部下に大きな期待を寄せれば、彼らはずっとよい仕事をするだろう。Warren Bennis の調査は、上司が部下に期待をすればするほど(明らかに限度はあるが)よい結果が達成されることを明確に示している。多くの実験で、さまざまな人の混成グループを2つのサブグループに分け、全く同じ目標を与え、1つのサブグループは素晴らし成果を期待しているように扱い、もう1つのサブグループを平凡な成果を期待しているように扱うと、どの実験結果も素晴らしい成果を期待されたサブグループが他のグループよりずっとよい成果を挙げた。
上司が部下に素晴らしい仕事を期待していることはさまざまなかたちで示すことができる。率先して(よく働き、うまくいった仕事を誇りに思い、仕事中にコンピュータ・ゲームをしない)例を示せ。部下に、ベストの成果が達成できるように教育・訓練の機会を与えよ。卓越した行動に対して報いを与えよ(ただし、原理138を参勝せよ)。よりよい成果をあげ、よりよい習慣を身に付けさせるために、あまり成果があがっていない部下を、コーチし、個人指導し、おだて、そしてやる気にさせることを試みよ。もしあなた(または彼等)がそれに失敗したら、組織または会社の中で、彼等にもっと合った仕事を見つけてあげることだ。不適切な仕事を彼等にいつまでもまかせていてはいけないが、それに同情も示す必要もある。彼等をそのままにしておけば、製品の品質が悪くなるだけでなく、他の部下が、質の悪い仕事振りでも許されると思うようになるだろう。
(201の鉄則:原理135<管理の原理=素晴らしい仕事を期待せよ>)
注: 赤字は編集者の判断です。原理138=人は思いもよらない動機で仕事をしている
この原理135は、我々に大きな問題を投げ掛けています。例えば、部下に期待していない上司はいないでしょう。もし居たら大変です。ただ、期待の程度が問題なのと、期待とは別に「部下が仕事をすることは義務だと」思う程度の大きさが問題です。意外と、前者より後者の方がず〜っと強い「上司」が多いのではないでしょうか。特に、その人自身、これまで「いい仕事」をしてきたという実感や誇りを手にしていない場合、後者に傾斜する傾向が高くなることは否めません。
原理135は、単に部下に期待しなさいと言っているのではありません。そのような期待は、必ずや裏切られることでしょう。もしかすると、そのような経験の中からも、後者の方に傾いていったのかもしれません。そうだとすれば、それは間違った選択です。そんな所からは何も展開しないでしょうし、それこそ「management」の放棄と言われても反論できないでしょう。
大事なことは、期待する気持ちを「形」や「行動」に表すことです。そういう思いを言葉にして伝えることはもちろん、制度面でも工夫することができます。昔、そのような進言をしたとき、「会社として決まっていることだから、自分のところで勝手に変えることはできない」と即座に反論されたことがあります。でも、その組織は数年前に消えてしまいました。市場の要請に全く応えることが出来なくなったからです。
形に表す方法については、原理135に幾つか例が上げられています。というより、殆どこれで全部ですが、あえて1つ付け加えるとすれば、複数のグループが絡んでいる場合、グループ間の仕事の段取りの問題などは、担当者レベルでは解決しません。CMMでいうところの「現場で解決出来ない問題」に対して、上司が積極的に解決しようと動くことも、期待の一つの表現としてはとても有効です。「私もやるから、皆も素晴らしい成果をあげて欲しい」という気持ちがあれば、そのような行動は可能でしょうし、それこそ、上司でなければ勤まらない部分です。今まではそのような段取りでやってきたかも知れませんが、それが現実に障害となっている以上、放置しておくことは、間違いなく士気の低下を招くはずです。
そもそも、誰もが喜ばれる仕事をしたいと思っているのです。約束の期日を遅らせ、そのうえ多くのバグを出して納得している人はいないのです。仕事をする動機が、自己実現であろうと、生活のためであろうと、バグを出して何度もリワークをして充実感を味わっている人はいないでしょう。
でも、現実は納期に追われ、バグに潰されそうになっているのです。仕様の確認を省いたために、何度もリワークを繰り返しているのです。このような苦痛から逃れるために、多くの人は、物事を深く考えないようにする「術」を身に付けています。
この状態で、「素晴らしい成果を期待」すること自体、矛盾しています。素晴らしい成果を期待するなら、部下が「いい仕事がしたい」という気持ちをそのまま仕事に表現できる環境を作らなければなりません。そして、よい習慣を身に付けさせること、これがマネージャーの大きな責務であることを認識していただきたいのです。
ほとんどの大きな問題は、自分一人で解決できる問題ではありあんせん。自分の領域で、もっとやることはあるとは思っても、それだけで解決しないことも確かなのです。問題は作業の流れなのです。いつの間にかそこに存在する「作業の流れ」があって、自分のところだけ流れを変えようと思っても、水の方はそんなことに構わず、今まで通りのところに流れてくるのです。その上「支流」の問題もあります。そうなると、もう1担当者のレベルはもちろん、時にはチームリーダーの範囲をも越えてしまいます。
でも、そのような流れが存在している限り、紙切れ1枚の仕様で作業に入るしかなく、試作と本番の区別も付かず、必要な作業(プロセス)が安易に省かれる結果、度重なるリワークが発生し、さらに時間が浪費するという「川の特徴」は変わらないのです。
その川の流れは、恐らく自然発生的に出来上がったものと思われます。考え付くままに、流れを作っていった結果、支流も含めて「現状」のような形になったのでしょう。でもそのような川の流れの下では、部下に「よりよい習慣」を身に付けてもらうことは出来ないのです。
プロセスを変えると言うことは、今の川が存在の合理性を失って氾濫する前に、「運河」を引いて流れを変えようということです。やったことの無い人や、川全体を見通す術を持たない人にとっては、とても勇気がいるかもしれませんが、どこかでやるしかないでのす。ガイドと一緒に始めるしかないのです。部下により良い習慣を身に付けてもらうには、ここに踏み込むしかないのです。
▲ソフトウェア技術は防衛産業によって育てられてきたと言っても過言ではありません。「ソフトェア・エンジニアリング」と言う言葉は「NATO軍」によって初めて使われたものですし、私が使っている「CMM」も実際は、国防総省が支援しています。この他、「NASA」も高度なソフトウェア開発を目指した活動を進めています。
▲ありがたいことに、SEIもNASAも、その技術をインターネットで惜しげもなく公開(無料)してくれているのです。これが1民間企業の技術であれば、こうは行きません。その証拠に、「シックスシグマ」の方は、そのイントロだけが公開されているだけで、コンサルティングを受けない限り、具体的な内容を知る方法はありません。
▲防衛産業は税金を使っています。議会のチェック機能がしっかりしているところでは、予算の使用効率が厳しく追及され、それがソフトウェアの技術の向上を裏で支えているのです。当たらないミサイルに予算を使えないのです。また、NASAも失敗は許されない状況から、非常に高いレベルのソフトウェア開発能力が求められます。
▲が国の防衛庁の調達コストは世界でも高いといわれている。議会にチェック機能ないのと、「国産化」という大義名分の下に、見積もりの水増しが横行してきた実体が明らかになったが、チェックの厳しさの無いところに、高い技術は育たないことを忘れてはならない。
この国は、どうやら「多様性」を避けてきたのではないかと思われる。その方の専門家ではないので、いつ頃からかは云えないが、少なくとも、敗戦から今日まで、そうしてきたように思えてならない。
確かに、戦後の復興には、「均質」が有利に働いた。国を上げて再興しなければならないときに、「多様性」は都合が良かった。その結果、均質の世界からはみ出すことは、同時に生活の場を失うことを意味した。そのことが影響しているのかどうか分からないが、「生」とか「純」という言葉が好まれるのも、そのような気質を表しているのかも知れない。
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だが、今日の閉塞感が、これまで我が国が大事にしてきた「均質」と無関係ではないように思えるのである。7年経っても、バブル崩壊の混乱から経済を立て直せないのも、学校が子供にとって有意義な場でなくなっているのも、迫り来る少子高齢化に対して、全く有効な手立てを講じえないのも、行政のスリムかや、ゴミ処理や環境問題、不良債権処理などで、独自案が出せず、いつも世界に「前例」を求めるのも、世界のリーダーに期待されていながら尻込みしているのも、「多様性」の欠如とは無関係に思えないのである。
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先進国と云われる国で、職場の中に外国人がこれ程少ない国も珍しいだろう。経済大国と云われ、経済のボーダレス化が叫ばれ、品物だけでなく、人も資本も自由に動く時代になっているのに、首都圏のごく一部の業種の極く一部の職場以外は、殆ど「日本人」だけである。これでは、新しい発想が求められているときに、その「源」から水が湧き出してこないではないか。スイスに本拠を置く「ABB社」の経営上の意思決定機関は8名で構成されているが、国籍は7種類だという。この「ABB社」と三菱重工が市場でぶつかっているが、96年あたりから重工にとって障壁となっている。
確かに、組織においては「均質」は扱い安いが、逆にそこではマネージメントの技術が育たないし、作業の標準化も進まない。これまで人の流動性が低かったため、その必要がないからである。このことが、日本から世界に通用する経営者が生まれないことと関係しているかもしれない。
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今日の教育の現場の混乱も、「均質」と「多様性」の衝突と見ることが出来る。教育のカリキュラムもコースも、多様性の時代にまったく適合していないのである。いや、「均質」の世代にはどうしていいのか分からないのだろう。そのため、「多様性」は教育の現場からはみ出した形で表面化する。学校に行けない子供たちは、「均質」の世代から見ると、「均質」の枠からはみ出していること自体が問題として見えるだろう。
実際に自分の意見を持ったしっかりした子供が、「均質」の世界の中で「問題児」に変わっていく様子を、何例かこの目で見てきた。そして、一年という時間の中で、ほとんど確実に彼らは学校からはみ出してしまう。いや、「均質」の世界が彼らを拒否しているのである。日常の生活環境の中で無意識に「多様性」を身に付けた子供たちには、「均質」の世界との接点を見出せない。
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親の方も、学校の中に入れない原因がよく分かっていないため、一旦は「均質」の方に適合させようとするが、多くは失敗する。そうして初めて、我が子の「多様性」を認めるようになるが、今の日本の社会は、全体としてそれに対応できていないので、まだしばらくは苦労するだろう。だがこの先、行き詰まった既成概念を打ち破るのは、もしかしたら彼らかもしれない。
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他にもある。行政機構をスリム化する方法として「エージェント」とかいう制度が検討されているが、これもイギリスで実施されているものであるし、そもそも「ビッグバン」というのも、イギリス製である。逆に、「自前」の臓器移植の仕組みは全く機能しない。まさに「均質」の産物なのである。面白いことに法案の提案者たちも、そのことには触れようとはしない。企業に於ける「標準化案」とそっくりである。
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私自身、客先から「その方法はどこかで実施していますか」と聞かれることがよくある。他でもやっているのなら、自分たちもやらないわけには行かないと言うのである。ここにも「均質」の顔がちらっと覗く。人と違うことが出来ないのである。
こうして長い間「多様性」を避けてきたことが、ついには国として「転換すべき時に継続を選ぶ」ことになってしまったのである。「均質」の中では、「出る杭」は叩かれる。前例がないとか、混乱が起きるとか、叩く方法は幾らでもある。
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此処に来て、この国が「多様性」を避けてきた(少なくとも、積極的に育ててこなかった)ことが、企業において経営の決断を遅らせ、現場の生産性を低下させてきた。そればかりか、国の政治の決断をも狂わせたとしたら、我々は歴史に対して責めを負うことになる。 ◆
「二人の人が同じ意見を持っているとすれば、そのうちのひとりは余分である」(スティーブン・R・コヴィー)
デフレ・スパイラルのに入ったかどうかという議論が行われている最中、今月末の(中間)決算を控え、それぞれの企業では、経営方針を巡って盛んな議論が行なわれていることだろう。大いに、議論すればいい。議論というのは、違った意見の中に重要な問題が潜んでいる可能性を探す行為でもある。人は、立場で物を考える性質がある。裏返せば、その人の立場でしか物を考えることが出来ない可能性があるということでもある。だから、立場の違う人や、責任範囲の異なる人を集めて、議論するのである。
だが、この国の経営者の多くは、今の状況を見る限り、これまで多くの判断ミスや間違った行動をしてきたようである。その一つが「取り巻き」である。議事の進行をスムースにするため、自分と意見を同じくする者を集める傾向がある。そこでは異なる意見の持ち主は疎んじられてきた。今、山一証券の公判が行なわれているが、そこで公表されている資料からも、そのことは明らかである。また、防衛庁の資材調達でも同じ構造が見られる。
経営会議でも、各部署の会議でも、「同じ意見です」という人は、組織や会議のメンバー構成において、その人の必要性を再検討すべきだし、逆に、同じ意見を持つ人を集めたがる人は、間違いを犯す可能性が高い。