「あなたは、市場価値がありますか?」
こう質問されたとき、あなたはどう答えますか?
「あると思う」と答えられますか?
それとも「自信ありません」と答えますか?
それとも、黙ってしまいますか?
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人間を「商品」のように扱うことには、幾らかの抵抗を感じますが、それでも、経済活動を行っている限りは「生産性」の尺度で判断されることは避けられません。また、それは必ずしも「悪」とは限りません。いやむしろ、社会の「お荷物」を存在させないという意味で、それは「善」ですらあるのです。その意味でも、「生産性の悪い企業は、社会に存在し続ける合理的な理由はない」というP.ドラッガーの言葉は真実でもあるのです。要するに、「あなたは今の世の中に通用しますか?」ということです。それを「Market Value =市場価値」と呼ぶわけです。
「市場価値」と呼ぶとき、それは必ずしもソフトウェア・エンジニアに限定したものではありません。経営者を含めて、あらゆる職種に対して適用されます。別のページにも書きましたが、電気技師やおそらくボイラー技師にも、世界基準に基づいた「市場価値」の基準が存在し、時代と共に変化していくのです。そのほか、もちろん「製品」に対しても「市場価値」という概念は適用されます。
最近の相次ぐ金融機関を含む大手企業の破綻も、上のドラッガーの言葉を証明していると言うことも出来ます。必要以上に人を抱え込んでしまい、各自にコンピュータ(PC)は配分されてはいても、作業そのものは旧来のままでは何の効果もなく、却ってコスト構造を悪くしてしまいます。実際に都内の大手銀行の建物の裏に自転車が何台か置いてあって、行員がそれに乗って他の銀行に伝票を持って走る姿には、日本にいる外国銀行の関係者には、全く理解できない光景です。コンピュータが何の役にも立っていないのです。これでは人件費は減らず、却ってコストアップになるだけです。先日も、オフィス街を歩いていると、1枚のFDを持った中年の人が信号を渡っていました。恐らく少し離れたビルに分散したオフィスから、必要なデータをもらってきたのでしょう。
今までは、全ての銀行が同じような「自転車通信」をやっていたので、格差がつかなかったのでしょうが、今日では、外国銀行や外国資本の証券会社が日本の市場に参入しており、その結果、コストの格差が誰の目にも見えるようになっています。我が国でシティバンクが口火を切った「テレフォン・バンキング」も、邦銀各社が後を追うように体制を整えているようですが、恐らく、日本の銀行はそのままコスト構造の悪化に拍車をかけることになるでしょう。
生産性が悪いまま組織を長く存続させたことによって、そこに居る人たちも、高い生産性を発揮する技術やスキルを身に付けることができないままになっているのです。その組織のなかでは存在できたかもしれませんが、「市場価値」を身に付けていない可能性があるのです。
逆に、市場価値を持たない人によって構成された組織や企業は、当然の結果として、生産性は上がらず、組織、企業としては存続できる条件が厳しくなります。そのような組織では、どうしても「その日暮らし」的になり、必要な技術を身に付けるための時間も確保するのが難しくなってきます。そうなると、ますます市場価値に遠くなってしまうという「悪循環」に陥るわけです。
大事なことは、時代がどのような働きを求めているのかということを認識することです。周りを見てもだめです。世界を見なければ何の役にも立ちません。経済がグローバル化し、世界が「市場」となった今日、周りの同業者の動きを見ていても参考にはならないのです。その同業者が世界を見ているのなら、まだ役に立つかもしれませんが、同じように周りを見ているとすれば、お互いに隣りをみて安心するという結果になることは容易に想像できます。今日まで、この国はまさにこのパターンを繰り返してきたわけです。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という心境は、まさにこの状態なのです。
この国は、ソフトウェアの開発現場にあっても人数を投入することで、問題の解決を図ってきました。最初のうちは、それでも解決できたのかもしれませんが、人件費が世界のレベルに達した時点で、その方法は通用しないのです。その結果、今日では、一人のソフトウェア・エンジニアの守備範囲は異常に狭く、技術レベルも全く上がっていません。手に余れば人を投入して作業を分担してきたのですから。そして1度分担を小さくすれば、容易には分担を元に戻せなくなります。
また、自分より上手な人のプログラムを研究することもしないため、取り敢えず“動くプログラム”が書ければ、3年、5年とそのままの状態で推移します。組織も、何故だかそれで良しとしているようで、そのような組織にあっては、エンジニアやマネージャーは、それぞれの市場価値を身に付けることは殆ど不可能といえます。何てことはない。思慮の浅さから、組織がそこにいる人たちの市場価値をどんどん失わせてきたのです。
少なくとも、ソフトウェアの世界で、今後も活躍しようと思うのなら、レベルの高い雑誌を読み、レベルの高い人と接触し、そこから自分にないものを貪欲に吸収するという姿勢が必要です。特に英語の雑誌や文献を読むことです。「American Programmer」とか「DDJ」などの雑誌は有効でしょう。そのような行動を続けることによって、ようやく自らを「市場価値」を持つレベルに引き上げることができるのです。もちろん、組織がこれを支援することが望ましいことは云うまでもありませんが、それでも個人が「自立的」に行動することは必要です。
「人の運の善し悪しは、時代に合わせて行動できるか否かにかかっている」というマキアヴェリの言葉は、何時の時代であっても生きているのです。
今現在、その組織に存在しているということは、少なくとも、その組織に於ては「何らかの役割」を果していると言うことは確かです。しかしながらその場合、「相対的な関係」において存在しているという場合が殆どです。つまり、Aさんが「或る役割」を受け持っていることで、Bさんは「今の役割」で済んでいるということです。では、Bさんの受け持っている「役割」の範囲は適切なのかというと、それを判断する基準は、大抵の場合、その組織には存在しません。これがまた、日本中で同じようなことをやっているため、同業者を見ても、あまり違和感を感じないのです。
「大手企業の30代から40代の中堅社員約120人を“値付け”してみたら、半分以上の人は5段階評価で下から2番目」という記事が、最近の日経新聞に載っていました。簡単に言ってしまえば、彼らは「半分」の役割しかこなせていないということです。つまり、この国は、「グローバル・スタンダード」の尺度で見たとき、1人でやるべき仕事を2人でやっているのです。それが現実なのです。
したがって、できるだけ早い時期に、2人分の仕事をこなすための工夫が求められます。もちろん、“2倍”ともなれば力任せにできることではありません。机の上に乗っているコンピュータをフルに活用する必要があります。それも、単に手作業を置換えたのでは意味がありません。つまり、手作業の時代の作業の流れをそのまま持ち込んだのでは意味がないのです。コンピュータを使ったからこそ実現する方法を考えなくてはなりません。
ここでちょっと視点を変えて、いわゆる「新規参入」がどのようにして起きるかということに触れてみたいと思います。新しい製品を開発したとき、販売価格の決め方に、大雑把に2通りあります。
一つは、競争相手が出現するまでの間、価格を高めに設定して先行者利益を確保し、競争相手が現れたら価格を下げて対抗する方法です(この方法には副作用が伴うのですが、そのことはここでは省略します)。もう一つは、最初から価格を低くして競争相手の出現を諦めさせる方法です。いずれも、新規参入の決め手の大きな要素は「価格」なのです。つまり、作る側から言えば「生産性」です。もちろんこの他に「機能」や「性能」も関係することは云うまでもありませんが、同じようなものが作れるとすれば、後は「価格」と「タイムリー性」が作用します。
生産性が悪ければ、価格を低く設定できません。そうなると、それよりも高い生産性を実現できる企業が新規に参入してきます。たとえ市場が、その時点で既に飽和状態であっても、その価格が高すぎる場合は、新規の参入を招き、それまで有していた市場を明け渡すことになります。
一般的な表現を使うと、「市場」というものがあれば、そこでは「新規参入」のメカニズムが働くのです。したがって、労働者や技術者にも「市場」というものが形成されると、同じようにそこにも「新規参入」のメカニズムが働きます。つまり、現在そこに居るのエンジニアの2人分のコストに対して7割のコストで同じ仕事が出来る人がいれば、その存在を明け渡すことになります。これが市場原理です。
「市場価値」は、このような市場原理と密接につながっています。人間だからといって別扱いされることはないのです。その証拠に、組織を構成しているエンジニアが、すべて一人ひとりが別々の派遣会社から派遣されているとすれば、このメカニズムが働くことは容易に想像できるでしょう。もちろん、派遣社員の場合と、全く同じ程度にこのメカニズムが働くわけではありません。労働協約の問題とか、人間ですから心や感情の繋がり等も作用します。しかしながら、それらの要素は、このメカニズムが作用するのを遅らせたりするだけで、作用させないようにする力はありません。そのために、コスト体質を悪化させてしまえば、製品そのものが市場から駆逐されることになるからです。
紀野一義氏の言葉に「人間、ぬくぬくし始めると、ろくな事はせぬ。追いつめられると、竜が玉を吐くように、いのちを吐く」というのがあります。
ソフトウェア・エンジニアだけでなく、日本の労働者の殆どは「ぬくぬく」しすぎました。そのため生産性やコストに対する感覚をほとんど身に付けていません。やらなければならないことに対して、そのやり方を問われなかったのです。だから、何度もやり直しても平気でいる。
ちょうど、ソフトウェア製品の開発に当たって、必要な「機能」の実現にばかり気を取られて、性能や品質、さらにはそれを実現するためのコストの面が疎かになっているのと良く似ています。というより、日常の「認識」が、そこに現れてしまったと言う方が正しいのでしょう。自分の行動において、普段から市場価値を意識していないのですから、製品の開発に当たってもその機能を実現する事しか考え付かないでしょう。
その証拠に、殆どのソフトウェアの開発現場においては、「機能仕様書」は存在しても、「要求仕様書」は存在していません。私がコンサルティングに出向いた先で「要求仕様書」が作られていたところはありません。誰も、「機能」にばかり目がいって、「要求仕様書」の必要性に気づかないのです。その結果、「コスト」や「生産性」が無視されてきました。そうした体質を、殆どの人は長年の時間の中で身に付けてしまい、「市場価値」を低下させ、あるいは失ってしまっているのです。
1)「機能」に関係する技術を確実に習得する
2)「機能」をうまく実現するための開発技術(技法)を身に付ける
まずはこの2つに当てはまる技術・技法を、ある時間(期間)の中で手に入れることです。そうして次に、
3)自分の守備範囲を2倍にする
ことを達成するために、自分の仕事の品質や生産性を見直すことです。これまで「ぬくぬく」してきた人には、相当キツイと思います。でもその「慣習」を抜いてしまわない限り、内に秘めた能力(=玉)は発揮されません。
人間には素晴らしい能力が秘めています。多くの人は自分に「秘めた能力」があることに気付いていないのです。いや、これまでそれを引き出す場面を作ってこなかったのです。そこに自らを追い詰めたとき、これまでの泥を吐きだし、続いて玉を吐きだすのです。
西郷南州の遺訓の中に「己を愛するは善からぬことの第一也。修業の出来ぬも、事の成らぬも、過ちを改むることの出来ぬも、功にほこり驕慢の生ずるも、皆な自ら愛するが為なれば、決して己を愛せぬもの也」と言うのがあります。妙なところで、自分を弛めてしまったら、生涯、市場価値は手に入らないでしょう。
市場価値は、絶対固定なものではありません。時代の要請と、実現できる状況とのバランスから「基準値」が決まります。その意味からも、市場価値を持っているかどうかの評価は市場が下します。したがって、「こんなもんでいいだろう」という所はないと言えるでしょう。常に、技術を深め、守備範囲を広げていく必要があります。
それだけに、「市場の要請」を敏感に、そして早めにキャッチしなければなりません。そうして新しい技術や技法を、周りの人より早く習得していくことです。もちろん、我々は「学生」ではありませんので、習得するだけでは意味がありません。それを上手く使って、仕事の効率(生産性)を上げなければなりません。
自分が市場価値を持っているかという判断は市場が下すと言われても困るという人は、一つの判断基準を提供しましょう。それは、自分が関わった仕事、あるいは自分の分担した部分が、予定通り、約束通りに実現しているかどうかです。スケジュールも、そこに求められている機能も、「約束どおり」に出来たかどうかです。
但し、この判断基準には一つの欠点があります。それは「コスト」が見えない可能性があることです。つまり、自分に課せられた分担の範囲が狭いとき、「約束どおり」出来てしまうことがあります。したがって、その期間の中で生成した成果物や納入物の生産性を測っておくことです。基準時間に対してページ数や行数が確実に増えていることを確認して下さい。また、基準値に対してバグの数が減少していることを確認して下さい。これらは、組織が要求しなくても、自分でやるべきなのです。自分(一人)でやることに何の問題もないはずなのです。
機能の実現を外してしまったり、納期を遅らせてしまうようでは、市場価値を持っていない可能性があります。勿論、そのような結果に至った「外的」要因、あるいは「不可抗力」と言いたくなる要因はいくつもあるでしょう。でも、そのようなものが一つも存在しない状況というものはありません。だからこそ「リスク・マネージメント」というものがあるわけです。失敗に繋がるような要因を事前に認識し、それに対処する方法(技法)はあるのですから、それを習得すればいいのです。それでも、完全には防げないかも知れませんが、結果は「許容範囲」の中に収まるものです。
そしてもう一つ。技術や開発に関する技能が、2年前には手に入っていなかったことが手に入って、実際に使っているものが幾つかあるかどうかです。「2年前」というのは、必ずしも定まったものではありませんが、多くの人にとって、「1年前」では現実的ではありません。かといって「3年」では不安です。
こうした幾つかの判断基準を用いることで、自分で「市場価値」を持っているかどうかをある程度見ることが出来ますが、あくまでも、本来は「評価は市場が下す」ものであることには変わりはありませんので、勘違いしないようにして下さい。