「重職心得箇条」は、江戸時代の陽明学者である佐藤一斎(1772〜1859)が、自藩(美濃岩村藩)の重役たちのために著したものです。藩の重職についての心構えや目の付け所など、実に見事な指摘が十七箇条で構成されています。云うまでもなく聖徳太子の十七条憲法を意識したもので、藩の憲法という意味でもあります。
確かに200年前に書かれたもので、その中の用語は、時代を感じさせる言葉が使われていますが、幾つかの用語を現代風に読み替えれば、その内容は今日でもそのまま通用するものです。
たとえば“重職”という言葉を、そのまま“重役”と読んでもいいでしょうし、もう少し範囲を広げて“マネージャー”と読んでもいいでしょう。
戦後、この種の“古いもの”は、悉く排斥されてきました。“今はそんな時代ではない”と云わんばかりに、この国は日本古来のものを捨て去りました。しかしながらその結果は、今日の行き詰まりです。この行き詰まりの原因は、人としてやってはならないことを見失ったことにあります。言い換えれば重職が重職たる役目を果さなかったところにあります。実際、この17箇条の悉くに反しているマネージャーや重役も居るはずです。そうでなければ、銀行だってここまで行き詰まることはないはずですし、一般の企業も、“ビッグバン”を前にしてここまでオロオロすることはないはずですし、そこにいる人たちがこれ程まで悲観的になる必要はないのです。
不正を隠した結果巨額の損失を出した経営者。援助交際や“たまごっち”で世界の笑い者になった日本の中年ビジネスマン。世界が“グローバル”をキーワードに大きく動いている中で、何をやっていいか分からない人たち。そんな中で、病気の解明もしないまま、ひたすら処方箋と抗生物質を欲しがる人たち。彼らは、何をすればいいのかという前に、何をしてはいけないのかということを本気で考える必要はないだろうか。
「重職心得箇条」が“古い”かどうか、今ベストセラーの『7つの習慣』を読んだ人には分かるはずです。そこで言っていることは同じだということを。
今、激動の時代にあって、マネージャーの有るべき姿が問われています。今一度、この「重職心得箇条」を読んでみて下さい。そこには新鮮な驚きと、取るべき行動が見えてくるはずです。
ただ、「重職心得箇条」は、その時々の立場で何度でも読み返して欲しいものです。今、このホームページで、これを読んでくれている皆さんは、コンピュータを縦横無尽に駆使し、“情報”を素早くキャッチする“術”に長けた人と思います。しかしながら、この「重職心得箇条」の解説は、そのような“情報”とは異質のものです。“このホームページにそのようなものがある”というのは“情報”ですが、その内容は情報ではありません。その違いを認識していただいた上で、このページを読んで頂ければ、私にとっても大いに悦びとするところです。
この解説を試みるにあたって、『佐藤一斎 「重職心得箇条」を読む』(安岡正篤、致知出版社 ISBN4-88474-360-1)を参考にしています。特に時代的背景に関しては、概ねこの本を参考にしました。
また、原文の読み仮名、送り仮名はできるだけ原文に従いましたが、一部、どうしても読みづらいところは現代風に直しました。漢字の読み仮名は特殊なものを除いて付けていません。出来るだけご自分で辞書を引くなりして読んで下さい。その工夫や苦労も、この心得を会得する上で必要なものです。
なお、この解説では、「重職」という言葉を、殆どの場合、そのまま使用しています。私としては、「重職」を重役や役員に限定せずに、もう少し広く、マネージャー(部長や課長に相当?)やリーダーにも広げて適応したいと考えるからです。したがって、読み手である皆さんが、「重職」をご自分の立場や、読まれる目的にあわせて読み替えてくださることを期待します。
その他の参考文献:
「人間学」 伊藤肇 著、 PHP文庫
「宋名臣言行録」 諸橋徹次、原田種成 著、 明徳出版
「幽翁」 西川正治郎 著、 図書出版
「安岡正篤先生随行録」 林繁之 著、 致知出版
「人間の生き方」 安岡正篤 著、 黎明書房
重職(重役)というのは、国でも企業でも、大事を取り扱うことが仕事です。そうでなければ「重」という字を冠に載せる必要はありません。だから軽々に行動されては宜しくないのは言うまでもありません。親しみを持っての行動と、軽々な行動とは自ずと違うのものです。社員に親しみを感じるのはいいとしても、重職の一つの決定の誤りが、社員全員を路頭に迷わせ、株主や取引先に迷惑をかけるとなると、その言動は自ずと重厚でなければならないし、威厳を伴っていなければなりません。
威厳は威張る為に必要なわけでは有りません。重大な決定をするために必要なのです。これが備わっていなければ、決定の重大さに押しつぶされてしまうからです。威厳は普段、何を考えているかによっても身に付いてきます。それは“立っている処”の差でもあります。重職としての己の役割をわきまえ、日々それに相応しいことを考え行動していれば、威厳は身に付いてくるはずです。こうした備えがなければ、自らの責任で重大な決定はできないでしょうから、どうしても、“会議”で決めたがるはずです。
深沈厚重(しんちんじゅうこう)ナルハ是レ第一等ノ資質
磊落豪雄(らいらくごうゆう)ナルハ是レ第二等ノ資質
聡明才弁(そうめいさいべん)ナルハ是レ第三等ノ資質
これは『呻吟語』(呂新吾)の中に出てくる人間の魅力の段階です。注意して欲しいのは、呂新吾に言わせれば、頭の切れるのは第三等だと言うことです。
ところで「名を正す」とは、その役に相応しい振舞いを明らかにすることです。重職とは何を為すべき役回りなのかを明確にすることです。当然、瑣末な仕事をすることが役目ではありません。
重職が小事にかかわり、瑣末を省けない理由の一つは、「名を正す」ことを怠っていることもその一因です。そのような組織では、「重職」に限らず、マネージャー職全般に「名」が正されていません。そのため、名刺の上にこそ「マネージャー」とか、それなりの役職名が被せられていても、その振舞いは以前の役目と何ら変わらないということになるのです。その結果、役職が変わる(上がる)ことが、単に給料の増加に繋がる条件に過ぎなくなってしまうのです。
大事を見通し、人心をつかみ、物事を鎮定するという本来の役目は何処かへ追いやられ、馴れ親しんだ今までの仕事を持ち込み、瑣末なことに首を突っ込んでしまうのです。これでは「重職」は勤まらないのは言うまでもありません。
威厳を養うと言っても、人間であることを放棄することを求めるものではありません。人間であることの証は、突き詰めれば、喜怒哀楽に尽きます。喜ぶときはみんなと一緒に喜べばいい。怒るときは壁も破れんばかりに怒ればいい。部下の哀しみに一緒に哀しみ、部下の楽しみを一緒に楽しめばいい。これを失っては正しい意味での威厳は成立しません。ただ、違うことは、そのうえに「重職」の役目があるということです。その認識さえあれば、部下より先に楽しむようなことはしないでしょう。
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