(201の鉄則:原理160<管理の原理=増幅する波のような計画変更の繰り返しをするな>)
この原理は、少し回りくどい言い方をしているので、良く読まないと何を言っているのか分からないままになってしまいそうです。要約すると、スケジュールを遅らせる時のセリフが、いつも決まって「2、3週間のうちに挽回できそうです」というが、その通りになった例はない、というのです。それどころか、2週間後には、もっと深刻な顔をして、「先の問題は目処は付いたのですが、予想外の事態が発生し、それを追跡しているうちに、隠れた仕様が在ることが分かったため、更に3週間の延長が避けられなくなりました」と言いに来るというのです。奇跡、すなわち、その機能が必要なくなるという奇跡でも起きない限り、このようなスケジュールの延長は押し寄せる波のように、何度も繰り返されるというのです。
こうした、度重なる計画の変更によって、納期は大幅に外し、揚げ句に、次期プロジェクトの開始時期をも外してしまうのです。いわゆる「デス・マーチ」の典型です。実際、多くの開発組織は、程度の差はあっても、このような状況に陥っているものと思われます。尤も、意地悪くいえば、変更されるような計画なんて最初から存在しない、ということも考えられますが、そのような「計画書」があろうとなかろうと、「約束」の期日は、色々な理由で飾られて何度も先伸ばしされるのです。まるで、楽しみは先に延ばした方がいいとでも言うように。
確かに、実態に合わなくなった計画は、何の意味もありません。それは関係者にとっては忌まわしいものであり、目に入る所には置きたくないものです。関係者が全員そのような意識になっているものですから、スケジュールは存在しないのと変わりはなく、相互の段取りや、細かな予測などは一切行なわれることは在りません。いや、存在しないより悪いかもしれません。書かれていないのなら、今からでも書こうということになって、少しは事態の悪化を食い止められる可能性がありますが、なまじいい加減なものが書かれていることで、新たに(もっと良いものを)書こうという動機が生まれてきません。もう一度書き直しても、同じような「もの」しか書かれないでしょうから。
原理159の「計画を常に更新せよ」というのは、そのような「廃計画」になる前に、適切に更新せよ、というのです。
しかしながら問題は、一体どのように更新すればいいのかということです。それが分からないから、何度も計画の変更が繰り返されることになるのです。まるで、「リーダー」とは、そのときの言い訳を考えるのが仕事であるかのように考えている人達もいるくらいです。
スケジュールは、具体的に詳細に考えられない限り、上手く事が運ぶことはありません。適当な「作業項目」を並べて、「これでなんとかなるだろう」という言葉で飾ったスケジュールが、まともに機能することは無いのです。真剣に考えられたスケジュールであっても、予定を外すことが起きるのです。そのとき、その原因を真剣に考え、その対応策を考える必要があるのですが、その際に、「あと何日必要か」ということを出来るだけ正確に割り出さなければなりません。そのためにも、作業は具体的に且つ詳細に分析されていなければならないのです。
厄介なことは、この種の問題は、「問題」となるまで意識されることはないということです。したがってプロジェクトの早い段階で、成果物のサイズ見積もりや、適切な粒度で作業のブレークダウンが行なわれていなければ、ほとんど、立て直すチャンスは無いのです。そんな時間など在るはずが無いのです。
なぜ、致命的な問題に繋がる「ある日のわずか1日の遅れ」が、発生したその日に発見できないのか。それは、スケジュールに「仮説」が含まれていないからです。
「設計書を作成する」工程の、ある日の作業が、
バッファ全体の管理を設計する・・3H
受信バッファの構成を設計する・・4H
となっていたが、実際には、全体の管理方法の設計で1日が終わってしまったとき、4時間の作業は明日に持ち越されることになります。このとき、全体設計が3Hで出来るとしたときの仮説が問題になります。実現方法が分かっているから3Hとしたが、途中で割り込みが発生したことで1日費やしてしまったのか。あるいは良く分からないまま3H(ぐらい)と予想したが、実際に設計に取り掛かったところで、アルゴリズムが考えつかなかったうえ、設計書の書き方も分からなくなったことで、1日掛かってしまったのかで、事態は大きく違ってきます。
前者は、「2、3日で回復」するでしょうが、後者は、この先も遅れの幅は大きくなって行くでしょう。これを「その日」で判断するには、スケジュールを立てるときに使った仮説が必要なのです。
そして、計画を更新するというときの「更新」とは、単に版番号を1つアップさせることではありません。約束を実現するための「別の方法」を考えることです。大げさなものではありません。ちょっと工夫して、品質を落とさずに期日を守れる方法を考えだすこと、あるいは考え付くことです。この業界で仕事をしている人は、そのような方法をもっと研究すべきです。
▲3月締めの企業の決算発表が今月末までに発表される。中でも今日22日(金)に集中して発表された。毎年5月の第3金曜日に集中する。今年はカレンダーでは第4金曜日になるが、実質的には第3金曜日である。株主総会が集中する様子は、マスコミでも取り上げられるが、決算発表日については、あまり問題にされていない。
▲上場企業の決算の発表は、通常は証券取引所で行なわれるので、株主総会と違って総会屋の問題はない。ではなぜ、このように同じ日に決算の発表を集中させるか。それは集中させることで、証券取引所での発表時間の割当てを短くし、報道関係者からの質問の時間を少なくするのが狙いである。報道する側も、全部にスタッフを割当てる余裕がない。つまり、混乱のどさくさに紛れて発表をやってしまおうというのである。
▲経済のグローバル化に伴って、企業会計の一層のディスクロージャが求められている。だが株主に対して経営内容を正直に示すというのは当たり前の話しである。資金を出してもらっている株主に対して、なぜ事実を隠さなければならないのか。経営者は株主に対して最大の責任、あるいは「commitment」があるはず。社員に対するよりも大きな責任があるはず。これでは個人の株主は当分戻ってこない。
▲時代が、どんどん動いているというのに、未だに正直に公開しようとしない。そのような会社で働いている従業員にも、おそらく何も知らされていないだろう。あの山一のように、突然「簿外債務」が行く手を阻むのである。まるでタイタニックを沈めた巨大な氷山のように。これでは従業員も株主もたまったものではない。こういうどさくさに紛れて、その場をやり過ごそうという企業は、疑ってかかってもいいのではないか。
今回のバーミンガム・サミットで、日本の経済運営については、殆ど議題にならなかったという。直前に、インドが地下核実験を実施したり、インドネシアの政情不安が高まったこともあって、話題が反れたようだ。日本の政府にとっては、お陰で叩かれずにすんだというところか。政府の方では、日本の政策が受け入れられたと受け取ったのか、そのような声明を出している。
その前の五月の連休の期間に、日本の経済運営をアメリカ政府に説明するために、入れ代わり立ち代わりアメリカ詣でをやって、“誠心誠意、経済が回復するように努力する”と説明してきた。各国にしてみれば、その狙いが実現するという裏付けであり、その仕掛けなのだが、それは元々存在しない。G6の首脳も、最近はこのような日本の説明に飽きているのではないか?
もっとも、日本の国民の前にだってそれほどの「熱意」で説明していないのに。どうして日本の経済運営をアメリカに説明しなければならないのだろう。しかもわざわざこちらから出向いてまで、という気がするが。
G6の首脳が日本の経済運営に疑問を感じ、それで細かく説明を求める理由を、日本の政府は理解しているのだろうか。彼らが責任を負っているのは自国民に対してであって、自国民の生命財産を守る責任が在るのである。したがって、その責任を果す際の障害になる可能性のある要因は「リスク要因」として見届けなければならない。この場合、彼らにとって日本は確実に「リスク要因」のはずだ。したがって、日本の経済が一年以内に回復しなかった場合、アジアの製品の輸入が進まなかった場合、デフレスパイラルに入った場合、というように、いろいろな変化の状況を想定し、それぞれの状況に於ける自国経済の影響を想定している筈だ。
内政干渉気味に日本の経済運営に口を挟むことによって、政府の本音を見つけだそうとしているように思える。少なくとも、私ならそうやってでも探り出す。それぞれの国にとって、日本の挫折が与える影響を無視できない以上、そこまで行動しなければ自国民に対する「約束」を果すことが出来ないから。ただ日本の説明をそのまま信じても、実際に日本の経済が予定通りに回復せず、その影響を受けて自国の経済までおかしくしたのでは、国民に説明がつかないのである。
日本の経済は米国に大きく依存している。ヨーロッパに対しても輸出の多くを占めている。だから、彼らにとって日本は必要不可欠な存在だろうと思うのは早計過ぎる。日本からの輸出が止まれば困るだろうというのは、思い上がりだ。アメリカの対日輸出はGDPのわずか1%で、輸入も、現地生産が進んだ結果、僅か2%に過ぎないという。つまり、日本との貿易が止まっても、アメリカは困らないのである。リスク管理の結果、問題となっても困らないように対策を講じてきたのである。結局、困るのは日本のほうなのである。
たしかに日本は世界最大の債権国である。97年末現在でも、円に換算して前年比20%増の124兆円に達したという。以下、ドイツが約11兆円、フランスが9兆円である。この数字は、対外投資額から対日投資額を引いた値であって、外国からの日本への投資が少ないことを意味している。この間に増えた対外投資だって、「ジャパン・プレミアム(邦銀への金利上乗せ)で邦銀の海外支店の資金調達が難しくなり、本店から海外支店への貸し出しを増やしたことが主な要因」という。別に自慢するような事ではない。それに円安が数字を膨らませている分もあるし、過去に「高値買い」で投資したものの含まれている。
それに対して、日本への投資が少ないことは、それだけこの国が投資の対象として魅力が少ないということである。だから世界一の債権国だといって威張るほどのものではない。債券なんて、いつ紙切れになるとも限らない。
日本の持つ大量のドル債も、円安を防衛するために幾らか使えることはあっても、ドルを叩くために使おうものなら、その時点で日本は世孤で立する。大量のドル債は、ちらつかせるには効果があるがそれ以上のものではない。だったらどうして自国民の為に使わなかったのか。■
「成功は幸福の中の一つの要素になり得る。しかし、もし、他のあらゆる要素が成功を獲得するために犠牲にされたとしたら、成功の値はあまりにも高価すぎる」バートランド・ラッセル(幸福論)
人の幸福にはいろんな形があってもいい。「成功」というのも、確かに幸福の一つであるが、それでも幸福の一つに過ぎない。
成功することだけが人生の目的と考える人もいる。役人になって次官にまで登ること。事業を興して大きな富を得ること。あるいは会社に入って、そこで社長になること。この人たちは、そこに至るために多くのものを犠牲にすることを厭わないかもしれない。
こう言う人が本当に大きな会社の社長にでもなったら、今度はその地位に固執する。社長になることが目的であるから、社長の椅子を手放すことは、その人にとっては間違いなく幸福を失うことになる。だから手放さない。
どうしても、社長の座を手放さざるを得ない場合でも、代わりに会長の椅子に座り、今まで以上に権限を振るう。
実際、会長ばかりが目立って、社長の名前が全く世間に出てこない会社もある。この会長の後、この会社はどのような形になっていくのかと思う。
亡くなった評論家の伊藤肇氏は、その著書の中で、「財界においては、実力者ともいわれた連中でも、亡くなった日から逆算して三年間にやったことはすべて失敗である」といっている。それは、地位に連綿とし、判断を過つからである。また、それぐらい長くその地位にいると、必然的に取り巻きの囲いが出来てしまい、耳障りのいい事ばかり伝えられて、本当のことが伝わって来なくなる。これも、判断を過つ原因となる。その頃になると、本人は有頂天だが、冷静な人の目には、その背後に陰りが見えているものである。