8月7日の日経新聞朝刊の「羅針盤」というコラムに、竹中平蔵氏が、最近のアジアのインターネット人口の増加ぶりについて述べている。その中に、総理府のアンケートの一部を紹介しているが、それを見てがく然とした。そこには
「職業上必要な技能・知識の修得」を自主的に行った人は9.4%に過ぎない。かつこの比率は92年と比べてわずかながら低下した。
と書かれている。あまりにもショックで、何のアンケートか調べてみたが、総理府のサイトからは、見つけることが出来なかった。だからアンケートの前後の質問内容や、サンプル数などは分からない。それにしても、自分で意志を持って勉強している人は、10人に1人しかいないということは、何を意味しておるのだろうか。
一方、竹中氏に拠ると、日本のインターネット普及率は、依然として20%程度だという。パソコンの売れ行きは、毎週伸びているにも関わらず、インターネットの普及率は上がっていかない。その原因としては、繋ぎっぱなしが殆ど普及していないのと、電話料金が高いことにあるのだろうが、それにしても、香港やシンガポールに遅れているし、韓国にも抜かれたのではないかと言うことである。
いったい、毎週売り上げが伸びているパソコンは何に使っているのだろう。
それにしても、どうして勉強しなくなったのだろうか。
21世紀には、多くの人が知識労働者であることが求められる状況にあって、果たしてそれは実現するのだろうか。
92年には、まだインターネットは無かった。電子メールも、殆ど普及していなかった。いや日本では、まだ使われていなかったかもしれない。。バブルがはじけて、これからは「グローバルの時代」だといわれた時期である。超円高への階段を登っていたときで、人々の目は世界(海外旅行)に向かったし、企業も円高に対抗して海外への進出に動いた時期であった。
それに比べて、今日では、インターネットと言うインフラが普及している。本を探すにも、わざわざ本屋に行かなくてもよいし、本屋に置いていないような本でも直ぐに探せる。何よりも、海外の文献を探すのが容易になったし、注文も簡単だ。その気になれば、何でも手に入る。娘も、インターネットで舞台音響に関する文献をサーチして、近くの本屋に注文していた。特殊な本だから本屋に行っても置いていないし、図書館でもなかなか見つからないという。第一、どのような文献があるのかも分からない。それが、前書きと目次まで見えるので、内容についてのおおよその検討はつく。
高校生の妹は、夏休みの自由研究のテーマに「マレーシアのMSCプロジェクト」を選んで、せっせと情報収集をやっている。ほとんどが英語になってしまうので、てこずるかもしれないが、こんなことは、少し前には考えもつかないことだ。
にもかかわらず、大人たちは、自主的に勉強している人が増えていないという。それどころか10%にも満たないという。大雑把に言って、6500万人の労働者のうち、自分の役割や方向を認識して自主的に勉強しているのは、僅かに600万人ということだ。残りの5900万人、いやそのうち現時点で知識労働者であるべき人が60%と見ても、3500万人の人は、ただ会社の命ずるままということになってしまう。おそらく、実際の仕事を前にしながら知識や技樹を身に付けることになるのだろうが、そのような修得方法では十分ではないし、成果を上げにくい。第一、欠けていることに気づかない危険がある。
インターネットがここまで普及した以上、仕事に必要になる前に積極的に必要な知識・技能を修得する人と、殆ど何もしない人との差は、相当大きなものになってしまうだろう。生産性、あるいは作業の効率も数倍から10数倍も開いてしまう可能性もある。それは21世において、まともに仕事につくチャンスを無くすことを意味する。おそらく、今はそのようなことは誰も想像もしていないだろうが。
自主的に勉強している人が、92年と比べて僅かながら減少した理由として、「世代の交代」があるかも知れない。定年を迎えて辞めていった人の方が、新しく社会に出て仕事に就いた人よりも、自主的に勉強した可能性がある。それは電車の中を観察していても感じる。
これも文部省の「ゆとり教育」の影響ではないかと思っている。この10〜20年、義務教育課程に於て授業時間を減らし、宿題を減らす方向へと変わっていった。勉強は学校で済ませてしまい、家ではゆとりを持った生活を、というのであろう。週休2日の提案も、生徒の為なのか、教師の負担を軽くするためなのかは良く分からない。推薦入学が増えたり、高校を義務教育化しようと言うのも、その延長線にあるのだろう。高学年における予習や復習の習慣も、今日ではほとんど消えてしまった。
もちろん、家では別の課題に取り組むのであれば良いのだが、大部分は、塾やゲームに時間を使っている。塾に行くとしても、学校と同じで、そこに出向いて勉強?する形であって、自分の家では殆ど何もしていない。多くの子供たちは、この「形」を身に付けてしまったのではないか。
「ゆとりの時間」の過ごし方について選択肢が用意されていないのが問題なのである。本来は、この時間は、自分の個性を見出すための行動に使うべきなのである。スポーツクラブや科学クラブ、動物や自然に触れる活動、ボランティア活動などに使うべきであった。だが、文部省は「ゆとり教育」を叫ぶだけで、このようなインフラの整備を誘導しなかった。家庭でやれというなら、父親を早く帰す施策を伴わなければならない。
学校で勉強することの意味も、殆ど知らされいない。数学や歴史など、学校で勉強していることなんて、社会では役に立たないと思っている。科目によって思考のスタイルが違うことも、歴史観ぬきで大人になってのある種の判断は出来ないことも、自分を表現することの必要性も教えられていない。何よりも、問題を解決するために、そして問題を見つけ識別するために、新しい知識や技能が必要であり、それには、学生時代と社会人との間に断層はないことも教えられていない。
そうして仕事に就いたとき、「必要な技能や知識は、会社がその機会を与えるべき」ということになる。もちろん、それはある意味では正しい。だが会社は学校とは違う。問題を解決し成果を通じて社会に貢献しなければならない。会社が与える事の出来る学習の機会は、必要最小限に近いものにならざるをえないし、もう一つは、個人では対応しきれないような高いレベルの教育である。それは誰にでも与えられる機会ではない。教育への投下コストに対して、ある程度準備ができていて妥当な成果の上がる人を対象にするしかない。基本的に、会社の活動は福祉事業ではない。競争を通じて社会に貢献することを目的とした組織である。現実問題として、会社が実施する教育の機会だけでは、内容は不足だし、分野によっては、ほとんど間に合わないかも知れない。
あるいは、多くの人は、もう走ることに疲れてしまったのかもしれない。考えたくもないことだが、“とても付いていけない”といって、走るのを諦めたのだろうか。これまで、特別に走るための技術的な訓練もそこそこに、ひたすら走ることを求められてきたかもしれない。それでも給料が増えるのなら、我慢して走りもしたが、この5年ぐらいは、同じような仕事をしている限り、殆ど賃金は増えていないものと思われる。以前は、年功序列に不満を感じたはずなのに、いつの間にか、「年功の良さ」みたいなものに身を寄せたい気持ちになっていないだろうか。
そして、時代が変化するスピードに対して、恨めしく思っていないだろうか。変化が「早すぎる」と愚痴をこぼしていないだろうか。ソフトウェアの世界でも、ちょっと「よそ見」をしている間に、ずいぶんと耳に新しい言葉が飛び交ってしまう。それがあんまり多かったり、本屋に行っても、関連の本が一杯並んでいて、どれから手を付ければ良いのか分からなくなって、そのまま帰ってきてしまうようなことになってしまう。
だが、この変化のスピードは、EUの活動が機能し始め、アジアが立ち上がり出すと、もっと早くなってしまう。大きな戦争でも起きないかぎり、このスピードは止まらない。今からコンスタントに走っておかないと、いざ走ろうと思っても「走る形」を失ってしまっていては走れない。上を見過ぎる必要はないが、自分との「接点」を探して、そこから着実に手をつけていかなければ。
それにしてもなぜこうも弱くなったのか。仕事に就いてから、自主的に勉強しない人がこんなにも増えたのだろうか。資本主義は、「デモクラシー(民主主義とは訳さない)」を前提としている。デモクラシーとは、「より優れた者が優遇される仕組み」であり、「優勝劣敗」あるいは「適者生存」の考えに繋がるものであり、当然、そこには競争が存在する。だから「多数決」はデモクラシーの一つの表現なのである。そしてハイエクが「競争を通じてより多くの人や社会に恩恵をもたらす組織や体制が生き残る」と言って、当時のソ連を批判したのも、「デモクラシー」の機能性を見抜いていた、あるいは、それが自然界の仕組みだったからであろう。
だが、10%に満たない人しか自主的に勉強していないとすれば、果たしてそこに「競争」が存在しているか疑わしい。組織の中にいる個と個が競わないかぎり、「競う組織」にはならない。内部で、適切な競争を促すような評価の仕組みを持ち込まないかぎり、組織は残らない。それがハイエクのいう「適者生存」である。もっとも、デモクラシーには、「救済の原則」という仕掛けを持ち込んで、「適者生存」の弊害をカバーする方法もとっている。それは歴史のなかから人間が学んだ叡知である。
我が国では、あまりにも長く「民主主義=結果平等」という考えに浸り、地域コミュニティ(の一部)を会社という組織が代行してきた。往復4時間を費やしてでも会社に出社さえすれば良かった。そして、次にどのような技術を身に付けるかも会社に任せてきた。このように、これまで我が国の通ってきた道は、良く考えると「社会主義」そのものではないかと思われる。「サラリーマン」あるいは「会社員」という呼称は、「職」を表わしたものではなく、所属を表わしたものである。
つまり、私たち日本人は、戦後50年間、資本主義という看板とは関係なく、実際は、社会主義の仕組みの中に置かれてきたと言ってもいいだろう。そのため、ここにきて競争を主体としたデモクラシー的な活動が強く求められたとき、ぼう然として立ちすくんでしまった。10年前、ペレストロイカによってソ連にデモクラシーを持ち込もうとしたが、70年間、非競争の中に身を置いた人たちも企業(?)も、それに対応できなかった。そしてあれから10年経った今、なんの問題もなく存在できた過去を懐かしむ人たちが勢いを盛り返し始めた。旧ソ連に対しては、世界は事情を察し、無理もないかと同情した。だが、日本に対しては、西側世界は理解できないでいる。なぜ、10年経っても立ち上がらないのかと。日本は、自分たちと同じ資本主義の国と思っているから、転換ができないことが理解できない。株式市場に見える外国資本の戸惑いがそれを物語っている。
一方で、その国のなかに居る人々は、政府に対して、ただ「景気を良くして欲しい」というだけで、デモクラシーの障害になっている仕組みや制度を外せとは言わない。それどころか、何をするにも、中央の役所(官庁)に依存している。ヒトゲノムの解読も、それで遅れをとったし、ポストゲノムも中央官庁が地ならしをしている。1年半もゼロ金利の状態を続けてみても、そこから何も起こらない。揚げ句は、解除の動きに対して、まだ治癒していないと騒ぎだす。政府の閣議決定も、政党の政策責任者が簡単にひっくり返してしまう。これが社会主義的発想でなくて、いったい何なんだ。
会社という組織の中で、対立する意見を発しようものなら、「敵」のらく印を押されてしまい、報復すら受ける。これが日本の組織の特徴だ。競争とは、意見や主張の対立でもあるのだから、それを抹殺してしまっては、組織の中で競争は存在しなくなる。
「失われた10年」とは、長く社会主義的社会に身を置いてきた人たちが、ここに来て急にデモクラシー的な行動を求められても、何をすれば良いのか、どうすれば良いのか分からなくて躓いていた期間ということもできる。
だがこの国は紛れもなく「資本主義」の国として世界に存在している。表向きの制度も、一応それに近いものとなっているし、WTOにも加盟している。当然、同じように資本主義を標榜する国々との間で、経済的な競争が生じる。為替は国の状態に応じたハンディとして調整役を演じていて、国力の差を調整する。だが、1ドル=100円という状態は、ほとんどハンディのない状態でもある。つまり、日本は、“シングルプレーヤー”ということで、実力で競争できるはずだということである。実際、労働者の賃金も、ドルに直せばそのことが良く分かる。いや、もしかしたら、その実力や役割に対して高すぎるかも知れないぐらいである。
現実問題として僅かに10%に満たない人しか、自主的に勉強していないとすれば、そのメッキは直ぐに剥げてしまう。実際、最近の我が国は、ロケットは飛ばなくなったし、震度4程度で原子力発電所の内部の細管が破断する。濃縮ウランの生成を手作業でやるという“離れ業”までやってしまう。最新の品質保証のシステムを導入しているはずの牛乳に黄色ブドウ球菌が混入し、カビのはえたパンはあちこちで発生し回収に走り回っている。その上、ハエの入った缶詰めやレトルト食品まで出回る始末である。これはいったいどういうことなのか。
そこに居る人たちは、一体、毎日何をしているのかと疑いたくなってくる。新しい技術や知識を追うことを止めた人たちが、ただ毎日「勤務」しているだけの状態ではないのか。見に映ったはずの「変化」や「異常」も、それを解釈する思考が止まっていれば、適切な判断も対応もなされない。
かって、旧ソ連時代に、ブーツの“踵”がつま先についていたり、箱の中には、右足が2個入っていたりしたという。そこでは、割り当てられた生産量を生産するだけ、すなわち、そこにある部品を消化することだけが求められた結果である。過去のこのニュースと、今回の一連の出来事が、私の頭の中でだぶっている。
21世紀は、日本の労働者のほとんどが、知識労働者であることが求められる。それだけの賃金を取っている以上、仕事にもそれなりの付加価値をつけなければならない。一定水準以上の成果を上げるには、それなりの知識や技術が必要である。もちろん、最低限、あるいは業務上必須な教育は、会社の方でも実施するだろうが、それだけでは簡単には成果は上がらない。各自が、工夫し期待する成果を出す方歩を考え出す必要がある。そうした方法が、他の人達へも適応されるのであって、誰かが先行しなければならない。社員の教育の実施方法や浸透の度合いを判断するにも、工夫しなければならない。本に書いてある通りには行かないのである。教える人も、自分の役目は、セミナーを実施するだけだと言うわけにはいかない。受講者の状態に合わせて、教え方も工夫が必要であり、そのために必要な知識や技能は、自ら追い求めなければならない。
多くの人が、「職業上必要な技能・知識」を自主的に、そして競うように修得していかないと、21世紀の日本は住みよい社会にはならないのである。