[SCだより 111号]

(第29回)

 どんなソフトウェア・プロジェクトにも計画が必要だ。詳しさのレベルは、プロジェクトの規模と複雑さに対して適切なものでなければならないが、次は絶対に必要な最小限の内容である。

 ・タスク間の相互依存関係を示すPERT図。

 ・各タスクでどの活動が実施されようとしているかを示すGANTT図。

 ・(過去のプロジェクトのデータに基づく:原理150参照)現実的なマイルストーンの一覧。

 ・文書やコードを書くための一組の標準。

 ・いろいろなタスクの人々への割り当て表。

 プロジェクトの複雑性が増加するにつれて、こうした計画への要求事項は、ますます詳細で複雑なものになり、上に挙げていない文書も必要になる。計画のないプロジェクトは、それが開始される前からすでにコントロールされていない。「不思議の国のアリス」で、チェシャ猫が、「もし、あんたがどこへ行きたいかわかっていなけりゃ、どっちへ行ったってかまわないだろう」とアリスに言ったように。

 201の鉄則:原理158<管理の原理=プロジェクトを詳細に計画せよ>

― 解  説 ―

 「計画」の必要性を否定する人はいません。というより、そのような人に会ったことはありません。だからといって、「良い計画」を書いているとは限りません。いや、内心ではむしろ、とても書けないと思っているのですが、それを公言するほど、書かなくても問題の無いという確信はないのでしょう。

 実際に多くの組織では、上にリストされたものの中で、どれ一つまともに用意していないと思われます。あえて言えば、書かれているとすれば二番目のガン・チャートですが、それも相当に大雑把なものです。他に補助してくれるものがあるなら、ガン・チャートは少し粗目でも使えるかも知れませんが、他に何もない状態で、そのようなレベルのガン・チャートでは、計画書が存在しないのとほとんど同じといっても差し支えないでしょう。現に、一種類しか用意されていないそのガン・チャートが効果を発揮したことはないのですから。

最初から失敗を保証?

 確かに、オブジェクトで200KBぐらいの規模で、適当な期間が確保されている状態であれば、上にリストしたような計画書が揃っていなくても、なんとか力任せに走ることは出来るでしょう。もちろん、納期に間に合うことは無いと思われます。多くは、謝罪で済む範囲程度の遅れで済んでいるのでしょうが、それだって、いつまでも繰り返すことはできません。期間はいつも同じではないし、今回は何とか実現したとしても、次回はもう少し要求が厳しくなります。規模も大きくなるでしょうし、それに見合うような期間の確保は適いません。

 こうして、去年までは何とか製品を出すことが出来たものが、今年になって手も足も出なくなります。それまでは一日の作業時間を長くすることで対応してきたのですが、それも限界を越えたのです。1度デス・マーチの状態に入ると、次のプロジェクトのための準備も思うようには捗りません。そして、それがまた、次のデス・マーチを生むわけです。

 これからのソフトウェアの開発に於ては、適切な計画を書くスキルを持たない状態では、最初から手も足も出ないでしょう。

何を書けばいいのか分からない?

 コンサルティングをしていて感じることは、「計画」として何を書けばいいのか分かっていないことです。CMMのガイドラインや、その他の「プロジェクト管理」や「工程管理」の文献を読めば、適当なサンプルが幾つか紹介されています。それらを集めてみれば、上にリストされたものは簡単に手に入ります。したがって今日では、何を書けばいいのか分からない、という人は、何を書けばいいのかということを求めてはいないということになります。求めれば、すぐそこにあるのですから。

 そして、求めていれば、そこに示されたサンプルの中で使用している用語が、自分たちにとってそぐわないものであっても、うまくアレンジすることが出来るはずです。アレンジできないのは、最初から本気で求めていないからであり、そこでは簡単に“使えない”理由に“使われ”ます。

 それにしても、これからのプロジェクトのリーダーやマネージャーは、適切なサイズのPERT図が書けなければ勤まらなくなるでしょう。10人のメンバーに無理なく、無駄なく作業を進めてもらうためには、これは「必須」のものです。これからは、マネージャーであっても自分でこのくらいは書けなければなりません。自分が納得できる形で表現され、そして進捗の状況を納得できる形で追跡出来なければ、本当の意味での「リスク管理」は出来ないのですから。

書けない理由

 問題は、このような計画書は単独では書けないことです。たとえば、マイルストーンは、作業フローが明確に存在することで、その作業の成果物が明確になるわけです。そして、作業フローが現実性を持つためには、それぞれの成果物のサイズが見積もられることが前提です。それが出来ていないと、それに掛かる時間が見積もれず、その結果、成果物が生み出される期日の予測が出来なくなって、“期日”の付いていないマイルストーンになってしまいます。

 そして、個々の作業に「時間」が見積もれないということは、結局は、作業が予定通り(予定の範囲)に進まず、揚げ句は、予定?していた成果物を作る作業を省くという判断が行われることになります。

 タスクをメンバーに割り当てるのも、そのタスクの質量が見積もられていることによって初めて実現するのです。その見積もりが行われていない状態での割り当てには、納期を約束できる根拠は存在しません。

 このように、ここにあげた計画書だけを見ても、それが書かれるためには、いくつもの前提が存在しているのです。CMMの「要求管理」や「プロジェクトの計画」のKPAでは、計画を書くために必要ないくつかの前提が明らかにされています。結局、これを省いては、計画も作れないということです。

トレーニング

 さらに、「良い計画」と書くためには、トレーニングが必要です。その理由は、計画を書かない状態が“習慣”になっているからです。習慣を変えるには、適切なトレーニングが欠かせません。「要求」を正しく把握することから始まり、サイズの見積もり、新規性やリスクの認識があって、ようやく作業フローができ、マイルストーンができ、PERT図ができ、ガン・チャートが書けるのです。各自へのタスクの割り当ても、この過程でようやく実現するのです。幸いにも、「CMM」のKPAが、これを実現するための手順を説明してくれていますので、よく研究されることを願っています。


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(第111号分)

ユーロ元年! いよいよ始まる通貨統合

▲いよいよ年明けからヨーロッパが一つの通貨に統合される。実際の流通はもう少し先だが、口座は作ることが出来る。すでに、日本の企業もユーロ建ての債権の募集を始めた。

▲通貨統合は全く新しい実験であり挑戦である。国というものが存在しながら、自国の通貨を持たないのである。これまで通貨はある意味では独立の象徴でもあった。

▲また、通貨によるレートの調整手段が無くなったため、企業の生産性がそのまま表に出てしまう。したがって、労働条件が整わないと、逆にユーロ圏からの脱出も考えられる。

▲イギリスが、しばらくユーロの外にいることが凶と出るか吉と出るか。とにかく目が放せない。いずれにしても、「円」が基軸通貨になれるチャンスは、しばらくは来ないだろう。


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 第94回

競争について


 先月号の『SCだより』で、ハイエクの「適者生存」に基づいた考え方(より多くの人々が恩恵を受け、競争を通じる社会制度や組織、体制が生き残る)を紹介したついでに、“競争”についてもう少し別の観点から追及してみます。なお、私のホームページには、このほかにも“競争”について幾つか考え方を展開してありますので、参考にしていただければと思います。
 

    無競争の弊害

 私は“幸い”にも殆どフリーの状態で今日までこの世界で仕事をしてきた。だから、次の仕事にありつくために、常に競争に曝される。下手な言い訳をしようものなら“おたくはプロでしょう”という言葉が飛んでくる。私にとって、これを言われることが一番辛いのである。そのために、常に時代を先取りしなければならないわけです。製品に求められる機能が倍増する前に、あるいは、開発期間が2割短縮される前に、対応できる方法を身に付けなければならなかった。

       ◆

 そのような者の目から見て、組織の中にいる人(通常は客先)は、果たしてどこまで競争しているだろうか。実際、多くの組織では競争らしい競争は行われていないのはないだろうか。一旦、その職場において位置づけられた「順位」は、人事移動などが無い限り、殆ど変化しない。いや、自分からその組織の中での「位置」に積極的に居続けようとしている。自分よりも技術的に上にいる人を追い抜こうとしない。そういう人は、秩序を乱す者として組織の中では煙たがられることを知ってか。

       ◆

 無競争に慣れてしまうと、人は必ず保身に走る。だから、秩序を乱す人の足を引っ張るのである。その人のペースを利用して自分も走るのではなく、自分たちのペースに引き戻すのである。方法は簡単だ。寄ってたかって「牛歩」作戦をやればいいのだから。組織も、今のところ1人を残して28人を辞めさせることは出来ない。そのうちに、愛想をつかして辞めていく。

       ◆

 だが、いったいこのような組織に社会における存在意義はどこにあるだろうか。工数が3倍(人数が2倍で期間が5割り増し)の組織の存在意義はいったい何処にあるか。先輩を抜こうとしない結果、市場の要求するレベルから乖離していく組織に、いったいどのような役割が担えるのだろう

    勝者と敗者だけ?

 多くの人は、「競争」という行為に暗いイメージを抱いている。運動会での徒競走や教室の壁に貼られた成績順のリストなどをイメージするのだろうか。最近では、小学校などでは、競争で「差」を付けることは良くないことという姿勢のようである。結果に差がつけば、負けた人は惨めな思いをする、というのがその理由だそうだ。この人たちの発想には、競争には「勝者」と「敗者」しかいないのか。

       ◆

 学校などで行われている競争は、勝者と敗者しかつくっていないだけだ。敗者復活戦といっても、結局は同じ土俵なのだから簡単には勝者にはなれない。それに、テストなどでは、最初から答えが存在しているものばかりで、それを人よりも早く知っていることで勝者になれる。

       ◆

 だが実際の社会では、土俵は一つではないし、ルールも多様である。なによりも最初から答えなど無いし、“問題”(要求)も刻々と変化していく。「1時間」という時間制限もない。あるとすれば「期日」としての時間であって、“はじめ!”の合図はない。人よりもずっと早く着手しても構わないのである。フライングは問題にならないし、カンニングもOKだ。一つのテーマでは勝てなくても、的を外していなければ、複数のテーマを組み合わせ(付加価値を付け)ることで勝つことも出来る。

       ◆

 競争のルールがまるで違うのである。そこに居るのは、勝者と敗者ではなく、勝者になろうという人と、勝者になろうとしない人である。

    「私」が貢献する

 仕事において競争に勝つと言うことは、その仕事を通じて世の中に貢献する役を「自分が担う」ということでもある。社会にとっては、もっとも効率の良い人や組織にその役を担ってもらうことが望ましい。時間も資源も無駄にしないですむ。一方、その競争に勝てないといっても、別の土俵では勝てるかもしれない。別の付加価値を付ければ勝てるかも知れない。一旦は競争に負けたことで、作戦を変えて再挑戦することもできる。社会は、それを大いに歓迎する。だから常に〔適度な)競争が必要なのである。

       ◆

 逆に言えば、組織は、常にこのような競争を仕掛けなければならない。もちろん、仕掛け方にも限度があるし、それを越えても誰も対応できないだけだ。だがもし、このような競争を仕掛けることをしなければ、その組織は存在意義を失う。

       ◇

 ハイエクの言う『より多くの人々が恩恵を受け、競争を通じる社会制度や組織、体制が生き残る』とは、そのような限度の中で効率の良い競争を仕掛けることを言っているのである。          ■


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 (第111号分)


「人格は生まれ付きのものではなく、ありきたりの素質から彼自身が努力して築き上げてきた産物なのである」
    コックバーン(スコットランドの判事)

  私はこの言葉が好きだ。自分がありきたりの素材であると思っているから、なおさら親しみが湧くし、日々を大事にしようという気持ちにさせてくれる。人生という大きな無限のカンバスに向かって、創作している自分を感じさせてくれる。

 最初から、人に見せることの出来るようなものが描ける自信があるわけではない。ただ、毎日、自分の気持ちを裏切らないように描いているつもりである。人や社会にとって有用なものを正直に提供し続けるだけである。もちろん、そのためには、裏で練習もしなければならない。それでも自分の“内なる心”には正直に耳を傾け、正直に筆を運びたい。それに“バカ”が付いたって構わない。自分のカンバスを不本意に汚すことはしたくない。仕事だからといって、このカンバスを傷つけることはできない。このカンバスは、これまで出会った多くの人からもらったものだ。だから不本意に汚すわけには行かない。

 だが現実に多くの人は、仕事や存続の条件を前にして、安易にその人のカンバスに鋏みを入れてしまう。上から紙を貼ってごまかしても、裏から見れば、ずたずたになっている。権力や安逸の鋏みで傷だらけだし、中には自分のカンバスを持ったことのない人もいる。


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