要求分析の結果は、システムの外部的な振る舞いの詳細な記述である要求仕様書の中に凝集される。設計の最初のステップは、最適なソフトウェア基本構造を組み立てることである。要求仕様から設計への移行が、ソフトウェア工学では他の工学より容易であるという理由は見当たらない。設計は難しい仕事である。外部的な視点で書かれた要求仕様から内部的な最適設計に変換することは、基本的に困難な仕事である。
ある手法は、要求仕様書自体の「基本構造」を製品の基本構造として用いることで、この移行は容易になると主張する。しかし、設計の難しさから、次の3つのことが起こり得る。
1.要求分析の期間中に製品としての適切な設計を選択するという考慮が払われない。
この場合、要求仕様書の構造から選択された設計は、製品の設計として受け入れられない。
2.代替的な設計がいくつか提案され分析され、最良のものが選択されるが、これらの作業
のすべては要求分析期間中に行われる。しかし、組織は、要求仕様の基準文書の作成、
開発するか購入するかの決定、及び開発コストの見積りを行う以前に、(通常全開発
コストの30〜40%を占める)完全な設計作業を実施する余裕はない。
3.この手法は、ある種の基本構造が全てのアプリケーションで最適であることを仮定
している。これは明らかにおかしい。
(201の鉄則:原理61<設計の原理=要求仕様から設計への移行は容易ではない>)
このテーマも、要求分析工程と設計工程の境目に触れる問題で、非常に難しいテーマです。いまさら言うまでもなく、設計という作業は容易に出来るものではありません。“この世界”で10年やって来たから設計が出来るというものではありません。「設計」というのは、そこで求められている機能的要求や非機能的要求を“まとめて”満たすような「仕組み」を作る行為です。もちろん、顧客の要求には無理難題も含まれています。だとすれば、そのことを説明し、説得しなければなりません。ところが、なぜその要求を実現することが無理なのかを説明するとき、本当に要求が無理なのではなく、そこで選択され(ようとし)ている「基本構造」(アーキテクチャ)に問題があることも少なくないのです。
このことは、何もソフトウェアの世界に限られた問題ではありません。例えば、住宅を建てる場合でも、広い土地なら簡単なことでも、狭い土地にいろんな要求が出されたときは、ある設計者はその中のいくつかの要求は実現不可能だというかもしれません。でも別の設計者は、1階の構造を少し変えて実現する「設計書」を持ってくるかもしれません。もちろん、全てがこんなふうなわけではありませんが、そこで選択された基本構造によって、機能の実現に制限が生じる可能性は十分にあるのです。
ソフトウェアの世界もこの点では同じです。選ばれた基本構造によっては、実現できない要求や仕様が発生します。十分に要求や仕様を検討されないまま基本構造が選択されているのです。基本構造の問題がもっとも顕著に現れるのが仕様の変更時です。要求や仕様が途中で、あるいは後になって変化することは、ある意味では避けられないことです。その時、基本構造の善し悪しによって、その変更がうまく受け入れられる場合と、受け入れられない場合があります。変更が受け入れられなかったり、変更によって基本構造?が壊れてしまい、よく似たデータや処理モジュールが複製されたりします。もちろん、その後は混乱が待ち受けていることは言うまでもありません。
原理61では、要求仕様書の基本構造を製品の基本構造にできるという方法に対してコメントしていますが、残念ながら、私自身、そのような「方法」を確認していません。でも見方を変えれば、ここに上げられた3つの指摘は、要求分析の工程から設計工程に移行する時の問題として考えなければならないテーマです。
要求分析の期間中に、適切なシステムの設計方法(基本構造)を選択するか、ある程度絞り込む必要があるのですが、1つ目の問題は、分析作業自体がそのレベルに達していない状況では、そこで選択された設計は、製品の基本構造として採用するのに相応しくないということを意味します。
本来、要求分析という行為は、要求やそこに含まれる詳細な仕様を拾い出しながら、それらを実現するための方法(特に基本構造)の“見通し”を得る行為でもあります。勿論、一つの基本構造を選択できればいいのですが、現実には、そこまで行かないかもしれません。構造化分析もオブジェクト指向分析も、その中の仕様を洗い出すことの他に、同時に適切な基本構造を見つけることも目的としているのです。それらの手法で書くことが求められているいろいろなダイアグラムは、半分はそのような基本構造を見つけだすことを目指しているのです。そうして、「こういう基本構造を持たせることで、これらの要求や仕様を実現します」という提案に基づいて「契約」が実現するわけです。
従って、要求や仕様を箇条書きしているだけでは、適切な基本構造を見つけだすことは容易ではありません。確かに「類似性」の中では、経験も役に立ちますが、新規の場合は、勘や適当に機能をブロック化しただけでは、決して良い設計にはつながらないでしょう。これから分析手法を勉強しようという方は、分析の目的を見失わないようにしてください。
出来るならば、要求分析工程の中で、適切な設計方法が選択されれば良いのですが、ソフトウェアの場合、そこで求められる要求や仕様があまりにも多く、現実問題として適当な期間内に、設計方法が選択できるレベルに達しない可能性があります。
一方、要求仕様書の基本構造が製品の基本構造として使用できるためには、要求分析工程の中で、それなりの設計作業が行われる必要がありますが、そのためには、要求分析工程に相当の時間とコストを投入しなければならず、決して現実的とは言えません。
つまり実際には、適切な要求分析によって基本設計の構造をある程度絞り込むことは出来ても、基本構造を確定できるとは限らないということです。それだけに、設計段階の初期に、そこで提案されている基本構造にそって、各担当者が、コンポーネントの仕様と、製品としての仕様との整合性をさらに深く確認し、必要なら基本構造を変更することもあり得るのです。これは、基本構造の下で定義されたそれぞれのコンポーネントに割り振られた仕様は、製品自体に求められている仕様を分化して割り当てられたものであることから来る問題です。
原理61でいう“設計への移行の難しさ”のほとんどは、ここまでの問題です。基本構造が確定し、それぞれのコンポーネントの役割が明確にされた後の設計作業には、一般には大きな障害はないと思います。
△アメリカの大統領の報酬を2倍に引き上げる案が検討されているという。今まで、大統領の報酬なんて知る由もなかったが、現在は、日本円にして約2000万円だという。もちろん年収です。日本人の感覚で言うと、それだけでしかもらっていないの?というところでしょう。
▲だから、クリントン大統領は、大統領を辞めて弁護士に戻ったほうが、よっぽど儲かるわけです。でも、報酬は安くても、国の為に自分がその役をやれるのならやろうというのです。国民の方も、報酬が安い分、名誉と称賛で埋めるわけです。
△コソボの紛争で3人のアメリカ兵が拘束されたとき、その地域の人は勿論のこと、国中から家族への励ましが報道されていた。国や社会の為に犠牲になった人や、残された家族への思いやりは非常にあつい。このような信頼感が背景にあるから、自己犠牲の行動が可能となる。
▲これからの社会は、経済の原則に従って報酬が決まる部分と、ボランティアの考えでカバーしなければならない部分を如何に併存させるかである。全てを前者で対応させようとすると、社会は成り立たないだろう。
“リストラ”― 今、多くの労働者にとって、もっとも耳障りな響きをもつ言葉ではないだろうか。この恐怖感が、消費が低迷している原因にもなっているという分析もある。ということで、リストラについて、いくつかの話題を紹介してみます。
今年の三月、ブリジストンの元課長が、会社のリストラの進め方に抗議する形で命を絶った。社長室で腹を切ったことで、大きく報道されえた。
残念ながら、今しばらくはこの流れは止められそうもない。アジアのいくつかの国では、2年前の金融危機から立ち直りの兆しさえ見えているし、株式市場はその兆候を好感して、すでに2年前の危機以前の状態に戻っているところもある。株価の反応は、経済の先行指標の性質を持っているので、今すでに2年前の状態に回復したという意味ではない。そこに戻るための障害が取り除かれ、確かに、欧米からの投資も回復してきているということである。
一方で、いまだに回復の兆しが見えない日本の企業にとって、アジアの回復は必ずしも歓迎できない部分がある。国によってはコストが10年前に戻っている一方で、技術は最新であるため、競争力は一段と増している。当然、多少の円安であろうと、アジアへの移転の動きは止まらないだろう。
昨年夏、労働省は「リストラは業績アップに直結せず」というコメントを出した。労働省の調査研究の結果では、「バブル崩壊後の不況で、大多数の企業が実施しているリストラが、必ずしも業績のアップとは結び付いていない」という。つまり「人員削減と業績の変化との相関関係がなかった」というのである。当たり前の話である。体力も弱って信用力も低下し、有能な人材に見切りをつけられてじり貧の状態に陥っている状態では、リストラで業績が回復することはほとんど無理なのである。しかも、政府が雇用確保に躍起になっている状況では、早い段階でのリストラは、おいそれとは選択できないことも考えられる。
当時は参院選挙の真っ最中ということから、これ以上失業率の数字を上げてはマズいという配慮が働いていることは計算に入れておかなければならないが、それにしても、子供騙しの稚拙な論法を持ちだしてきたものである。だが、この程度の内容でも説得力をもって迎えられるとすれば、この国の将来は実に危ういとしか言い様がない。何が問題かが見えていない証拠だから。
アメリカは、レーガン大統領の時代に、規制を撤廃し、大々的に競争を取り入れた。そして、80年代の後半から90年代にかけて、日本に勝つためにいろんな工夫をしてきた。「リストラ」もその中の一つである。彼らは、モラルハザードを少なくして業績を回復させるためのリストラの方法を身に付けた。その一つは、対応の早さにある。昨年の「LTCM」でのヘッジファンドの破綻が表面化したときも、民間の証券会社は間髪入れずに1000人規模のリストラを実施している。そうして、事態が悪化する前に手を打っているのである。つまり、日本のリストラは、すでに選択肢の無い状態で「後ろ向き」で行なわれるのに対して、アメリカのリストラは「前向き」であり、強くするための選択肢の一つとして行われていている。だから半年から一年後に再生してくる。もちろん、日本と同じように行き詰まってのリストラを迫られる企業もあるが。
トヨタが先日、「終身雇用」を高らかにアピールした。日産自動車は、生き残りのためにリストラは避けて通れないだろうが、そうなると、競争上、自動車業界はこぞってリストラ競争に入りかねない。だが、それは日本の経済を破綻に導きかねない。企業として、リストラによって収益性を高める選択は間違ってはいないし、ある意味では正しい選択である。だが、日本中が一斉にそれをやりだしたら、この国の経済は破綻する。特に、自動車業界はすそ野の広い産業であり、その影響は計り知れないところがある。
そのような中で、「リストラをしない」という選択は、経営者の一つの見識ではある。いや、見識から出たものと思いたい。逆に、政府の要請を受けての決定であるなら、たとえトヨタといえども、危険きわまりない選択になりかねない。
もっとも、この話が出回った途端にトヨタの株は下がった。この選択が企業の収益を圧迫する以上、投資家にとっては魅力が半減するわけで当然の選択である。
リストラをするのも、リストラをしないのも、経営者の「見識」に基づいて為された決定であればそれでいい。どちらが正しくて、どちらが間違っているというものではない。状況によっては、リストラをしないでも競争力を高めることのできる企業もあるだろう。 ■
「両親の人格は、行動を通じて子供の 人格に反映する」
(サミュエル・スマイルズ)
今、「人格」なんて言葉を気にしながら子供に接している親がどれだけいるだろうか。その前に、ほとんど死語になっているのではないだろうか。いや、「人格」なんて糞食らえ!とばかりに、礫が飛んできそうな世相である。
でも、何と言おうと、子供は親から行動規範を受け継ぐ。何をするかも、何をしないかも受け継ぐ。反面教師的存在を除いて、子供の道徳心は、基本的には親の道徳心を反映したものである。もちろん、後になって出会う人や書物によって補われることはあるが、それでも「接点」が無ければ、簡単には出会うことはない。
タイトルは覚えていないが、さきごろ放送されたテレビのドラマで、「大人になるのは簡単だけど、親になるには資格が要る」というセリフがあった(本当は、それを「大人」とは言わないのだが、話がややこしくなるのでそこには深入りしないでおく)。子供をコインロッカーに預けていく親がいたが、悪気が無いだけに救い難い。この親も、両親から人格を受け継いできたはずであるが、その子供に、いったいどのような人格を渡すつもりだろうか。
貧しさの中でも愚痴一つこぼさず、内職をしながら子供の成長を願う母親の姿を思い出して、悪の誘惑を立ち切った人は少なくないでしょう。忙しい中でも、週末や長期の休みを利用してボランティア活動をしている人も、両親の生き様を反映していることは多いものです。
自分の生き様は、決して自分だけのものではないのです。親であれば、子供に多額の借金を背負わせることには忍びないでしょう。心の借金もまったく同じなのです。
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