[SCだより 101号]

(第19回)

 要求分析段階の目的は、システムの外部の振る舞いを規定することである。この振る舞いは、設計者が権威のある文書としてこの仕様書を使うときに、すべての設計者が同じ結論に達することを保証するほど、十分システム固有のものでなければならない。しかし、それには、ソフトウェアの基本構造やアルゴリズムを規定してはならない。なぜなら、それは設計者の領域であるからだ。設計者は、その後に要求を最適に満たす基本構造とアルゴリズムを選択する。

 もし、要求仕様書作成者が、設計作業に類するようなしなければ外部の振る舞いを厳密に規定することが困難または不可能なことがわかったら(例えば、システムの振る舞いを記述するために有限状態機械を使うような場合)、要求仕様書作成者は、次のようなメッセージを書き加えるべきである。

(201の鉄則:原理46<要求分析の原理=要求分析段階で設計するな>)

 警告:ここに書かれている設計は、製品の外部的な振る舞いの理解を助けるためにだけなされたものである。設計者は、上に述べたシステムの外部的振るまいと同一のやり方で外部的に振る舞う設計であれば、設計者が望むどのような設計を選択し

    てもよい。

― 解  説 ―

 要求仕様書の書き方はとても難しい。だから多くのソフトウェアの開発現場では、“これが我々の要求仕様書です”と胸を張って見せることの出来るようなものは、ほとんど書かれていません。中には「外部仕様書」や「概要設計書」と呼ばれるものと、混乱していることもあります。それは、要求仕様書に何を書けばいいのかという明確な指針が存在しないからでもあります。

CMMのレベル1から2への取り組みに「要求管理」というテーマがあります。CMMの「要求管理」は「Requirement Engineering」とは違うので、要求仕様書の内容がどうあるべきかについては詳しくは触れていません。しかしながら、そこで求めていることは、関係者がこのあとシステムの実現に対して何をすべきかということに、共通の認識が持てるものであることが求められています。

単なる要求と違う

 「要求」というのは、顧客から出される要求であり、それを受けて実現性の裏付けを考慮して、求められているシステムの振るまいを記述したものが「要求仕様書」です。この場合、設計者の目、あるいは開発側の目で書いていることに意味があります。顧客は勝手な要求を発します。でも、それらの要求の中で相互に矛盾していることもあります。あるいは、実際には殆ど意味のない要求もあります。そのようなことに配慮して、実現性、無矛盾性などを満たして、システムがどのような振る舞いをするか、どのような時にどのような事ができればいいのか、といったことをまとめたものが「要求仕様書」です。顧客から見れば、自分の「要求」を言い換えたものであり、設計者から見れば、自分たちが何を設計すればよいのかが分かるものです。異なる立場の人が、ここで「共通の認識」に達することが重要になります。

早く全体を網羅する

 要求仕様書は設計書ではありません。しががって、具体的にその要求をどのような方法で実現するかという点には踏み込まないようにしなければなりません。この後、「設計」という工程で、そのことに踏み込むわけですが、要求仕様書は「要求」を明確に表現することに集中すべきです。そして何よりも早くシステム全体を見渡すことです。一つの要件に立ち止まって、それをどのように実現できるかということに深入りしても、2日後に、別の要求の振る舞いを記述している最中に、2日前に考えた「実現方法」が無駄になる可能性があるのです。それよりもできるだけ早く全体のバランスを取って「要求仕様書」をまとめることの方が重要です。途中で寄り道しなかったことで、要求仕様書が予定より早く、そして上手く表現でき、内容について関係者の同意が得られれば、4日繰り上げて次の「設計」作業に入る方が、途中で「設計」に足を止めるよりは遥かにメリットがあるのです。

作業をミックスしない

 適切な作業の結果として有効な「成果物」を生成するには、作業をある程度「純化」しなければなりません。要求を整理し実現性を確認する行為と、それをどのような方法で実現しようかという「設計」作業が混ざった工程から、いったいどのような成果物が生み出されるでしょうか。ドキュメントは「書くこと」に意義があるのではなく、それがどのような時にどれだけ「利用される」かに意義があるのです。その意味では、最終成果物も同じです。

 もし、設計的要素がいっぱい混ざった「要求仕様書」が書かれたとして、それはどのような形で利用されるでしょうか。いや、時間の制限の中で殆ど最後まで書き終わることなく、いつの間にか中断している可能性の方が高いでしょう。

 さらに、設計書もまともに書かれることなく、早い段階からパソコンに向かってソースプログラムを打ち込んでいく作業の場合、実際には、そのつど要求の分析と設計と実装をミックスしています。もちろん、何処までが分析で何処からが設計か分かりません。そのために全体の作業が長くなり、その中での「分析」に相当する行為が1ヶ月以上にわたることになります。これではシステム全般にわたって統制のとれた分析が出来ないことは云うまでもありません。現に、そのような形で開発している人は、一度書いた部分を何度も書き直すことになります。それはまさに歩きながら作った「要求仕様」そのものが内容が不足していたり、相互の矛盾に気付いたことを意味しています。

一人の作業ゆえに

 多くの開発現場では、要求分析者と設計者が分かれていることは少なく、殆どが自分で要求を分析し、設計する立場にあります。しかも、要求仕様書は実現性やテスト可能性を確認しながらまとめることが求められます。そうなるとこのあと、どっちにしても自分が設計するのだからという気持ちになりやすく、どうしても「設計」の世界に足を踏み入れてしまうのです。でもそれは間違いですし、リワークの種を蒔いていることを理解しなければなりません。それに作業をミックスさせてしまえば、生産性に関するデータを収集することはできなくなり、結局、自分の見積もり能力を高める機会を失うこととなります。


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(第101号分)

整理解雇制の導入

1998年、韓国の選択

▲韓国が、IMFの支援を受ける条件として求められていた「整理解雇制」の導入を決めた。もちろん労働者側はゼネストの構えを見せるなどして反対を表明していたが、韓国経済の現実を前に、受け入れざるを得なかったのだろう。代わりに労働組合の政治活動など、いくつかの要求が認められたようだ。

▲60日前の通告という制限がつくが、これで、企業側は事業の不採算部門を切り離したり、外国資本との合併などに伴う事業の整理がやりやすくなった。言い替えればコスト体質を大きく改善できる外的条件が整ったわけで、これを機に、外国資本が本格的に韓国経済の中に入って行くだろう。

▲これまで日本では、事業を整理縮小しても、そこで働いていた労働者は他部門に回っていた。だがこれでは受け入れた方の部門のコスト体質が悪化し、結局は製品の競争力が低下する。日本の大企業が4兆円も売り上げているのに、営業利益率が3%前後に止まっている一つの原因がここにある。

▲コスト体質が悪くなるだけでなく、そこで働いている人の分担範囲が必要以上に小さくなることで、一人ひとりの能力が低下する危険すらある。その結果、市場に通用しない「技術者」や「専門家」が多く作られることになる。そのことは「山一」でも表面化したし、これから嫌でもその現実を目にすることになるだろう。


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 第84回

“景気回復”という名のたかり


 一向に回復の兆しを見せない景気。5年も6年も適切な対応を怠っている間にアジアの国々もおかしくなった。本来なら日本が経済環境を解放し、アジア各国からの輸入を受け止め、その国々の経済を支える役目を果さなければならないのに、世界の中での役目を放棄し、「公共事業」という名で、自分たちだけの快楽を求めてきた。その結果、今日の世界は日本を見直す動きが出ている。端的に言って、日本という国を買い被り過ぎたという反省が始まっている。自分だけの快楽を求め、国際社会に於ける役割を果そうとしない国、という見方に変わりはじめている

 戦後50年、この国は「官民一体」となって廃虚の中から立ち上がってきた。少なくとも多くの国民はそう思っている。政治家も、企業の経営者も、そして一般の市民(特に年配の人たち)もそう思っている。だが、はたしてそうであろうか。自分たちが真剣に考え模索して、この艱難を切り開いてきたのだろうかと思いたくなる。確かに国民は必死に働いた。時代の追い風も幸いしたが、コスト体質の低さが、国を挙げて一丸となって行動することを支援した。

 一方では、当時急速に接近したソ連から日本を引き離すために、アメリカは自国の広大な市場を提供した。日本の産業を立ち上がらせ、貧困から抜け出すことで、共産主義が広がるのを避けようとした。戦後の復興についてこういう見方も可能である。また、防衛の責務をアメリカに肩代わりしてもらったことで、この国は、全ての資産、資源を有効に投資できたことも幸いした。

 またこの間の循環的不況も、有効需要の喚起というケインズ政策が機能した。いわゆる土木・建築工事を中心とした「公共事業」で立て直してきた。これこそ「景気対策」の原形である。循環のなかで落ちてきた景気の風船を、とにかく下から団扇で煽ぐのである。そうするとまたしばらく風船は浮いている。経済の右肩上りの状態がそれを受け入れてきたとも言える。だがこの方法も、円高不況から平成不況に入ったところで行き詰まった。

 この50年間、日本人は、政府(お上)に頼る習慣を身に付けてしまった。何か困ったことが起きると、すぐに政府に対して「何とかしてくれ!」という合唱が始まる。時には「何とかしろ!」という声になる。「景気対策」という言葉にそのことが凝縮されている。つまり、経済活動のルールや消費が恒常的に回る仕組み、新しく事業を起こすことに対する支援の仕組みなどには手を突けず、とにかく腹が減ったいるのだから、食糧を配給しろと「当座の対策」を求めてしまう。だだをこねれば食べ物が出てくるものだから、国民も癖になっているのかもしれない。だから、「ODA」に於ても、同じ発想しか出てこない。

 街角インタビューでも、何の躊躇もなく「景気対策」が口から出てくる。この事が「たかり」と同じであることに気付いていない。かって、ケネディ大統領の「政府に何を求めるかではなく、国に対して何が出来るかを求めよ」とう言葉を思いだす。今、求められているのは、将にこの姿勢なのである。景気の先行きが不安になると、企業の経営者はもちろん、労働者も一緒になって「景気対策」を求めるが、そこには何の疑念も挟まっていない。当然の要求だと思っているのである。

 国が沈没しないために、我々が出来ることを考え、その中で邪魔になる規制があればそれを撤廃することを求めるべきなのである。法律や規制は、30年も経てば世の中に合わなくなる。だがそのことに声を上げなければ何も変わらない。そこに手を付けない限り、「景気対策」しか方策は見つからなくなる。

 アジアの経済危機に臨んで、世界が日本に求めているのは「内需振興」である。時代にあわない規制を外し、日本国内で新しい産業を興し、需要を回復し、輸入を増やすことを求めている。だが、この国の政府の手にかかると、なぜか「内需振興策」も「公共事業」のカンフル剤にすり替わる。「規制撤廃」の要求も、日本の国境を跨いだ途端に「規制緩和」に置き変わるのと同じように。

 「景気対策」という発想からは、世界が求めている「内需振興」は生まれてこない。たかりの姿勢からは、本当の意味での「内需振興」は実現しない。「景気対策」という考えから、経済改革、ルールの改革という考えに切り替えないかぎり、過去の過ちを繰り返し続けることになる。


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 (第101号分)

「顔を高く上げようとしない若者は、いつしか足元ばかりを眺めて生きるようになるだろう。空高く飛ぼうとしない精神は地べたにはいつくばる運命をたどるだろう」
               ディズレーリー


 今の世の中、右を向いても左を向いても、何だか暗い話題しかない。年配の人は、自分の預金は大丈夫だろうかと、ニュースに敏感になっている。会社に務めている人は、自分の会社は大丈夫だろうか、仕事は続くだろうかと不安で仕方がない。だから赤ちょうちんでは、そのような不安を忘れさせてくれる他愛もない話題に夢中になる。社会に於ける「役割」なんて、遠の昔に何処かに置き忘れてしまったのか。

 そのような大人の姿を見ている若者も、自分の人生の夢を描けないから、どうしても刹那的になってしまう。「学校教育」も、人生の夢を描くのを手伝ってくれない。刹那的になるほど仕事に就けるチャンスを狭めてしまう。そして「どうせ自分なんか・・・」と足元しか見なくなる。

 顔を上げることしない若者は、どうしても「夜行性」になっていく。「夜」は、顔を上げたくない自分を包んでくれるように思えるのだろう。でもそうしているうちに、何時しか地べたに這いつくばる運命を引き寄せてしまう。若者の凶悪犯罪や、弱者を狙った若者の犯罪が多くなっているのも、無関係ではなさそうである。

 顔を上げて、背筋を伸ばして歩こう。その頭の「角度」だけで考えることが違ってくる。足元ばかり見ていては、いい考えは浮かばない。先が見えないと諦めるのではなく、それでも社会の中での役割を見出すために、顔を上げて歩こう。


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