この産業では、あるソフトウェア技術者が新しい技法を学んでこれこそ究極の技法だと決めてかかり、一方、同じチームにいるソフトウェア技術者が、それと違った新しい技法を学んで、どちらが正しいか正しくないかといった感情的な論争を延々と続けることがよくある。この場合、どちらの技術者も正しくない。なぜなら、ある技法をどのように使うかを熟知しているからといって、それがよい技法にはならないし、また、その者がよい技術者であるとは限らないからである。例えば、ある木工旋盤をどのように使うかを熟知しているからといって、その者がよい大工であるとは限らない。優秀な技術者とは、いくつもの多様な技法を熟知しているだけでなく、その技法の各々を、いつプロジェクトに、またはプロジェクトの一部に適用するのが適切かを知る者である。それは、よい大工が数々の道具の使い方や、いろいろな技法を熟知した上で、さらにその各々をいつ使用したらよいかを知っているのと同じである。
要求分析を行なう際には、どの技法が今かかえている問題のどの側面に最も有効であるかを理解せよ。設計を行う際には、どの技法が今設計しているシステムのどの側面に最も有効であるかを理解せよ。コーディングを行う際には、最も適切な言語を選べ。
(201の鉄則:原理26<一般原理=「いつ使うかを知る」ことは、どう使うかを知ることと同じくらい重要だ>)
この世界で仕事をする人たちは、「技法」というものに魅かれる傾向があります。それは、今自分が遭遇している数々の問題の刺も、それさえあれば可憐な花に変えてくれるような憧れと言ってもいいでしょう。今の自分がそのような「技法」の杖を持っていないががゆえに、「それさえあれば・・・」という気にさせるのでしょう。だからこそ、F.ブルックスは、そのような『銀の弾丸はない』と言って人々を夢から目覚めさせようとしたのです。
最近のソフトウェア開発組織のマネージャーは、10年前と違って、ソフトウェアの開発経験者が増えてきています。しかしながら、経験者だからといってうまくマネージメントできるとは限りません。その最大の理由の一つは、開発規模も、機能の複雑さも、当時とは桁が違っていることです。おそらく、チームとしての分担でいえば、規模だけでも2桁は違っている可能性があります。この世界は、1桁違うだけでも、同じ方法ではうまく行かないものです。10KBのプログラムと、100KBのプログラムでは、同じ取り組み方ではバグも時間も10〜100倍も増えてしまいます。数人のチームで1000件以上のバグがカウントされることは珍しくありません。かって、この組織のマネージャーは、こんな数のバグなど出したことはありません。というよりも、出るような対象ではなかったという方が正しいでしょう。
このような事態に、今の多くのマネージャーは、どうすればいいのか分からない状態に陥っています。かっての経験が、そのままではほとんど役に立たなくなっているのです。
実際問題として、構造化手法にしろ、オブジェクト指向にしろ、分析・設計手法を勉強し、ある程度習得した(と思われる)人でも、目の前の作業にうまく使えない人が多いことは確かです。その理由は、現実のプロジェクト(あるいは、自分の分担分)と、学習したときのサンプルとの相違点が多すぎることです。規模や機能数の違いのほかに、サンプルには曖昧な定義はほとんど無く、仕様が途中で変更されるということもありません。多くの人が関わっているかどうかも大きな要素ですし、「次は、これを書いてください」という案内の有無も問題です。
実作業では、適切なプロセスが設定されていないため、次に何をすればいいのか見えないのが普通です。したがって、このような手法を習得しても、それをいつ、どのように使うのかということが分からないと、うまく使えません。トレーニングと違って、多くの場合、それを自分で考えなければなりません。
また、この種の手法のトレーニングは、新規の開発を想定していますので、実際のプロジェクトが既成モデルに対する保守〔派生)開発であったりすると、たちまち「いつ」「どこで」使えばいいのかが分からなくなってしまいます。
それでも、プロジェクトの性質に応じて、プロジェクト全般にわたってプロセスが明示されていれば、技法を使って成果物を生み出すプロセスと、それを活かしてさらに成果物を作り出すプロセスがイメージできるものです。というか、そのような要求に応えるプロセスを設定することになります。「あそこでクラス図を書いて、その先の機能の詳細が分かったところでシーケンス図を書いて、・・・」というように、プロセスが明示されていることで、作業の状況に合わせて習得した技法を(部分的であっても)使うタイミングを見つけることが出来るものです。
このように、習得した技法を「いつ」「どこで」使うかということは大変重要なことで、そのためにも「プロセス」を明示することが求められるのですが、ここに一つ問題があります。現実は、文献やセミナーなどで教えられるような単純なプロセスで構成されるわけではないということです。そこで示されているのは「メイン・ストリート」であって、それを支えるいくつもの「わき道」が必要なのです。つまり、そこで述べられているような成果物を生み出すプロセスだけでは、実際の作業はうまく流れないということです。
その主な原因は、機能数が多いのと、多くの人が関わっていることにあります。特に、相互に作業状況を認識できるような資料や、要求の分担や進捗が一目でで見えるようなマトリクスなども必要で、それを作り出したり、追跡したりする「小さなプロセス」も、うまく設定しないとプロジェクトは思ったようには進みません。また、レビュー関係のプロセスもうまく設定する必要があります。
この問題は、もっと奥が深く、ここでは説明しきれませんの、別に機会に譲ることにしますが、一言だけ補足するとすれば、いかに、作業〔プロセス)と成果物の「流れの中」で設定するかがポイントです。
▲最近の急激な円高で、外貨預金者の多くは、大きな損を被っているものと思われる。特に、9月後半の140円台でドルに投資した人は真っ青になっているのではないだろうか。国内の預金利息の低さにしびれを切らして動いたものと思われるが、「オプション付き」に投資したとしたら高い授業料になるだろう。
▲ところが逆にこの円高に乗じて、シティバンクではドル預金者が殺到しているという。急激な円高でドルを売りそこねた輸出業者も多い中で、なかなか鋭い動きである。前回の円高の時は、一般の人は外貨を自由に購入することが出来なかったが、今年の4月の外為法の改正から、誰でも円をドルなどの外貨に変えることが出来るようになった。つまり、円高のメリットを一般の人も受ける事が出来るのである。
▲本来、自国の通貨が高くなるということは、その国の経済力の強さを反映するため、多いに歓迎すべきことである。先頃までのドル高は、まさにアメリカ経済の強さを背景にしたものであった。だが今回の円高でドルに殺到したということは、この先、円安に振れることを期待?しているということでもある。少々複雑である。
▲多くの投資家は、今の円高が、日本経済の強さを反映していないと見ているのである。金融機関の早期健全化法案も、確かに「法案」は成立しても、スムースに運用できないことを察知しているのである。何かが積み残されていることを知っているのである。企業が本気になって生産性の向上に手を付けないかぎり、この国の経済が強くならないことを知っているのである。
この国に「リスク管理」が存在しないことに気付いている人は何人いるだろうか。もちろん、個人や個々の企業・集団の中には、リスク管理を正しく捉えて、それに対応している人や組織はいるだろうが、少ないのではないだろうか。
ダイムラーとクライスラーが合併を発表したとき、両者とも、その時点では存亡の「危機」に陥っていたわけではない。たしかに、シェアでみれば、クライスラーは日本の自動車メーカーにも抜かれていたが、利益率は、その時のGMよりもよかったと記憶している。日本の発想からすれば、“困って”はいなかったものと思われる。
そのような状態での合併という選択は、まさに「リスク」への対応という中での行動と考えられる。「問題」に対する対応ではないのである。ここが、日本では理解できないのではないか。
なぜ理解できないかというと、日本には、「リスク」という認識が、一般には存在していない。だから適切な翻訳がないまま、「危機」という言葉があてられている。辞書によると「possibility or likelihood of meeting danger or injury, suffering loss, etc」とあるように、「遭遇する可能性」であって「危機」とはニュアンスが異なる。 ところがこの国には、「不確かなことで議論しない」というある種の文化がある。起きるかどうか分からないことについて議論できないのである。動燃問題に象徴されるこの国の原子力政策は、まさにこの「落とし穴」にはまってしまったといえる。放射性物質が外部に漏れるということは「あってはならない」ことで、それを「リスク」と捉えて対応を議論することは許されなかっただろう。動燃をはじめとする一連のトラブルの報告書の中でも、この部分に踏み込まれていたようには見えない。
ヨーロッパの国々のように、海洋貿易が盛んに行われていれば、リスクの概念も育ったかも知れない。保険というのは、まさに「リスク」に対する対応措置であって、「問題」に対する措置ではない。だが、この国は、そのような概念が育つほどには、海洋貿易が盛んにはならなかった。遭難にあっても「災難』で片づけられてしまう。
遭遇する可能性について、対応策を考えるという習慣に乏しいため、どうしても「起きた時」のことの対応策と結びついてしまう。特に、「危機管理」というあやふやな言葉を当てはめたために、余計に分からなくなった。
この国には「専守防衛」という考え方がある。自分から攻めないというのである。そうなると「危機」というのは攻められる危険ということになるから、自分さへおとなしくしていれば、喧嘩は吹っかけられないという発想になるだけで、「リスク」まではいかない。
だから、防衛庁の資材調達の水増しを許すことと、自分たちの天下りポストが交換されるということになる。彼らの考えでは、そこには国防上の「リスク」は存在しない。だが、本当はこのような内部の規律の乱れは、国防における最大級のリスクである。
北朝鮮のミサイル(?)問題も、結局、「問題」として発症してしまった。このことをリスクとして捉えていれば、自国の上を通過する飛行物体を解明するのに、米軍からのデータの提供を受けるしかないという“ていたらく”を放置することはなかっただろう。おまけにこの問題で、誰も責任をとったとは聞いていない。もちろん、このようなことが起きないように、民間と協調して外交努力を続けるということも考えられるが、それだって、「ミサイルの攻撃に遭遇する可能性」を「リスク」として認識することで、初めて可能な対応策である。
我が国に、リスクの発想がないことを見抜いたうえで、「日米ガイドライン」に対して中国はさかんにクレームを付けてくるが、それに対して日本は国としての尊厳を背景とした対応が出来ない。このようなリスクの概念の欠落は、国民全般に言えることである。
もう一つこの問題を難しくしているのは「管理」という言葉である。我が国では「管理」という言葉は「監督」と同じように考えられている。机に向かって、様子を窺っておかしな行動している人をチェックし、罰する行為と考えられている。
だが、管理とは本来、“その気にさせて目的を達成する”、あるいは、そのように“仕向ける”ことである。「マネージャー」というのは、まさにそのように仕向ける人のことであって、そこには「動き」がある。
ところが「管理」を“能動的”な行動として認識していないため、「危機管理」も、「問題が起きたときに何をするか予め考えておくこと」という認識になってしまう。「危機に遭遇しないようにするための方策を予め考えておく」という発想にはならないのである。
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いい加減に、この間違った考えに気づき、適切な「リスク管理」に取り組まないと、すべてが事後処理になってしまう。当然、リスク管理によって問題の発症を未然に防ぐコストと比べて、数倍から10数倍も高くついてしまうし、時にはそれでは済まないかも知れない ◆
「一見馬鹿げたアイデアでなければ、なんの見込みもない」(アルバート・アインシュタイン)
市場は常に、「低コスト」「高性能」「タイムリー性」を求めている。そして時々その中に「革新性」を忍ばせる。こっちの方は、人によっては見えないことがあるようだ。それをうまく見つけた者が、新しく市場に受け入れられる。だが、そのような市場の性格を見つけたとしても、「革新的発想」は普段から取り組んでいないと湧いてくるものではない。
閉塞状態から抜け出すには、馬鹿げたアイデアも必要だ。今日の日本の状況は、既存の企業や発想が、状況を打開できないことを証明しているともいえる。これまでは「改良」指向の発想が、この国の産業を支えてきた。既にあるものをより安くつくるとか、より簡単に作るといった「より・・」でやってきた。そこでは、「常識」を大きく外れるような意見は取り入れられない。いわば「安全」「確実」を指向してきた。
だが、それでは今の状況を打開できない。
「総合」電器メーカーが、揃って赤字を計上するというのも、「揃って」同じ発想の集団であったという証でもある。「そんな値段で作れるはずがない」とか「その大きさにするのは無理だ」とような反撃にあうようなアイデアでなければ状況を打開できないかもしれない。