(201の鉄則:原理82<設計の原理=優れた設計は優れた設計者が創り出す>)
誰も“悪い設計”などしょうよと思ってはいません。でも、作られたプログラムには、“良い設計”と“悪い設計”を感じることは事実です。気持ち良く読めるプログラムと、前に進まないプログラムがあります。彼らがともに、「設計法」のようなものを習得していない場合、その違いは「感性」のようなものかもしれません。
コンピュータ・ソフトウェアには、どうしても“Art”の性質をもっています。産業化・工業化するために“Engineering”という枠をはめても、“Art”の性質を完全に取り去ることは出来ないし、それは必ずしも適切な行為とはいえません。もちろん、工業製品である以上、独り善がりの“Art”は許されませんが、清潔なプログラムや保守のしやすいプログラムは、必ずしも“Engineering”だけで出来上がるわけではありません。やはり感性豊かな「優れた設計者」「優れたエンジニア」というものが必要になります。
しかしながら、たとえ優れた設計者であっても、好き勝手に設計されたのでは、保守などの際に支障を来すことになります。開発者が最後まで面倒を見るのなら、それでも構わないかもしれませんが、現実問題として、そのようなことはありえないでしょう。そうなると、適切なルールで設計されていることが必要になります。
つまり、優れた設計者であっても、適切な設計手法は必要なのです。むしろ、適切な設計手法に従うことで、優れた設計者の能力が存分に発揮されるということが言えます。残念ながら、この点については、多くのソフトウェア開発現場において誤解されているように思います。
優れた設計者というのは、「優れたもの」を求めるセンスを持っています。少ない時間で結果を出すセンスを持っています。困難に遭遇したときの閃きとか、問題の解決の道筋が見えるようです。プログラムの欠陥(バグ)を追跡する際にも、ソフトウェア・エンジニアとしてのセンスの差によって、原因の究明に費やす時間が大きく変わってきます。「優れていない」エンジニアの場合、時には本当の原因に到達しないで、原因に近いところの現象を、原因と錯覚して間違った対処をしてしまうことがあります。
センスを磨くには、“良いもの”に近づくことです。“良いもの”を躊躇無く取り入れることです。また、“良くないもの”を識別する力も必要になりますが、それも“良いもの”に近づくことで磨かれてきます。“良いプログラム”“良いドキュメント”“良い作業手順”などに近づくことです。
初期教育の段階でも、実際にプログラムを書かせてみると、ある程度その人の持っているセンスというものが見えるときがあります。技術書を読んでも、そこから上手く自分の作業にブレークダウンし、応用できる人もいれば、そこから「自分の作業」に落とせない人もいます。もともと、ある程度のセンスを持っていれば、ちょっとしたヒントでうまく出来るようになるものです。
もっとも、そのような潜在的センスも、開発現場の環境によっては簡単に壊されることがあります。組織としての作業の進め方が悪いと、何度もやり直しの作業が繰り返されることになり、その人のセンスが活かされる場面はなくなります。本来、「3」の時間で結果を出せる人であっても、やり直し作業が何度も出てくるようでは、「6」の時間でしか結果を出せない人と、最終的にはあまり変わらなくなってしまいます。
実際、開発現場で起きていることは、たとえ予定より1週間早く終わっていても、逆に遅れている人の仕様に合わせて作り直すことが、しばしば起きています。本来は遅れている人のI/F仕様を変えるべきであっても、それでは納期に間に合わないため、先に終わっている人の仕様を変え、彼のプログラムの一部を変更することで対処しようというわけです。これを快く思う人はいないでしょう。
結局、そのシステムのI/Fは、優れない人の仕様に合わされてしまうことになり、優れた設計者の能力は、どこにも活かされないという、とんでもないことが起きてしまうのです。こうなっては、優れた設計者の能力は生かされないし、センスは磨かれないことになります。このような混乱した開発現場では、優れた設計者は育たないことになります。
適切な作業の進め方を持っていない開発組織では、持ち前の優れたセンスが花開くことはないし、たとえある程度自己の能力を表に出したとしても、優れた設計者の能力は生かせないということです。当然、そのようなエンジニアは、その組織から辞めていくことになります。特に、労働者市場が形成されれば、そのような優れたエンジニアはますます流動化することでしょう。
組織が、社会に対してその本来の役割を果すためには、それなりの「優れたエンジニア」「優れた設計者」が必要です。そのような人が一人もいないようでは、社会に貢献するためのシナリオが描けないでしょう。
大事なことは、そのような「優れた設計者」が、そこに止まって活躍する場を提供することです。切磋琢磨するためのメンバーを揃えたり、彼らの向上心を刺激するために高い結果を要求したり、その見返りに、更に学習する機会を与えたり、彼らを支援するための、未来の「優れた設計者」を育てる仕組みを用意することです。
最高の引き留め策は、社会に対する貢献を実感出来るようにしながら、彼らの向上心を満たすことです。そのためには、社内での教育プログラムを用意したり、その機会を用意することです。そしてそのような時間を確実に手に入るために、CMMなどによって、プロセスのレベルを上げていくことです。
1998年3月期
▲98年3月決算の上場企業の業績集計が発表されたが、全産業の前年比でー24.5%、非製造業でー51.5%と、まさに惨憺たる状況である。ここにきて一斉に不良債券処理に踏みきったことも大きいが、ほとんど総崩れである。ただし、この統計には金融業は含まれていないから、実際はもっと悪い。
▲このため、東京証券取引所には閑古鳥が鳴いている。4月13日(欧米が休みの日)の出来高は、たったの1億7000万株にすぎない。翌日には4億株弱に戻ったが、これが東証の実態(実力)である。実際、昨年後半から、外国人の投資家の間では、「日本の株は投資対象にならない」ということで、殆ど売りに転じている。円安傾向も、持ち株を手放す要因となっている。まだ彼等の手元には90年以降の買い残が大量に残っているはずである。
▲今、日本の経済構造、政策の決まる仕組みが問われている。企業の経営も市場の評価を受けない。売上とか、利益によって評価を受けていない。組織の中の構造も、市場の評価とは全く無関係に作られている。銀行など、金融業の商品開発能力を見れば良く分かる。ようやく外資系の保険会社が禁煙者用の保険など、きめ細かな商品を用意し始めた。一般の製造業やサービス業も同じである。
▲大蔵官僚を接待しないと新商品が作れない仕組み。他社が新製品を発表しないと決断できない仕組み。収益が出ていないのに、何時までも組織が存在できる仕組み。機動的に動かなければならないときに、決定に数ヶ月もかかってしまう仕組み。何時までも業務に於ける個人の能力を判定するのは難しいと言い訳が通る仕組み。これらが放置されている間は、日本株は投資対象として復活することはないだろう。
我が国でも、ようやく環境ホルモンが問題になりつつあるが、ユーロッパでは、すでに数年前から問題になていて、国によっては厳しい規制が加えられている。それに対して我が国では、僅かにダイオキシンに関して「排出基準」が設けられているだけである。それもヨーロッパの基準で比べれば信じられないほど甘い。焼却場などからこれ以上の量のダイオキシンを出してはいけません、というだけである。しかも、焼却能力の小さい施設は、規制の対象になっていない。その理由は「そこまで把握しきれないから」である。つまり、そのような施設は、簡単に解体できるし、簡単に作れるので、検査しようとしても何処にあるのか分からないというのである。実態が把握できないから規制しないというのは、実に乱暴な話しだ。
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その結果、北関東の一部の町では、住民の流出が続いているという。実際、悪臭などで生活環境が悪化し、ガンの発生率も高いようである。近くに焼却場のある北海道の牛乳もニュースになった。ダイオキシンは脂肪に溶ける性質があり、乳となって出てくる。先頃、幾つかの都市での母乳の調査でも、近くにゴミの焼却場がある地域の母親の母乳から、高い濃度のダイオキシンが検出されたことが公表された。これに対して「母乳は一生飲むわけではないから問題ない」というのが厚生省の説明であるが、人を何と考えているのか。
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欧米では既に明確な基準で規制されているというのに、日本では、「まだ調査中で、因果関係が明らかになっていない」段階という理由で、何の規制もされていない。排出基準だけで、土壌や農作物の含有基準や対応策は全く用意されていない。
最近も、大阪と兵庫で、焼却場の回りの土から信じられないほどのダイオキシンが検出されている。ドイツでは即刻土を入れ換えなければならない基準だ。そんなところで農作物を作ることはもちろん、子供を遊ばせることも許されない。はっきり言うと、人が住んではならない環境ということである。だがこの国では、そこで農作物を作って売ることに何の規制もないし、その牧場でとれた牛乳を売ることに何の規制もない。
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これまでダイオキシンは、他の有害物質と同様に「毒性」という観点から見られてきた。だが最近になって、これも環境ホルモンの一種であることが分かっている。環境ホルモンというのは、体外(周囲の環境)に存在する疑似ホルモンという意味で、「内分泌撹乱作用」が認められている。もう少し詳しく言うと、「ホルモンの体内活動や合成を妨げて、内分泌系がコントロールしている生理作用を破壊」する「疑似ホルモン効果 」と、「レセプターと結びついて、天然ホルモンが正常に反応するのを妨害」する「抗ホルモン効果」の可能性が認められるというのである。本来、ホルモンは、レセプターと結びついてその機能が発揮される。しかしながら、本物のホルモンがレセプターと結びつく前に、環境ホルモンがレセプターを占有してしまうのである。もちろん、このホルモンは偽物であるからホルモン本来の働きはしない。こうして人体はもちろん、いろいろな生物の生存に大きな影響を与えることになる。
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環境ホルモンが、このような働き方をするため、極く少量でも作用するという。報告によると、「エストロゲン様物質というのは、天然のホルモン一般がそうであるように、ごく微量で効果が現れてきます。100万tの水に1ccの物質を入れた濃度で効く」ということです。環境ホルモンは、農薬や化学繊維、プラスチック製品などの合成化合物に含まれていることが分かっている。既に多くの環境ホルモンを含む製品が指摘されていて、ヨーロッパでは、乳幼児の玩具に合成化合物を使わない方向で規制をかけようとしているし、すでに民間レベルでそのような製品を排除しはじめている。
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危険性が高いことが分かっている以上、その因果関係の証明を待っていては被害が広がるばかりである。ここは、「疑わしき」は先ず規制しなければならない。実際の因果関係の研究はそれと並行して進めて行くべきだ。これほどの働きをする物質を、因果関係が明確になるまで放置されては、この国は人が住めない国になってしまう。
だが、明治以来の産業政策(官による産業の育成)の転換が宣言されていない状況では、国民の健康を優先する政策は出てこない。 ■
「愛国心(パトリオティズム)を定義し、役立て、これを保持しているというのは難事ですが、これを持っていないほうがより困難であります。これに身を捧げるのは好ましいことであり、責任のあることです」 ヴァイツゼッカー(前ドイツ大統領)
この国の最大の不幸は「愛国心」を口に出来ないことです。先の太平洋戦争の敗戦を終戦とすり替え、総括を回避し、その原因と再び繰り返さない為の仕組みの構築を怠ったため、「愛国心」という言葉が使えなくなった。いわゆる国の責任で実施する義務教育において、「愛国心」を教えない国は、他に在るのだろうか。もちろん教科書には載っているだろうが、それが正しく定義されているようには思えないし、それをどのように役に立てるべきか、それを保持するために、日々どのような振舞いが必要で、どのような行為によって維持すべきか、ということを正しく教えていないのではないか。敗戦の反省を省いたことで、日本人にとって「国」というものを「透明な存在」にしてしまった。
ヴァイツゼッカーの同じ論文の中で、「根無し草の世界市民では人間としての態度に説得力がありません」といっている。そういえば、日曜日の昼前のテレビ番組や、深夜の番組で、現代の政治や世相を批判する論客諸氏の言葉に、激しさは感じても説得力を感じないのは、彼らの多くは「愛国心」を“臭いもの”として扱っているせいだろう。口角泡を飛ばしても、根無し草の言葉は心を打つことはない。だが彼らは逆に、ブラウン管の前にいる多くの国民を、何も分からない人々として見下ろしている。