もし、ある設計が、それを創った人と保守する人が、完全にそれを理解できるようなやり方で創られ、文書化されているなら、その設計は知的なコントロールの下にある。
このような設計に必須の属性は、階層的に構成されていることと、複数の視点から考えられている事である。階層を用いると、設計書を読む人がシステム全体を抽象化して理解することができ、階層を下るにしたがって、より詳細なレベルをよく理解することができる。各々のレベルで、コンポーネントはそれを外部から見た視点だけで記述されなければならない(原理80)。 さらに、1つ1つのコンポーネントは、〔階層のどのレベルにあっても)単純性とエレガンスを示していなければならない。
(201の鉄則:原理70<設計の原理=設計を知的コントロールの下に置け>)
設計書を含めて、その成果物がどのように書かれるべきかということでは、現場の中では必ずしもうまく行っているわけではありません。殆どの場合、書く側の都合〔時間的、能力的)で決まっているものと思われます。そこで持ち出される論法は、「確かに、そのような設計書が書ければ良いことは分かるが、その前に、納期に間に合わせなければならない」というものです。結局、その設計書がどのように利用されるか、ということは考慮されないまま、中途半端な設計書が残されることになります。
しかしながら、最初に作られる設計書の内容や構成の善し悪しが、その後の作業の効率を大きく左右することは、誰もが認めるところです。そして、実際問題として、いったん保守開発のサイクルに入ったあとは、設計書が書き直されることは殆どないことも認識しています。実際問題として、これをベースにした保守開発で、時には10年近くの間、10〜20ものモデルが作り出されることを考えると、作業効率の悪さから来るコストの増加分は無視できないものになるはずです。でも、すでにその段階では選択肢はほとんどありません。そのまま我慢して開発を続けるか、保守開発を中止するかです。最初から設計が知的コントロールされていない状態では、保守開発において作業の効率を上げることは殆ど不可能に近いのです。
そして、もっと厄介なことは、そのような組織にあっては、新規開発要員も保守開発に駆り出されることです。新規の開発に求められるスキルと、保守開発に求められるスキルとでは、必ずしも同じではありません。保守開発は、基本的に「差」に対して、正確に行動することによって、その目的を達成しますが、新規開発では、新しいコンセプトを形にする能力や、新しい技術に積極的に取り組む方法や勇気を持っていなければなりません。積極的に、新規開発に耐えるエンジニアを育てていかなければ、組織は、早晩停滞し、新しい製品を出せなくなります。
しかしながら、最初に野放図な設計が行われたことで、大事な要員も保守開発に回さざるを得ない結果になり、新しく作り直すことも、新しいコンセプトに基づいて設計する方法を学習する機会を得ることもできません。一度の判断の失敗が、組織のその後の10年を決めてしまうのです。そして、この10年のロスは、今日では企業にとって致命的なダメージを与えるはずです。
10年前、「とても書いてられない!」「それよりも納期が先だ」という現場の声を許したことが、今日の低迷の原因であることに気づいても、もはや後の祭りなのです。
どうすれば設計書を介して、保守する人たちとの間で知的コントロールを実現できるか。その決め手になるのが「階層化」と「複眼」です。そして「階層化」は、それ自体が「抽象化」を背景に持っています。その階層を降りていく過程で、範囲(世界)が限定され、そのなかでより詳細に理解することができるのです。詳細なレベルであるからといって、数10個ものクラスが目の前に展開されたのでは、理解することは出来ません。
また、ある程度複雑なシステムを理解するためには、意図的に単純化しなければなりません。それは設計者にとっても、保守を受け持つ人にとっても不可欠な要素です。階層化が抽象化と単純化を伴って実現されるとき、もっとも効果を発揮します。そうでなければ、ただのイメージ図にしかならないでしょう。
もう一つ大事なことは、対象をいろんな角度から見たところを表現することです。基本的に対象システムを見る時の角度としては「データ」「機能」「制御」の3つです。そして、それぞれがどのように絡み合うかということを表現しようとするとき、どこに重心を置くかによって、いろんな書き方が想定されます。
構造化手法では、データと機能の関連を表したDFDや、制御と機能の関係を表した状態遷移図などが中心でしたが、UMLになると、7〜9種類もの表現方法があります。こうしていろんな角度で表すことによって、システムをより正確に理解することを助けるわけです。
このような設計に於ける知的コントロールが出来ない状態での保守開発は、オブジェクト指向の世界にあっては致命的な混乱をもたらす危険があります。構造化言語と違い、オブジェクト指向言語は、実装者の手を経ないで生成される部分が多くなり、それだけ設計者〔実装者)の意図を表しにくくなります。スケルトンに振り回されてしまう危険もあるわけです。確かに、その場は振り回されながらもどうにか動かすことが出来るでしょうが、保守開発に回ったところで、知的コントロールが為されていなければ、かろうじて存在していた設計者の意図は崩れ、さらに継承が混乱に拍車をかけることになるでしょう。
知的コントロールを失った結果として起きる混乱は、構造化言語の時とは比べ物にならない可能性すら孕んでいます。
これらの問題を防ぐためにも、設計書の在り方について、関係者が意見を陳べあえるような環境を作る必要があります。もちろんそのためには、両者が同じ「言葉」で会話できなければなりませんし、相手の立場で考えることも重要です。
そして、何よりも重要なのは、あるべき姿を実現するのを妨げている最大の要因、すなわち非効率な作業による時間の浪費を防がなければなりません。要求管理から、プロジェクトの計画、そして適切な追跡といった、プロジェクト管理の基本が実現出来ていることが条件となるのです。
▲ここに来て、2001年4月からのペイオフの実施を延期すべきという声が上がっている。金融不安が解決されないままでのペイオフの実施は、更なる金融機関のリストラと貸し渋りが加速するというのが、表の理由となっている。
▲この議論で明らかになったことは、2001年までに、日本の金融機関が安定した状態にはなっていないということであり、そうなると預金者が上限を越える部分を引きだしにかかることになる。当然、銀行は、資金調達のコストがかさむ。
▲だがもう一つ隠れた問題がある。それは2000年、2001年と、郵便局の定額貯金が大量に満期を迎えることである。10年間に1.8倍に膨れ上がった中から、限度額を越える分が一斉に引きだされる可能性がある。この行動と、ペイオフ回避のための預金の分散にともなう引き出し行為が重なって混乱を大きくする。
▲結局、その場をやり過ごすために先送りして来たものが、つぎつぎと重なってしまうのである。これでは、一向に信用不安は解消されない。
この国においても、「国際化」という言葉が飛びかって久しい。特に企業においては、盛んに「国際化」が叫ばれてきたはず。だが、実際にそこで働いている人たちに「国際化」を意識した行動が行なわれるようになったか疑問だ。
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例えば、組織をあげて英会話に真剣に取り組み始めたかとか、世界の経済ニュースをテーマにした会話が増えたとか、職場に外国人が増えてきたとか。残念ながら、現実には殆どそのような動きは見られない。
今日では、インターネットを使うことで、居ながらにして世界の動きを知ることも出来るし、多くの人の考えや意見に触れることも出来る。でも、インターネットをそこまで活用している人が何人いるだろうか。
企業の経営者も、「国際化」ということが話題にはなっても、実際に「国際化」を意識して、経営戦略を練っているかというと、はなはだ怪しい限りである。
「国際化」というとき、まず意識しなければならないのは「市場」である。自分たちが提供する財やサービスの市場が何処にあるのかということである。あるいは、その提供するレベルが「世界のレベル」を意識しているかということである。
日本のマーケットは、公表されているほど大きくはない。GDPも「財投」によってかさ上げされた分だけ膨らんではいるが、実体は、その6掛けと見るべきだろう。国の歳入〔主に税収)も、実際には40兆円しかない。したがって当然の帰結として供給サイドが過剰になる。
それでも、競争によって淘汰されれば、供給サイドの過剰は解消されるが、一気に他を淘汰するほどの力もないし、その戦略もない。そのため、市場を世界に求める事も出来ない。世界に通用しないのである。
どっちから入っても構わないが、最終的には、市場は世界にあると言うことである。
ところで、90年の初めの頃と比べて、作業効率は変わったでしょうか。ソフトウェアの開発効率は変わったでしょうか。そこに投入されている要員の人数や、開発工数は変わったでしょうか。
世界と対等に渡り合うには、少なくとも、投入人数、工数、コストにおいて2/3で実現出来なければ勝負にならないでしょう。
また、企業の財務の面から見て、営業利益率が20%を達成できるための作業効率を求めなければなりません。え〜、そんなの無理だ!というようでは、最初から世界の競争とは無縁の状態だと言わざるを得ません。そして、そのままでは、遠くない時期に世界の企業に市場を奪われるということです。
売上は上がっても、リスク管理の甘さからその分コストが掛かっている現状では、営業利益率はせいぜい数%がいいとこではないか。決算などで、売り上げや収益などの数字が集計されて公表されるが、その収益の悪さは、何を隠そう、各人の作業効率の悪さであり、商品企画を含め、戦略の悪さを意味しているのである。経営の問題というのは、組織を構成する一人ひとりが、その求められている役割を、求められているレベルで達成していないことの帰結である。
作業効率の悪い会社は、当然、従業員に対しても十分な報酬を出せないし、株主に対して配当で報いることもできない。つまり、そのような会社は、投資の対象にはならないということである。当然、そのような結果を導いた経営者は、経営責任を問われるであろう。だがこの国では、証券会社の不適切な行動から、バブルの崩壊を機に一般株主が姿を隠したことによって、今は市場原理が適切に働かない。
本来、配当が五%以下というのは、投 資対象として成立しないということである。銀行の定期預金に預けておいたほうがましだと言うことになる。
実際に、年平均利回り24%以上という素晴らしい結果を出している米国の投資会社、バークシャー・ハザウェーの会長であるウォーレン・パフェット氏は、今は日本株には投資していない。氏は、「長期的にROEが低い企業には投資しない」と言い、「今、注目している会社は1社だけだ」という。つまり、日本には世界に通用する会社は1社しか存在しないということになる。
そして、問題の背後にあるのが、一向に変わろうとしない「評価」の仕組みである。組織が、その方向を変えたいのであれば、評価の基準を変えればよいのである。実に簡単なことである。求める結果を得たか、あるいは、結果までは出ていなくても、その方向に沿った行動であるかで評価すればよいだけだ。国際化したいのであれば、評価する行動を幾つかそろえて公表すればいいのである。
なぜ、こんな簡単なことが出来ないのか。
そして、いつまでも変えることができないで居る間に、組織が活動する場を失っていくし、有能な若い人材が次々とスポイルされていく。企業の経営に携わる人は、この罪を意識して欲しい。 ■
「常識と非常識がぶつかったときに、イノベーションが産まれる」 井深大
いま、日本の教育のあり方が問われている。「在り方」というより、非常識の存在が認められていないのである。その意味では、教育の場に限ったことではない。
変化は、それ自体が非常識に根差したものである。学校という存在もその誕生時には非常識である。それは今でも、アジアの奥地でのの人々の反応を見れば分かる。
逆に、これからは「マス教育の時代ではない」と言えば、おそらく非常識として扱われるだろう。だが常識の中からは何も生まれない。何かを生み出すのは、むしろ非常識の方である。
常識の中に身を置くことは、多くの人にとって居心地がいい。「なぜ、そうするのか」と説明を求められる事もない。常識の中に身を置いていれば目立つこともないし、自分だけ疎外されることもない〔少なくとも、常識に居る人たちはそう思っている)。
もしかして、常識に身を置くことで失敗の可能性が少ないと思っている人がいるかも知れないが、これは全く逆である。ビジネスの世界では、成功は、基本的には少数派に与えられるものである。むしろ非常識にこそ成功のチャンスがあるのである。大事なことは、如何にして自ら常識の殻を破れるかである。
21世紀に、この国が世界の中で確たる位置を占めているとすれば、非常識が認められる社会になっているはずだ。