今日のこの国の閉塞状況は、生産性を高めることを怠ったところから始まっています。確かに、製造業の現場は生産性を高める努力を続けてきました。その結果、製造業(の製造部門)は、世界の中でもトップクラスに位置していました。もっとも、最近ではその生産性の向上のペースは頭打ちの状態になっているのではないかと思われます。実際、1996年頃のデータで、製造業においては日本の100に対してアメリカは180ぐらいという数字になっていました。つまり、生産性はアメリカの半分近くに落ちているということです。というより、この間のアメリカの生産性の改善が著しいということです。
一方、製造業であっても、設計部門などは、生産性とは無関係というスタンスで、今日までやり過ごしてきました。「ソフトウェアの開発ちゅうもんは、こんなもんや」と言わんばかりに、力仕事や遣り直しなどを平気でやってきました。ですから、ソフトウェアの設計部門や開発部門は、最も生産性の低い部門といっても過言ではないでしょう。ハード部門と比べると設計の自由度が大きく、それだけに変動の要因が多いことは確かです。だからこそ、「ソフトェウア・エンジニアリング」というものを確立しようと、世界中で取り組んでいるわけです。その証拠に「ハードウェア・エンジニアリング」という言葉を聞いたことがありません。
この国のGDPは確か500兆円ほどだったと思いますが、私に言わせればその1/3近くは水増しされた数字ではないかと思っています。少々粗っぽいが分かりやすく言えば、やらなくてもいい仕事でかさ上げされた数字だということです。
日本の無駄の象徴としていつも取り上げられるのは道路工事や地下鉄工事などの公共事業の実体です。1ヶ月前に道路の全面鋪装工事が終わったと思ったら、今度は電気工事で同じ場所を掘り返す仕末です。当然、舗装もそこだけやり直すから、折角きれいに張ったのに、そこだけ継ぎはぎになってしまい、その分だけ痛みやすくなる。あるいは、大手の建設会社1社で十分なのに、わざわざ地元の工事会社を参加させる。彼等には何の技術もない。唯の人足提供会社です。横浜の地下鉄(地上部分の)工事では、10キロ余りの工事を何と10数区間に区切って、別々の業者に請け負わせた。これらの状況は。誰が見ても「なんと効率の悪いことを」と思うものです。この非効率な作業に正当な工事代金が支払われているのですから、間違いなく500兆円は水増しです。
でも、これと同じことがソフトウェアの開発現場で目にします。上手くやれば6ヶ月で終わる仕事なのに、最初に要求を確認し損ねたことで何度も遣り直したり、下手な設計がテスト工程でばれて、そこから経験者が参加して改めて設計し直したり、10人でこなすべき仕事を、明らかにスキル不足のエンジニア(?)ばかりで、結局15人も投入するはめに陥り、揚げ句は、サイズをオーバーしたり、期間も2倍に増えてしまう。そこで最初の契約金額だけ払えばいいものを、発注側もリスク管理を怠ったために、「追加料金」として払っているのです。
バグを直しているのかと思ったら、別のバグを埋め込んでしまい、何度も同じような箇所を書き換えてはテストしています。段取りが悪く、工事中にガス管を引っ掛けて破ってしまったようなものです。また、設計がいい加減だったため、最後になってコンポーネント間でI/Fの仕様が合わず、3ヶ月掛けて作り直すようなこともやっています。これって、折角新しい道路を造ったのに、緩いカーブの部分の歩道の幅を一律に確保してしまうという設計ミスをやったため、車道に内輪差の膨らみを確保できずに走行に支障を来たし、慌てて歩道を狭くする工事を遣り直しているようなものです。
秋田県では、第3セクターの建築会社が、欠陥住宅のためにとても人が住めないような住宅を建てていたことが問題になっていますが、これなどもGDPの統計に含まれています。こうして、日本中が無駄な仕事、やらなくてもいい仕事でGDPをかさ上げしているのです。
これがこの国の「経済大国」の実体だとすると、いつまでもこのような状態が続くことはありません。ある時、この国が競争力を持たないことに気付かされるでしょう。コストも品質も納期も、全てが市場の要請を満たさないのですから当然です。そしてそのとき、全ての歯車が逆に回り始めます。正確にいえば、正常な状態に戻ろうとする動きなのですが、それまでいい加減さの上で胡座をかいてきた人たちから見れば「逆回転」に見えるはずです。でもそれが起きなければ、この国は誰からも見向きもされない状態になるでしょう。
6ヶ月で仕上げるべき仕事は、それが出来る人(エンジニア)たちの手に委ねられる可きなのです。マネージメントも含めて、適切なスキルを備えた人たちに任せるるべきなのです。誰でもいい、頭数さえ揃えばいい、という時代は終わったのです。いや、終わらせなければならないのです。
これからは「顧客満足」と「株主満足」の両方を満たさなければなりません。そうでなければ事業そのものが成立しなくなります。特に、隣りの韓国は、完全に「ROE」(株主資本利益率)重視の時代に入ったようで、積極的に株主を意識した経営に切り替わっていくはずです。つまり株主に対して、投資に対する見返りとして納得してもらえる配当を実現しようというのです。もちろん、過渡期には既得権者との間で、厳しい軋轢が発生しますが、それを恐れていては、変革が遅れてしまいます。
今日のアメリカ経済が好調なのは、90年に入って「最も生産性の高い分野への資本の投下」を進めてきたからで、株式市場への投資の形でそれを実現してきました。「市場」がその役を担ってきました。当然、十分な配当が前提条件で、投資家が企業を強くしていくわけです。もちろん、経営者は常に「物を言う株主」の攻勢に晒されることになります。
ただし、日本のように企業間の株の持ち合いが前提となっている状況では、市場原理が正常に働かないかもしれません。そのような状況は「物を言う株主」が居ないために、経営者は楽かも知れません。でも、その分、企業は強くなりませんので、結局は競争の中で破れてしまうことになります。最近は、いわゆる「安定株主」の比率は低下傾向にあるのと、それに替って外国人の比率(日本株保有額)が上昇していて、昨年末で13%を越えたようです。こうなると、「物を言う株主」が増えることになり、企業の経営者も、今までの姿勢のままでは経営はできなくなるでしょう。
いずれにしろ、いままでのような波静かな時代(?)は終わったのです。これからは「顧客満足」と「株主満足」の両方を実現する企業だけが残ることになり、それを支えるマネージャーやエンジニアやスペシャリスト、そしてその可能性のある人たちだけが、そのような組織の中で役割を担うことになります。ですから、このページをご覧の皆さんは、このような時代の変化を読み取って、早く対応してください。次の時代は、単なる「力業」は通用しなくなりますし、第一、命の保証が出来なくなるでしょう。
90年に入っての不況は、これまでのような「循環的」なものではなく、産業の変化、新興国の台頭、外国の企業との分担の変化を伴う構造的なものであるにも関らず、今までと同じ処方箋で対応しようとしてきました。その結果、効果を上げることなく、問題を先送りした形で、7年という時間を空費してしまいました。循環的なものではないことに気付いていると思われるにもかかわらず、既得権者の擁護(保護?)を優先すれば、処方箋を変えることが出来なくなるのでしょう。
こうして問題を先送りしてきた分、問題どうしが絡んで、余計に複雑になってしまうのと、ここに来ての処方の変更によって、今日まで続けられた支援が途切れる部分も出てくるため、ますます決断を鈍らせてしまうのです。あるいは、5年以上も先送りしてきたことの説明が付かなくなることも、方針転換を遅らせているのでしょう。それでも、何時までも先送りし続けることはできないし、景気回復を“祈る”だけで問題が解決するものでもありませんし、実際問題として、今の円安の状況を放置していては、日本経済は、ますます衰退していくばかりですし、第一、それが許されるかどうか。
たとえば、これ以上の円の海外流出を防ぐために、円の金利を上げる可能性がありますが、そうなると、ただでさえ収益性の低い企業は、事業の継続が困難になるでしょう。ある意味では、残るべき企業の選別が行なわれることになります。もちろん、これは長期的にみれば悪いことではないのですが、今日までこの種の「痛み」を避けてきた状況を考えると、どこかで「擁護策」が講じられ、そのような変革の機会を失わせることになるでしょう。それだけ、この国では、事業の体を為していない企業が多すぎるということも出来ます。
あるいは、米国の株式市場への過剰な資金の流入によって過熱気味のニューヨークの株価を調整するためにドルの金利を上げようものなら、その金利差から円は一気に下落する危険があり、そうなると日本国内の企業の活動は大きく制限されてしまうでしょう。もちろん、ドルとの金利差の拡大を抑えるために、円の公定歩合の引上を同時に実施する可能性もありますが、その場合は、上に述べた状況と重なることになります。
また、日本の企業の株の配当が低すぎることで、株主が資金を引き上げる可能性があります。実際、外国人が買っている日本の株式は、ごく一部の「優良株」に限定されています。大部分は「投資」の対象にはなっていません。外為法の改正以降、日本の個人投資家も「配当」を求める傾向が強くなっています。収益を生まない企業による株式の持ち合いも、お互いの株主の圧力によって、解消の方向に向かっています。そうなると、株価の下落によって市場からの資金の調達が困難になります。事業の継続にも支障を来します。これを食い止めるには、企業は一層の「株主満足」を実現するしかないのですが、それには、今までのようないい加減な開発をやっていたのでは通用しません。生産性を上げるために知恵を絞らなくてはなりません。
構造的な円安の要因である企業の収益性の悪さを改善するために、個々の企業で収益性を上げる取り組みが行なわれる必要がありますが、そうなると、生産性の高い仕事の仕方を持たない人は、少なくとも一時的には仕事を失う危険が高くなります。
製造部門の生産性向上の活動は70年台から80年台に盛んに行なわれてきましたが、殆どが「部門」に限定された活動であり、全社的な生産性向上への取り組みは進んでいません。しかしながら世界ではシックスシグマなどの品質や生産性を引き上げるための技法や手法が考案されており、世界的な生産性による競争がすでに始まっています。製造部門に限ることなく、全社的に、あるいはサービス部門も生産性の向上に取り組んでいます。アメリカでは、生産性の向上を目指して、80年代の後半から「前向きのリストラ」に取り組んできており、その達成状況から、日本の企業の製品やサービスが競争に負けてしまう危険があります。いままでの「改善」活動は、国内では通用しても、世界では通用しないということです。
人口構成から見ても、日本国内の消費を支えてきた世代の消費活動のピークは既に過ぎており、次の世代も、その人口構成からみて、それほど大きな規模にはならないでしょう。少なくとも、今のままでは、かっての隆盛を取り戻すことはないでしょう。アメリカが盛んに求めている「内需」を起こす力はないということです。したがって、グローバル経済の今日にあって、事業は、世界に展開することを考える必要があります。国内で通用しても殆ど意味はないのです。アメリカのある投資会社の基準では、中堅企業というのは5億ドルから50億ドルで、5億ドル以下が小企業となっています。つまり、アメリカの基準では年商700億円は小企業なのです。確かに、アメリカの市場は大きいし、その大きさを減退させない政策を執ってきています。
今後10年という時間の中で、韓国を含め、アジアの国々の経済が立ち上がり、中南米の国々も、それぞれに欧米の企業の支援を受けて自国の経済を立ち上げて行くことになります。いままでは、単なる「部品」の供給基地でしかなかったものが、日本を同じ「製品」を供給する能力を手にすることになります。当然、「生産能力」が世界的に過剰な状態に入ることになり、その過程で生産能力の世界的な調整が行なわれることになります。例えば、合併という形で生産設備の整理統合の形をとる場合もあれば、競争に負けた結果、国内での生産自体を中止するという形をとる場合などが考えられます。いずれにしろ、そのゲームに残るに相応しい企業と、それを支えるに相応しい人(エンジニアやマネージャーなど)だけが残ることになります。
2000年に向けて、(素人の)私が考えるだけでも、これだけの大きな変化の「要因」が挙げられます。これらが、全て表面化することはないかも知れませんが、幾つかは「時代の方向」として避けられないものもあるはずです。はっきりしているのは、『生産性の低い企業や組織が存続し続ける合理的理由はない』ということです。そしてそれはとりもなおざず、その生産性の“悪さに貢献”している人たち自身が、そのような事業活動に従事し続ける合理的理由が存在しないことを意味します。