1.その変更は、意図した通りに問題を解決していない
2.その変更は、その問題は解決したが、新たな問題を起こした
3.ずっと後になって、その変更が注目されたが、なぜ(または誰によって)これが変更され
たか誰にもわからない。
これら3つのケースのすべてを防ぐには、すべての変更を追跡することである。
追跡は、必然的に次の記録を要求する。
・最初のきっかけとなった変更要求(これは、顧客からの新機能要求、顧客からの誤動作に対
するクレーム、開発者による問題摘出、または開発者の新機能追加への願い、などであろう)
・変更を承認するプロセスで用いられた情報(誰が、何時、なぜ、どのリリースで、など)
・すべての中間成果物の変更に関する情報(誰が、何を、何時、など)
・変更要求、変更の承認、及び変更自体の間の適切な相互参照情報
このようなものを用いた監査追跡が、容易に変更を元に戻したり、再実行したり、または理解
することを可能にする。
(201の鉄則:原理181<製品保証の原理=すべての変更を追跡しつづけよ>)
ここではいろんな取り組みが要求されています。まず、変更を追跡する機能というのは、いわゆる『構成管理』の一つの機能です。ただし、この機能は変更制御が為されていないと、実際にはうまく機能しません。必要とする記録の中に、「変更を承認するプロセスで用いられた情報・・」とありますが、この「変更を承認するプロセス」というのは『変更制御』プロセスのことです。そして最後に、「このようなものを用いた監査追跡が・・」というのは、CMMでいうところの『品質保証』活動の一つに相当します。
ソフトウェアの開発現場は、この「変更」との戦いでもあります。1回で上手く行けば、そして2度と書き直さないのなら、変更という行為は必要ないわけです。しかしながら、現実の“業務”にはそんなものはありません。それどころか、制御されない変更行為によって、混乱が増幅されているのが現実です。原理181にもあるように、変更が新たな問題を引き起こしているのも事実ですし、その修正で治ったと思ったのに、別の人が操作してみたら実際には半分のケースしか治っていなかったり、最終段階に入って、1つのバグで3ヶ月前の変更が蒸し返されたりします。
こうして3ヶ月も続いたバグとの戦争もようやく落ち着いて正気を取り戻したとき、今回もまた性懲りもなくバグ戦争を繰り広げてしまったことに、少しばかりの後ろめたさを感じるものです。そして、これらの問題を解決するために、何らかの制御とか規制が必要なんだろうな、と思うのです。1ヶ月前に、あの髭をはやしたコンサルタントが、ソースを勝手に修正してはだめだ、と言っていたことを思い出す。が、次の瞬間、“そんなこと言ったって、あの戦場の最中に、バグを一つひとつ治す度にレビュー(変更制御)なんてやってられるか”と、自分に言い聞かせる。でも本心から、これでいいとは思っていない。
確かにバグが500件、1000件という状況で、しかも限られた時間で修正個所をすべてレビューすることなんて出来ません。つまり、前の工程(プロセス)をそのままにして、テスト工程という一つの工程で、全てを解決しようと言うことが間違っているのです。このように、“問題”の工程で対応するという姿勢は、実際の開発現場ではしばしば目にするところです。
これでは何も解決しませんし、場合によっては、先の例のように、対応方法がないことを思い知らされるだけです。特に、テスト工程での取り組みは、その前の製造工程をそのままにして実現するものは殆ど無いといっても過言ではありません。それはテスト工程は、何も作り込んでいないからです。つまり、作り方を変えないで、出来上がったものを金槌で叩いて矯正するというやり方自体が間違っているのです。大事なことは、全体の中で望ましい結果を導く方法を考えることです。
原理181で言う、顧客からの要求や、開発者から発せられる新機能追加の要求を追跡するための記録が必要であるというのは、CMMで言うところの「要求管理」の一つの機能です。「要求管理」には大きく2つの機能が含まれています。一つは、要求が確実に設計書やソースにおいて実現されるべく反映されていることを確認することで、もう一つは、途中で発生する要求の変更に対して、混乱を生じないようにして実現することを管理することで、これには、前者の機能の支援を受けることになります。それでも、途中で発生する要求の変更を追跡できる記録を残していることで、大きなミスを避けることができます。
結局、原理181(及び182)を実現しようと思えば、要求管理から導入しなければなりません。要求を具体的に表現し、顧客との間で合意し、それが設計工程以降で実現されているか追跡し、テストケースの作成に活かす。要求の難易度などはリスク管理や新規性チェックで事前に判定し、担当者に応じて適切なフォローをすることで問題となることを防ぐ。一方で、詳細なスケジュールを追跡することで異変を察知し、問題の種を早期に発見し対応する。
その結果、バグそのものが時には1/10以下に減少します。つまり、最初からバグを招き入れないプロセスを繋いでいくのです。これによって、テスト工程で発見されたバグの修正に対して、しっかりした変更制御を取り入れることが出来るのです。こうして、上手くやる組織は、より望ましい結果を手に入れることが出来るのです。これが、組織のレベルで100倍以上の生産性の差となるのです。
これから逃げて、いったい何処に幸福があるのでしょうか。
▼円安の流れが止まらない。特別減税を実施しても、16兆円の予算規模で対応策を打ちだしても、市場は評価しない。特別減税ではなく恒久減税のアドバルーンもちらつかせて市場の様子を見ているようだが、市場は冷ややかな反応を見せている。歳出を減らさないかぎり、その分を何処かで埋めあわせてくることを知っているからだろう。だから、省庁の統合法案が参院を通過、成立しても、市場は何も反応しない。
▼国民の目は誤魔化せても、市場は騙されない。そんな中で、6月12日、アメリカのルービン財務長官の、適切な政策を伴わないで円買い介入をやっても効果が上がらないという発言で、円は一気に145円台に入ってしまった。激励の積もりだったのだろうがお灸が効き過ぎた。結局17日になって為替市場に介入せざるを得なくなったが、逆にアメリカ頼みの構図が丸見えになった。
▼ソ連の崩壊に始まったこの10年は、まさに激動の10年であった。だがその激動の10年は、どうやら「激動の20年」となりそうな状況である。ロシアの経済的行き詰まり(既に破綻?)が表面化したことで、アメリカとしては日本に時間を取られたくない。いや、アメリカより、統合に向けて動きだしたヨーロッパにとっては、ロシアはもっと深刻な問題である。
▼日本は経済大国のはずではなかったのか。民主主義の国ではなかったのか。何よりも「経済力」によってG7の中に入っている国ではなかったのか。それともまともな処方箋も書けない国だったのか。いつまでアメリカに頼っているのか。日本としてやるべきことは分かっているのだから、さっさとやればいい。いつまでも去年のアジアの経済危機の責任を回避しているようだと、市場に見放される。あとはリーダーシップだけだ。
長引く不況の影響を受けて、企業の決算が軒並み悪化している。赤字ではないにしても、最終利益が売上の1%にも満たない企業も多く見受けられる。
先頃、日本の大企業のトップが「日本では、雇用を守ることが企業の使命である」と紙上で語った。多くの人は、この言葉に「当然」だというだろう。だが、本当にこの考え方が今日の日本にあって正しいのだろうか。今日の日本の閉塞感の原因の一つではないだろうか。
「雇用を守ることが企業の使命」というのは、「終身雇用」の中核をなす考え方である。従業員も、これによって一種の安心感をもって企業に身を捧げてきた。確かにこのような構図は、戦後の荒廃からの立ち直りには有効に働いた。
だが現実は、企業内部で余った部門から利益の出ている部門へ人を押付けてきただけであり、当然、そこでは企業の財務は無視されてきた。人件費の安さや右肩上がりの経済が問題を隠したのである。こうして「雇用神話」が形成された。
だが、経済の構造変化の最中にあって、「雇用を守る使命がある」という言葉に、思考が停止している状態を感じる。多くの従業員と大きな資本金は、この国では優良企業の象徴であったし、企業のトップにとって誇りでもあった。
だが、時代は変わった。優良企業の尺度は「効率」へと変化した。その変化に旧来の優良企業がついていけない。「雇用を守る使命」を最優先に背負う限り、効率経営は実現しない可能性がある。今のレベルでは作業の効率や生産性を上げれば人は余ってしまう。そして低いレベルでの「効率」の枠からはみ出した人を、企業内で新しい分野に転換させることは殆どできない相談である。結局、このままでは事業は成り立たなくなる。
雇用を守ることが企業の使命だとすれば、従業員の整理縮小は重大な使命違反となる。そうはいっても、背に腹は変えられないからリストラが陰湿化する。
本来なら、経営上の都合で辞めてもらうような場合、再就職に向けての適切なケアが必要であるが、建て前が邪魔になって、そのような適切なケアをオープンに制度化することは出来なくなる。多くの人は、現状のリストラのやり方に疑問を抱いているが、それがどこから出ているかまでは考えていない。
今日の状況では、個々の企業で雇用を死守するという行動は適切ではない。合成の誤謬の典型例である。では守られるべきは何か。それは、労働者が働く場を選べるという流動性である。もちろん、企業側にも働いて欲しくない人を拒否できるという選択権がある。
だが、現実はこの2つとも逆の状態にある。そしてそれが多くの悲劇を生む結果となっている。双方に選択肢がない最大の理由は、「職務の一般化」が進んでいないことにある。つまり外では通用しないのである。これが失業の恐怖に繋がっていく。
一方、ある事業を開始する際に、職種とその仕様が一般化していないために、一体、どのような人が何人集まればいいのか全く分からない。結局、適当に“そこに居る”人を集めるが、多くはは不適材不適所となる。こうして、雇用を守ったことで、結果的に双方にとって身動きが取れなくなっているのである。
あのGEは、常に5%の人が辞めていくことで95%の人のレベルを維持しているという。レベルが高い中で辞めていく5%の人は、他の企業では十分に通用するはずである。
このような状況であるにも関わらず、なぜ「企業は雇用を守ることが使命」と言い続けるのだろう。そうした行動を取り続けてきたことが、逆に、産業構造の変化に遭遇して職を失った人たちに肩身の狭い思いを強いているのではないか。
むしろ10年前に大企業が揃って、これからは個々の企業で雇用を守る時代ではないと声を上げることで、経営の効率化や構造変化に伴う従業員の整理縮小をオープンにし、大学や専門学校を軸に再教育の仕組みを社会が用意することを進めるべきではなかったのか。
経営判断のスピードが求められる時代にあって、この足枷は企業にとって致命的なものとなるだろう。そしてグローバル経済の中で、日本の企業はその活躍の場の多くを失う可能性がある。
労働者自身も意識を変えなければならないが、経営者の「雇用を守ることが企業の使命である」という言葉は、何年か後に、雇用が原因で行き詰まったときの言い訳の種に聞える。 ■
凡そ学は必ず業を進むるを務む。心則ち営(まど)うこと無し」(呂氏春秋)
学ぶという言葉は、今では「古臭い」印象を与えるかも知れませんね。でもそのことは、「学ぶ」ということとの間に既に距離があることを意味してはいないでしょうか。そのことを強調するために、今回はあえて「古臭い」ところから引用してみました。
学ぶというのは、自分の本分を発掘し活かすことです。自分に与えられたものを発揮することです。ただ自分の本分は簡単には気付かないし見えません。そのままでは一生見えないかも知れませんが、学ぶことによって自分の本分に気づくのです。それは現実には活躍の場が得られるという形で気付かされるかも知れません。
したがって、ただ知識を増やすことが学ぶことではありません。自分の業を表に引きだすものでなければならないのです。自分の仕事に活かされ、自分の生き様に活かされなければ「学んだ」ことにはなりません。そうしてさまざまな場面に遭遇しても惑わないことです。というより、いろんな場面に遭遇して迷うことのないように学ぶのです。学校の先生は、本来、これを教えるのが仕事であったはずです。
残念ながら、今日では「学ぶ」という行為が、学校などで「教えてもらう」という行為にすり替わっています。だから、ただ聞いているだけです。せいぜい「素材」のまま記憶の壷にしまい込んでいるだけで、ちょっと応用を求めると、その壷に入ったものを活かすことができないのです。
結局、学ぶという姿勢を伴わずに人の話しを聞いても、ニュースや本を読んでも、目の前を文字が流れていくだけであり、そんなことが書いてあったというだけで終わるのです。それでは単に時間を消費したというだけになってしまう。