数値化された値を鵜呑みにするのではなく、人間がそこで確認する必要があるからです。
このように、原理162は、直面するリスクを適切な形で明らかにし、それに対して適切に対応し管理することを求めているのですが、こうして事前にリスクを認識していることによって、日常の中でリスク回避につながるいろいろなヒントに遭遇します。というより、ヒントが目に付くのです。逆に、普段からリスクを認識していない状態では、同じことでも目に止まらないのです。
特に、リスクに対して事前の対応策が考えられている状態では、咄嗟に他のことに便乗して行動できることがあります。こうして、「リスク」に対する感覚が磨かれていきます。
リスクは考えられているほど、うまく対応できるのです。
▲日本の人工衛星の商業打ち上げの前提となる「H2A」が、ここに来てもトラブルが続いている。来年の2月に1号機を打ち上げる予定になっており、これ以上のトラブルは致命的な問題となる。もっとも、構想発表時に注文はあったが、最近の2年間の受注は0というから、既に信用を失っているのかもしれないが。
▲「純国産」を謳い文句にして立ち上げたプロジェクトだが、実際には、初期の燃焼試験の時からトラブルが続いている。「地上試験でのミスはないにこしたことはないが、問題はどう対処し改善したかにある」という、事業団のプロジェクトマネージャーは言葉からは、“試行錯誤”の姿勢が目に付く。“商品化”の姿勢とは違和感がある。
▲「技術」には2種類ある。そのもの自体を構成する技術と、目的・目標に到達させるための技術である。確かにロケット自体を飛ばす技術は習得したのかもしれないが、もう一つの技術、すなわち「プロジェクト・マネージメント」の技術が不足している。日本がもっとも苦手とするレビュー技術やリスクマネージメントもそこに含まれる。
▲1970年〜80年にかけて、日本はアメリカに追いついたと考えられた。実際、“製品”を見る限りは、アメリカの市場を席捲した。当時、「アメリカから学ぶものはもうない」とまで言ったものだ。だが、その裏で「マネジメント革命が進行していたことを見逃した。どうやら、ここでも目に見えるものしか追いかけてこなかったのではないか?
今の国会で、新しい「派遣法」が成立する。その結果、ほとんど全ての職種に於て「派遣」が可能となる。一部の職場には別の規制が残っているが、それでもこの法律によって、新しい「仕事」が作りだされていくことは間違いないだろう。
この法律によって一層派遣社員を使いやすくなる。だがこの時期、「派遣」という言葉に複雑な感想を抱く人がいるかも知れない。それでも、「派遣」を悪者にしても何も始まらない。
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「さぁ、いよいよ事業の拡大へ―」。既存の人材派遣業者としても、新しいビジネスチャンスが広がった、と思ったら、すかさず世界最大手のアデコが本格的に動き出した。アデコは新聞の報道によると、連結で年商一兆円を越え、世界シェアの八%を押さえているという。そのアデコジャパンが、国内三位のキャリアスタッフを買収し、一気に全国展開の体制を確立する。すでに、日本に進出している外資系の企業を押さえ始めている。
さらに、アデコに続いて、アメリカのマンパワー社も日本での体制を強化する。今まで、世界の波から外れていたこの国を舞台に、「派遣戦争」が始まる。人材の質やコスト、カバー範囲、多様な形態などで、激しい競争が始まるだろう。これが「規制撤廃」が生み出す効果だ。だが既存の派遣業者にとっては、手をたたいて喜んでばかりはおれない。外資には「棲み分け論」は通用しない。
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派遣を受け入れる方にとっても、選択肢が増えるので歓迎のはずだが、もしかしたら、必ずしもそうではないのかも知れない。彼らが持ち込むのは「グローバルな人材」である。派遣先で、どうにでも「染めて」ください、というような「人材」ではない。
そこには職種に応じた「仕様」が存在する。「シニア・プログラマー」「システム・アーキテクト」「アナリスト」「コンサルタント」「プロジェクト・マネージャー」など、それぞれの職種に応じて能力と責任範囲の定義が存在する。ちなみに「ソフトウェア・エンジニア」というのは“総称”である。勿論、このような職種は時代とともに変化する。「アナリスト」や「コンサルタント」も、それぞれの領域に分化していく。
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問題は、日本の企業では、社内に仕様化された「職種」というものがほとんど存在しないことである。規定上の職種はあっても、皆で“手分け”してやっているというのが現実である。結果として、仕事の分担範囲は狭いし、スキルは限定的なものになってしまう。だから、そこでは通用しても、他社では必ずしも通用しないということが起きてしまう。
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各社が独自にやって来たこれまでの「社内教育」は、従業員を囲い込む効果があったし、それは戦後の復興にあたっては必要なことでもあった。人の流動性を制限することで、社員教育に投入したコストを回収するという考え方が成立してきた。従業員も終身雇用の建前があることで、それに便乗してきたところがある。だが、今日、それは高コストの原因にもなるし、企業の「不倒神話」も崩壊した以上、逆に労働者の仕事の選択肢を制限することにもなって、時代の要請に合わなくなったのである。
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それよりも、組織を「標準の職種」で組み合わせたほうが安くつくし、なによりも交換が可能である。新しい分野に進出する際も、立ち上げ時の要員を殆どすべて派遣で賄うことも可能であり、ビジネスにも選択肢が広がる。こんなことを云うと、「人間を部品のように扱うのか」と叱られるかも知れないが、交換の可能性が、必ずしも、働く者にとって不利とは限らない。人は、機械部品と違って自分でスキルを上げていくことができる。そのような人にとっては、逆に有利に作用する。ただ身をすり減らす部品となるか、時代の要請にマッチした「人材」となるかは、本人次第である。
このような「変化」を活かすために、企業は早急にグローバルな職種に合わせて仕事を定義し直し、今いる人たちをその職種に合うように教育し誘導しなければならない。ローカルな仕組みの中には、グローバルな人材の活躍の場はない。ビジネスの選択肢を増やすためにも、急がなければならない。
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これを機に、日本でも「労働者市場」が形成されていくだろう。そのような時代にあっては「標準」で仕事を組み立てることが求められる。それが出来ない組織は、競争に勝つことは難しくなる。勿論、その時は、その組織にいる(標準を身に付けていない)人も犠牲になる。
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「グローバル」が私たちにもたらしたことは、時代の要請を見据えて「仕事の世界標準」を身に付けていけば、「雇用のミスマッチ」に陥ることはない、ということである。いや、言葉の問題さえクリアすれば、世界が職場になるのである。その時、国境は単に「隣町」の意味しか持たないだろう。 ■
「日本の教育は(受動的学習)が中心で(積極的学習)をしていない。だから仕事において自分なりの解釈で発掘していくことができないのだ」
井深大
「何のために勉強するの?」
という子供の質問に、的確に答えられる親がどれだけいるだろうか。現状では「これからは学歴が必要なんだ」という答えが適切ではないことは子供自身が知っている。分数の計算が出来ない高校生や、大学に入ってから高校の授業を補習している大学があることも知っている。
これに対して反論の方法を持たない子供たちは、親や社会への反発という形で応える。大人は、その矛盾に気付いているはずなのに、出来ない理由ばかり並べて何もしていないではないかという抗議でもある。
学級崩壊も、根っこのところに「受動的学習」があるものと思われる。そこには学ぶことの面白さも、知ることの驚きもない。ただ、義務的に「覚えている」だけだ。厄介なことは、その過程で、子供たちは何かに「興味をもつこと」が出来なくなっていることである。
だから、仕事に就いた後も、言われたことしかやらない。自分で「接点の向こう」に興味をもって発掘していく人は非常に少ない。就職氷河期の中で、仕事に就くためにいろんなことをアピールしたはずだが、3ヶ月も経てば、もうメッキが剥げている。もちろん、新入社員のせいだけではない。所属する職場自身が「受動」的なのである。そこからは「競争力」は生まれてこない。
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