「出来るかどうか」から「どうやってやるか」へ

これは少し前に気付いたことですが、新しい提案や取り組み、顧客からの要請などに対して、その対応を協議するための会議の場で行われている議論が、「出来ない理由」の言い合いになっているとことが多いことです。そのことに4時間も5時間も費やして、結局、“出来ない”ということで今まで通りとなるか、その場の雰囲気が“出来ない”といえる状況ではなく、やむなく“そのように努力する”あるいは“やる”ということで決着するのですが、その場合でも、実はどうやって取り組めばいいのか分からないまま終わってしまい、席に戻れば、頭の中は再び“出来ない理由”が湧き出してくるのです。

たとえ、“やる”ということになっても、後で出来ない理由はいくらでも並べることが出来ます。そして最終的に“出来なかった”という状態にもっていくことは簡単なことです。それは・・・やらなきゃいいのですから。それに、どうせ他に誰もやれないのだし・・・
でも、本当にこの姿勢でいいのでしょうか?
エンジニアは、本来は出来ないことに挑戦する人の筈です。出来ることばかりやっていては、エンジニアとは言えないでしょう。

東海道新幹線の産みの親である島安次郎氏の言葉に、

  『出来ない』と言うことの方が、
      『出来る』ということより難しい。
  『出来ない』と言うには、
      全ての可能性を検証しなければならないが、
  『出来る』と言うのは、
      その内の一つの可能性があればよい。

というのがあります。
何とも「技術者魂」を感じさせる言葉ではありませんか。
もっとも、この『出来る』には『出来そうだ』も含まれますが、それにしても、この言葉は真実です。

▲中高年者のリストラの背景▲

バブルの終焉のあとに始まった中高年労働者に対するリストラが、今もゆっくりと進行しています。ニュースにならないだけです。

たしかに今の中高年者といえば団塊の世代で、人口ピラミッドで見ても、異常な膨らみではあります。そして、人口の多さがリストラの一つの要因にはなっているのですが、もし、それだけの理由であれば、そのような企業に何の未来も見い出せないのは言うまでもありません(さっさと辞めましょう!)。中にはそのような企業もあるでしょうが、むしろ新しい時代への対応の問題と考えるべきです。

本来、彼等には「経験」という絶大な武器があったはすなのですが、その経験が必ずしも時代の要請にあわないのと、その足りない分をカバーするスキルが不足しているのです。

団塊の世代は、右肩上がりの経済を背景に、細かく区切られた分担の中で仕事をしてきました。その間、彼等は決してサボッタて来たわけではありません。それどころか家庭を犠牲にし、社会人としての役割も放棄し、会社人間一本で30年間過ごしてきたのです。そのような彼等にしてみれば“裏切られた”という思い以外には浮かんでこないでしょう。

この間、彼等は「決定する」ことを忘れてきました。「決定」は、何時も会議の場で“皆の意見?”で決めてきたのです。“皆が言うから”そうしてきたのです。

案件も、「稟議書」とかいって下から上がってくる案件を待っていればよかったし、それを催促すればよかった。その案件もどれだけ新規性や現実性を兼ね備えたものであったか怪しい。大方、競合他社の取り組みをヒントにしたものであったのだから。だって、そうでないと役員の決済が下りなかったこともあったでしょう。

また、やったことのないことに取り組む方法も手に入れてきませんでした。誰でも初めてのことに取り組むのは難しい。だが、出来ない訳ではない。それなら今の文明は存在しません。誰かが“初めてのこと”に取り組んだから「今日」があるのです。

新しいことに取り組むには「取り組み方」があります。その“スタイル”を身に付けなければ、「やったことのあること」「できそうなこと」そして「人のやったこと」しか手を付けられなくなります。逆にそれしかやってこなかったら、新しいことに取り組めなくなったのです。どこから手を付けるべきか、そのシナリオが書けないのです。それが中高年リストラの一つの背景でもあります。

一体、今日求められているものは何なのか? ・・・今さら言うまでもないでしょう。
そして、このことは決して”今の”中高年者の問題というだけではないのです。少なくとも今後50年は、今求められているものがベースになるでしょう。そして、今、中高年者に求められているスキルは、彼等団塊の世代がこれに応えなければ、21世紀に入る頃には、5年ほど若い人たちにそのままスライドして求めてくるでしょう。
その時、あなたは応えられますか?

▲思考回路の障害▲

私たちは、これまで「学校」という場で教わってきたことは全て“答えのあること”です。誰かが考えたことであったり、答えがあることが分かっていること(少なくとも教師には)を教えられてきました。成績の差は、意地悪くいえばそれをどれだけ復唱出来るかということの差でもあります。

たしかに、新しいことを考えたり、見つけ出すには、そのベースとなる知識が必要です。だが「学校」と言う場で、“その先”を求められた人が一体何人居るでしょうか。グループによる自由研究や研究論文をどれだけ書いてきたでしょうか。そこに考えた結果としての自らの意見や所見を、どれだけ展開してきたでしょうか。

厳しい言い方になりますが、あなたたちはこれまで記憶回路は盛んに働かせて来たでしょうが、思考回路は殆ど働かせてこなかったのではありませんか?

その証拠に、これまで「考えて下さい」という要求に対して「分かりません」という返事を何回使いましたか? 本来、「考える」行為の結果として「分かりません」と言う答えは、考えるための情報が余りにも乏しく、とても考えるという行為に耐えられないときの応答であって、「こういうことでしょうか」と不完全であっても「考えた結果」が出てこなければなりません。(このことについては別の項「考えることについて」で触れることにしますので、興味のある方はそちらを参照してください)

考えて見てください。今、求められているのは何ですか? 中高年の方たちが、それに答えられなかったのは何ですか?

会議の場で並べられた「出来ない理由」は、必ずしも考えた結果の産物とは限りません。その多くは、過去の体験のストックから若干の整理を伴って“思い付いた”ものです。外から電気信号を加えたことで、反対側から反射的に飛び出してきたものです。

このページを読んで、腹を立てている人もいるでしょう。反対に我に返った思いで読んでくれている人もいるでしょう。どっちでもいいから「考え」て下さい。自分の手の中にある案件を「どうすれば出来るか」考えて下さい。

「出来るかどうか」のスタンスから「どうすればできるのか」のスタンスに移ってください。「今」そしてこれから求められるのは、そのスタンスなのですから。

(補足:「出来るかどうか」というスタンスの後ろには「出来ない理由を並べる」という姿勢が見え隠れしているのです。少なくも表立っては「出来ない」スタンスには立っていないだけです)

▲「出来ない理由」をもう一歩進める▲

此処まで来て、「どうすれば出来るか」のスタンスに立つことの必要性は頭では分かっても、どうしても「出来ない理由」が浮かんでくるでしょう。身体に染み着いた思考パターンは、簡単には抜けるものではありません。短くても3ヵ月ぐらいは掛かると思ってください。

「出来ない理由」は、ある意味では踏切の警報機の様なものです。警報機は、このまま(=今までのやり方のまま)進めば電車と衝突することを教えてくれているのです。現に、いままで何度も衝突してきたのですから、この「出来ない理由」は一面では真実でもあるのです。

この時、これまでの「出来るかどうか」のスタンスでは、“危ないから家から一歩も出ない”という結論を導き出してしまいます。そのまま進めば衝突するという警報機が鳴っているのですから、そのまま進まなければいいだけです。折角警報機が鳴ってくれているのですから、それを避けるだけでいいのです。

「とてもそれをやれる時間がありません」というとき、3つの選択があります。
 1)仕方がないから今回は見送るという選択
 2)「では、どうすればその時間の中でできるのか」という選択
 3)「その時間のなかで出来ることは何か」という選択

「出来るかどうか」のスタンスでは1)が選ばれるでしょう。それに対して、一歩でも進めようというのが3)の選択です。これも比較的分かりやすいでしょう。
問題は2)です。「とてもそれをやれる時間がありません」というときの“やり方”は「今までのやり方」を前提としています。その結果として“とてもその時間では出来ない”というのです。これに対して2)の方は、時間は変えられないからやり方を考えようというのです。この違いを是非分かっていただきたい。固定している部分と浮動にしているものが、ちょうど逆になっていることに気付いて欲しいのです。
その結果として3)の選択に至るかもしれませんが、それも「程度」の問題です。
でも此処まで来て、初めて「出来るかどうか」のスタンスを脱するきっかけを手に入れることが出来るのです。

1)の選択の意味するところは、うまく行っても今までと同じ様な結果しか得られないということです。実際には、要求そのものが厳しくなっていたりして、結果は前回より悪くなるのが普通です。だからここで大事なことは、半歩でも進めるということです。それには

 ・「出来ない理由」を浮かべないか
 ・浮かんでしまった「出来ない理由」をうまく活かす

ことです。

▲新しいことへの不安▲

ここまで読み進んできても、それでは一歩を踏み出すことが出来るかというと、やはり踏切台の前で止まってしまうかも知れません。乗馬の競技で、障害を前にして、馬が急に前足を突っ張ってしまうような心境かも知れませんね。(当然、騎手は振り落とされます)

私は馬に乗ったことはありませんが、騎手の脳裏を掠めた一瞬の(跳べるかどうかという)不安が、コンマ何秒の差で馬を止めてしまうと言います。

新しいことへの挑戦には、何時もこれと同じことが起きるのです。新しい設計手法を取り入れようというとき。“開発期間を半分に”という取り組み。“バグを10件以内に”という取り組み、などを目の前にしたときも、障害を前にして足がすくむのです。

ここでいう、「出来るかどうか」のスタンスから「どうすればできるか」のスタンスへの移行も、新しいことの挑戦である以上、同じ様な戸惑いが生じることは避けられません。

「出来るかどうか」の問題は、その人の内面のプロセスに関わる問題であるだけにトレーニングが必要になります。それは馬が障害を跳び越えるのにトレーニングが必要なのと同じことです(この場合、騎手と一体でトレーニングが必要)。今までの思考プロセスを遮断して、新しい思考プロセスを作動させる為には「習慣」が必要であり、さらに習慣化するための「工夫」が必要です。

「工夫」は、(水が流れていない)新しい川に水を流すのと似ています。新しい川に水を流すには、今まで流れていた川を堰止めなければなりません。というよりも、それだけでいいのです。決して元の川には水を流さないぞという強い「意思」と、それを支援する「工夫」があればいいのです。

しかしながら、多くの人は、“もうちょと”というところで我慢仕切れずにこの堰を緩めてしまいます。新しい川には、堰止めた量(時間)に比例して流れる訳ではありません。堰止めた量がある「レベル」を越えなければ、新しい川には流れ出さないのです。

そして厄介なことに、一度緩めた後で、再度堰止めに挑戦するには前回以上の「重り」を堰の上に乗せなければなりません。
それは、
 1)緩める言い訳を少なくとも一つ手にいれていることと、
 2)緩める理由を考え付く(思い付く)頭の回路ができ上がったこと
が理由です。

この(流れを堰止める)工夫を定着させ、安定的に水流をコントロール出来るようになるまでは、誰かの支援が必要かもしれません。それでも、本人が習慣化するという強い意思がなければ、支援者にはどうすることも出来ないことはいうまでもありません。

大事なことは、「自分にも出来るはずだ」と思うことです。他に出来ている人がいるのだから、あなたにも出来るはずなのです。ただし、3ヵ月は意識(今までの水路を堰止めるという意識)を持続させてください。3ヵ月持続すれば、新しいスタイルが習慣化してくれる可能性があります。それにそれだけの期間、新しい川に水を流していれば一つのプロジェクトとして成立するでしょう。

この「工夫」は、今流でいえば、能の中に「βエンドルフィン」を湧き出させる工夫ということもできます。この物質は、ネガティブな言葉を浮かべると出てきません。前向きの姿勢、挑戦する姿勢の時に多く湧き出てくることが証明されています。
この力を借りるのです。

あなたにも出来るはずです。やろうとするかどうかだけです。
少なくとも、今居るところ(「出来るかどうか」というところ)に居続けては、明日はないのですから。

釈尊の言葉に、
   「汝自らを燈火とし、汝自らを拠り所とせよ」
というのがあります。
いつの時代でも同じだと思います。
大事なときに自分の人生を人に預けてしまう事だけは止しましょう。

そうならないように、日頃の“習慣”が大事です。
  「人生は習慣の織物である」 ― アンリ・F・アミエル


「Index of SE の為の講座」へもどる