第8条 解説

 一斎は、重職たるもの、仕事が忙しいなどと口にしてはならないというのです。“忙しい”と言うこと自体が恥じだというのです。それは、重職としての本来の役目を果していないことを公言している様なものだからです。

 重職の仕事は“忙しい”状態では果せません。「忙」と言う字は、心を亡くすと書きます。つまり心に有余(=余裕)を亡くした状態が“忙しい”という状態です。これでは大勢を見ることも、機を見ることも出来ません。特に「機」は微妙なものであるのと、「変化点」と言う性格から、継続の中で察知されるもので、日常の姿勢や行動が重要になります。“忙しい”状態では、とても叶いません。

 大分前に、或る雑誌で、通勤途中の電車の中で自社の「管理職」の行動をチェックしているという社長の話しが載っていたことが有ります。その人は、電車の中で新聞を読んでいる人をチェックしているようでしたが、その理由は、電車の中で新聞を読んでいるようでは、会社に入って席についてからその日の行動を思案することになり、これでは出遅れてしまうというのです。

 電車の中で新聞を読む理由の一つは、家で読んでくる時間がないことです。家で新聞を読み、重要なことをメモして電車の中では、その日の行動を思案するというスタイルに持っていくためには、少なくとも30分早く起きなければなりませんが、この社長は、それが出来ないようでは「重職」は勤まらないというのです。実際、それができない人に限って、“忙しい”という言葉を使うものです。

 もう一つ“忙しい”理由は、重職自らが「小事」に手を出していることです。

 重職に就いている人は、概ね以前の役をそれなりにこなした人でもあります。そのため、重職に就いてからも、どうしても以前の役での仕事が目に付くものです。特に、後任の人のもたついているのを目にしたりすると、つい、じれったくなって手を出してしまいます。これが「小事」の始まりの一つです。

 また、そうなると部下に任せると言うことが出来なくなり、部下が自然ともたれ掛かってきてしまい、どんどんと「小事」が膨らむことになります。こうなればもう「大事」など何処かに飛んでいってしまいます。

 重職の大きな役目の一つに、人材を育てるとこが含まれますが、それは「任せる」ことと一体です。

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第9条 解説

 一斎は、刑賞与奪の権限は部下に渡してはならないという。いくら権限の委譲を進めるといっても、委譲するのは業務の遂行に関する判断であり権限に限るべきで、刑罰や報償はもう一段高いところから判断すべきものです。

 また、ここでいう刑賞与奪の権限には、いわゆる「人事権」も含まれています。

 この権限を委譲されても、部下の方が戸惑うでしょうし、場合によっては、間違って使われる可能性もあります。呉々も注意が必要です。

 なお、人事に関して参考までに『西郷南州遺訓』の冒頭に、

「いかに国家に功労があったとしても、その職を任えない人に地位を与えてはならない。地位はそれに相応しい見識を持つ人に与えるべきで、功労には報償で報いるべきである」

と言うのがあります。

 この文の“国家”を“企業”に置換えて差し支えないし、21世紀に入ってもそのまま通用するはずです。従って、社長の給料を越える収入があっても、何の不思議もないはずです。

残念ながら、現実問題としては、“業績”が昇進の条件になっており、その結果、新聞ネタを提供する失態を冒してしまうことも少なくないようです。

 「かの松下幸之助氏に、松下の人事の原理原則を尋ねたら、南州遺訓の一節(前掲)が返ってきた」と、評論家の伊藤肇氏が書いています。例の、世間をあっと言わせた「山下飛び」は、ここから生まれたものかも知れません。

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第10条 解説

 政事に限らず、企業に於けるいろいろな施策にも、事の大小や軽重の区別を見失わないようにしなければならないし、緩急の判断や、施策の後先の順序を間違っては、出来ることも出来なくなってしまいます。

 いつもいつものんびりしていてはいけないし、かと言って急いでばかりでも失敗してしまいます。西田幾多郎氏の言葉に「急ぐということは、すでに間違いを含んでいる」というのが有ります。急がなければならなくなったこと自体が間違いだというのです。もっと常日頃から全体を見渡し、情報を収集し、5年10年先のことを想定して、そのうえで「今」何をすべきかを考え、後先を間違えないように実施していけば、“急ぐ”必要はないのかも知れません。

 3年5年先の展望をもっていなければ、事態の切迫を感じてから行動するか、同業他社の動きを見ての行動ことになります。当然、準備不足のまま急ぐことになり、失敗の確率が高くなることは言うまでもありません。また同業他社の動きは、表面に出た時点でしか分かりませんので、それまでどのような準備をしてきたものか“先後の序”を知る由は有りません。これでは成功するはずはありません。

 それに、実施に際して“手順”はとても重要なのですが、どうもこの国は“手順”を軽く見ている節があります。先に発表された文部省の教育制度改革案も、取り組むべき項目は示されていますが、その順序は全く示されていません。特にこの件は、報道番組で文部省関係者に取り組みの順序について問い質した場面が有り、そのときの答えは、手順は実施の現場に任すと言う返事でした。つまり“手順”について明確な考えを持っていないということです。

 これにたいしてSEI(Software Engineering Institute)と言う組織で考えられたソフトウェア開発組織のプロセス・レベルの改善の取り組み集とも言える「CMM(Capabirity Maturity Model)」では、そのプロセスのレベルに応じた取り組みが提案されています。つまり「先後の序」を重視しているわけです。

 間近に迫った金融ビッグバン、その前に、来年予定されている外為法の改正、あるいは企業会計則の見直しなど、規制の撤廃やルールの改正が、社会全体に与える影響はどうか、自社に於ける影響はどうか、さらには、一転して、どういうチャンスが生まれるか、といったことを常日頃考えておく必要があります。

 思考の3原則に、

  ・長期的に考える

  ・多面的に考える

  ・根本的に考える

というのがあります。

 重職は、この姿勢で、進んで成算を立てる必要があります。

 5年10年先を“不確定な時代”などという言葉で片付けていては、重職は勤まりません。もし、将来をそのようにしか考えられないとすれば、それは歴史に対する姿勢の問題かもしれません。

 戦後、わが国は歴史の教育を一変させてしまいました。さらに受験競争が、歴史を考古学の一つにしてしまいました。その後遺症がこれから、組織の各所で出てきます。特に「文系」「理系」と分けたことで、理系を選んだ人たちに、「歴史」をパスしてきた人が多くいると予想され、その人たちが、技術系の組織のリーダー格に就き始めています。「歴史」を素通りしてきた彼らは果して5年10年先の将来を見ることが出来るかどうか。

 「将来に関する予言者の最善なるものは過去である」というのはバイロンの言葉です。

 将来も、過去と同じように、それは人間が作るものだから。

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第11条 解説

 重職たるものは、心を大きく寛大であることが望まれます。普段は時計の時針のようにゆったりと動けばいい。物事の緩急先後を心得ていれば、それほど難しいものでは有りません。所が、職務に自信が持てないときは、秒針のように動いてしまい、些細なことにも、つい大仰に騒ぎ立て、自らの存在を際立たせようという振舞いに出るものです。

 本人はそれ程意識はしていないのかも知れませんが、普段から焦りの気持ちがあると、つい無意識に強圧的に反応してしまうものです。たとえ事業に必要な能力は持ち合わせていても、これでは誰も付いてきません。重職ひとりが孤立しては、何も成果をあげることは出来ません。

 組織は人の集まりです。人が10人も集まれば、何かと衝突したりするものですが、重職の器量が不足している組織ほど、部下も詰らないことで衝突するものです。ちょっとした行き違いや勘違い、焦りが人の心を尖らせてしまいます。そうして振り上げた矛を収め易くしてあげないと、一度、声を荒げると収まりが付かなくなり、本心ではなかったにも関わらず、その通りに振る舞わざるをえなくなります。所謂、自分で自分を追い込んでしまうということになるのですが、組織は、こういうことの繰り返しで、次第に居心地が悪くなってしまいます。

 「人を容る丶気象」とは、許す範囲を持っているということであり、それは「人」が分かっていてはじめて出来ることでも有ります(「気象」とは気性や気質のことであって、天候の気象では有りません。)。また、「物を蓄る器量」とは、色々なケースに対して対応できる知識や知恵を持ちあわせているということです。

 「人」が分かっていれば、部下の行動が本心か発作的なものか判断がつきます。そうすれば問題の本質も分かり、矛の収め所が分かるものです。大事なことは明日には、昨日の台風が思い出せないような晴天であることです。

 初めから失敗しようと思って仕事をしている人はいないのです。しかしながら、初めから成功するとは思っていないで仕事をしている人は居ます。重職は、これが何に因るものか、知る(気付いている)必要があります。

 はっきりしていることは、ここで言うような器量は、技術書を読んでいるだけでは身に付かないということです。人を知るための書を読むこと、しかも「静独」の状態で、現実の世界と行き来しながら思索を深めることです。ただし書物の中に逃げ込んでも意味は有りません。

 President という言葉は<pre>と<sedeo>の合成で、<前に><座っている>という意味をもっているということです。つまり社長は社員の前に座って、これから進もうとする方向を見据えているのです。これは社長に限ったことではありません。重職はすべて「リーダー」であり、部下の前に居なければなりません。

 <前に座る>ということは、社員と向き合っているのではなく、社員に背中を見せるということです(実際の机の配置は、これと全く逆ですね)。人間、正面を向いているのであれば、顔の表情や手振りを使ったりして取り繕うことが出来ますが、背中は取り繕えません。女優の田中絹代の言葉に「映画の演技の中で、一番難しくて、また味があるのは、カメラに背中を向けての芝居です」というのがあります。

 重職たるもの、これくらいの器量と覚悟が欲しいものです。

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第12条 解説

 この項も、とても重要な内容を含んでいます。

 重職ともなれば、事業の方針や考えにそれなりにしっかりした考えを持っているはずです。それを確信するがゆえに、色々な施策や実施案が産み出されるわけですが、それでも事態の変化の早さや、予想を超えた動きも有りえます。思い入れが過ぎて判断を間違えることもあるでしょう。したがって、少しでも成功の可能性を高め、失敗の危険を減らす工夫は怠るわけには行きません。

 そのためには、心にわだかまりのない状態、すなわち先入観(=先入主)を持たずに人の意見を聞き、もし、間違っていると思ったときは、さっさと方針転換する勇気が必要です。たとえ、自分がその旗を振った場合であっても、沛然と転化できなければこれからの重職は勤まらないでしょう。もちろんそこでは判断ミスに関する責任問題が発生するとしても、それを隠すことによって傷が広がることの方が深刻な事態を招くことになります。そこに躊躇が入るようでは、重職は勤まらないのです。

 大和銀行のアメリカ支店で起きた為替取引の大穴を、10年ものあいだ隠したことによる制裁として、大和銀行は米国から追放されました。住友商事の銅取引の不正では、結局3000億円もの巨額な損失を計上することになり、当時の社長は株主から2000億円もの損害賠償訴訟を起こされています。野村証券も、今は総会屋の親族に供与した分として7,000万円の訴訟が出されているだけですが、このあと、取引停止の制裁によって減収額が確定した段階で、旧経営陣に対して相当な額の株主訴訟が起こされるでしょう。

 これらの現実は、重職たるもの、これからは間違いに気付いたとき、沛然と転化する勇気と度量が必要であることを物語っています。

 沛然と転化した人物の例を一つ紹介します。

 大正12年、時の海軍大臣の任にあった八代六郎大将が、『王陽明の研究』という書について、著者の安岡正篤氏と論争しました。八代氏も王陽明に関しては一家言ある人物だったらしく、簡単には後ろに引きません。夕方から始まって深夜を過ぎても決着せず、結局その場は、八代夫人が夫の健康を気づかって仲裁に入り、水入りとなりました。

 一週間後、八代氏は羽織袴で正装して安岡氏を訪ね、弟子入りを申し入れたのです。時に八代氏63歳、安岡氏26歳。歳は関係ないといっても、この凄まじさには身震いします。

 普通の人なら、負けたと分かっても、相手は26歳の若造です。おそらく無視することでしょう。当座はそれで済むでしょうから。だが、世間は狭いもので、それでは何時も隠れていなければならない。八代大将の優れたところは、自らの主張に誤りがあったと判ったとき、沛然と転化する勇気をもっていたことです。

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第13条 解説

 この項は、少しばかり時代に合わなくなっている部分が有るかも知れませんが、それでも“抑揚”が必要であることは事業においても言えることです。何時もいつも叱咤激励ばかりやっていては、そのうちに利かなくなります。

 弓も、射る瞬間だけ強く引くと言います。ず〜っと強く引き続けていては、弦が鈍ってしまい、肝心なときに強く射ることが出来ないのです。組織もそれと同じで、揚げるところと抑えるところを使い分けなければなりません。

 もし、ここを怠ると、“働いている”という気持ちよりも、“働かされている”という気持ちの方が強くなり、従業員は重職を信用しなくなります。

 逆に、弛めることが出来ないのは、重職が有司をはじめ、従業員を信頼していないからかも知れません。「信頼」は、片方向では成立しません

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第14条 解説

 本書は元々政事の世界について書かれていますが、事業でも大筋は同じです。実際、“事業”といえば何かを“する”ことという意識が強く、ついやらなくてもいいことまでもやってしまいます。

 氾濫の不安のない川に堰をつくってみたり、減反政策で干拓地の需要もないのに干潟を埋めてしまったり、そんなところに“農道空港”など作っても採算が合わないというのに、税金をつぎ込んで「事業」を行おうとする。大規模ニュータウンも、50年後の展望をいい加減にしたため、30年も経たないうちに廃虚の町に化そうとしている。

 重職になったからといって力んでも始まらない。力めば力むほど繕い事をしてしまう。

 私たちは皆、生かされています。重職もいろんな人も生かされて、今その職にあるのです。生かされて生きるということは、自分を無にして他のために何かを通じて己を尽くすことです。自分が今、重職の役にあるのなら、その理由を静かに考えることです。その時代に、自分に期待されているものは何かを聞いてみることです。

 チンギス・ハンの宰相であった耶律楚材の言葉に「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生やすは一事を減らすにしかず」という有名な言葉が有ります。何か、新しいことをする前に、不要な事業、不要な組織を無くす方がよいというのです。まさに行政改革の神髄がここにあるのです。

 このことは事業でも同じで、売上を伸ばすために根拠のない分野に進出するよりも、時代に合わなくなった事業を切り離し、経営効率を高める方が重要な場合もあります。

 GEのジャック・ウェルチがCEOに就任して数年後に、世界が唖然とするようなリストラをやりました。しかも事業ごとのリストラです。ご存知のように、GEという会社はエジソンの発明とともに歩んできた会社です。エジソンの発明を商品にしてきた総合電気メーカーです。そのGEが、照明とエアコンと大型冷蔵庫の事業を除く全ての家電事業を、21世紀に扱うべき事業ではないという理由で工場ごと切り離してしまいました。

 これなどは、まさに「一事を生やすは一事を減らすにしかず」を地で行ったようなものです。それにも関わらず、GEの収益は落ちるどころか増えていったのです。

 意外に、やらなくてもいい事業をやっているのではないか、という気がします。特に、かってその事業を始めた重職が残っていたりすると、なかなか撤退することが出来ずに、撤収の機会を逃してしまうということも多々あるようです。

 老臣の役は、豊かな経験を活かしてチェックすることであり監査です。それが若い重職と一緒になって、虚政に身をやつしてはならないというのですが、意外と多いのではないかと思われます。

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第15条 解説

 「組織は上から腐るもの」―これは昔から言われていることですが、最近の動燃の度重なる失態に対して新聞などのマスコミにも現れました。学校なども校長が代わっただけで、学校全体が変わってしまいます。残念ながら、最近の公立学校の校長は、大過なく定年を迎えることに気を取られ過ぎているのか、それとも、校長としての「器」の問題なのか、教師職員に対してほとんど影響力を見せないようです。教師職員も「校長」をただの「管理職」の長としか見ていないのかもしれません。

 部下を疑い、そこでのやり取りが気になり、色々と手を回してそのやり取りの一部始終を聞き出す。最初から疑っているものだから、それを裏付けるものが見つかるまで止めない。このような組織においては、メンバーが融和していないため、或る人を良く思わない人は必ずいるもので、その人に当たれば、疑いを実証する「事実」は直に手に入ります。ただし、この場合、片側からの「事実」です。

 しかも、上がこの調子なら、下もまた同じように人を疑い蔭事をあばこうとする。だからその種の情報は非常に早く上に伝わる。下にいる人は、上の人が何を期待しているかを知っているからです。それは、子供は、特に言わなくても親の期待するところを知っているのと同じです。どういう行動に喜び、どういう行動に怒るか、ちゃんと知っているのです。だから物分かりのいい子供は、実際は我慢していて非常に疲れていることもあるのですが、意外と親の方は、そのことに気付いていないで、ただ“いい子”としか感じていない。

 このような状況にあっては、いわゆる「本音と建前」の問題が発生するわけです。確かにこの種の問題を完全に無くすことは出来ないかも知れませんが、かと言って、それが当たり前のように居直られても困ります。しかもこのような風儀をもつ組織では、話す場や相手によって、本音と建前を使い分けてきます。こうなると何が主で何が従か見分けるのが難しくなり、事業を進めていくにも支障を来すようになります。

 動燃の度重なる隠蔽問題も、そうすれば上司が喜ぶことを知っているのです。いや、少なくとも、これまでそれで良かったのです。ところが時代が変わって、それが通用しなくなると、上司は掌を返し、そのことに部下は混乱し、判断の規準を失ったのです。

 部下が、本音と建前の両面を使ってくるというのは、重職の判断、行動が公平さを欠いているとこに対する抵抗の姿でもあることを知って、そこから改めなければ、この種の「風」は変わらないでしょう。

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第16条 解説

 これは今風に言えば「情報公開」です。最近は役所も情報公開に動きだしているとはいえ、それは「食糧費」という全体からみればほんの一部に過ぎません。工事の認可や産廃処理場の認可など、認可行政に関する部分は、殆ど公開されていません。一体誰のための行政なのか分からなくなってしまいます。税金を払って、隠されたのでは割に合いません。

 一般の企業も、公開すべきこと、あるいは公開しても構わないことを、株主や従業員などにもっと知らせるべきでしょう。これまで、この国は隠し過ぎましたが、これからは会社の決算書に付ける「特記事項」に“問題なし”と書いて、1年以内に行き詰まるようだと、会計監査人が株主から訴えられるでしょう。もっとも、実際には“投資不適格”とは書けないでしょうから、監査人を降りるという形になるでしょう。それでも結果として決算書が出せないことになり、同じような効果は得られると思われます。

 自分の居る会社や組織がどのような状態になっているのか。自分の働きが、組織にどのような結果をもたらしたのか。他に、誰がどのような仕事をしているのか、といったことも知らされると良いでしょう。それによって新しい道を見出すかも知れません。

 重職は、従業員に“もっと頑張って欲しい”という前に、これからは、必要な情報、有効な情報を知らせることも重要になってきます。

 隠されれば、尚更知りたくなるものです。そのとき、知る方法がなければ悪いほうに想像心を掻き立てられるのです。必要以上に隠すときには、それまでの施策に自信がないことが多いものです。

 「市場原理」はこの隠蔽を嫌います。隠されている間、勝手に想像し、“思惑”で市場は動いてしまいます。ジャパン・プレミアムの問題も、問題の銀行の始末の道筋が明確になったことで収まってきました。この「市場性」は、何も株式市場などの市場に限ったことではありません。「市場性」を求める人が増えたから、株式市場が反応し、迅速な行動を促したのです。当然、この「市場性」を求める声は、他の場面にも顔を現わします。

 原発問題や、産廃施設問題に関連しての住民投票の要求の動き、あるいは市民オンブズマンや、有司の人たちによる地方自治体の「食糧費」の公開請求の動きなども、「市場性」を求める人々の動きに支えられたもので、これは一つの「大勢」です。

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第17条 解説

 組織の変更や人事の移動などがおこなわれる目的の一つが「人心を一新」することにあります。もちろん、人心の一新は、必ず人事の移動を伴わなければならない訳ではありません。会社の理念や施策を変えることによっても実現できますが、実際問題として、その場合、昨日までの方針や施策を反省し、新しい方針を打ち出すわけですから、当然、重職はじめ関係者の考え方が変わっていなければなりません。

 時には、昨日までと全く違うことを言わなければならないわけですから、重職ともなれば、その立場からメンツが邪魔をしてしまいます。そうなると、今までの方針や施策も間違っていないけれども、などと正当化しようという行動に出てしまい、却って事態を悪くします。

 国の組閣の際にも「人心一新を図って・・」という言葉が使われますが、よく聞いてみると、そこで使われている一新したい「人心」とは、自分たちのことであって、国民のことではありません。つまり、“順番を待っている人もいるので”ここらで「顔ぶれを一新して・・」という意味で使われているようです。本来、この「人心」というのは国民であり、企業であれば、社員、従業員の「心」のことです。

 人心を一新するために、今までの事を反省し、新しいルールや新しい刑償の基準を明らかにし、そのうえで、自分たちの向かう目標を設定し、しかも、そこに向かうための取り組みも分かりやすく示すのです。従業員の気持ちを一新して、“今度は今までと違うようだ”“さぁ、始めよう!”という気持ちにさせることが、「人心を一新」することです。

 特に、「刑償」に関しては明快な基準が公になっていることが重要です。そうでなければ、何事に於いても不公平に見えてしまうものです。自分が報償を受ける場合は気にならなくとも、そうでない場合は、彼我の「差」がどこにあるのか、なかなか見えないものです(というより、差はないと思っているから見えないのですが・・・)。その結果、人心を昂揚させるための報償制度が逆目に出てしまうことがあります。

 また、企業の財政が逼迫しているからといって、手当たり次第に“ムダ”と思しきものを剥ぎ落とし、ただただ細かいことばかり言っていたのでは、そこにいる人たちは自分の足元ばかり気にするようになり、誰も顔を上げて「明日」を見る余裕を失ってしまいます。

 ムダを省くことばかりに気を取られるのではなく、同時に“発揚歓欣”することを考えなければ、組織をスリム化したつもりが、明日の道筋を細らせてしまうことになります。いわゆる“リストラ”の難しいところで、何を締め、何を弛める(拡げる)か、まさに重職の器量が問われる場面です。ここを間違えれば「人心一新」とは180度逆方向になってしまいます。

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