庵主の日記2

2003年5月24日 甚だしい責任転嫁

 公的資金の注入が決った「りそな」が、従業員全員のこの夏のボーナスを全額カットするという。政府に提出する「経営健全化計画」に盛り込んで、印象を良くしようというのだろうが、私に言わせれば、経営陣の責任を従業員に転嫁しているとしか言えない。従業員も、世間やマスコミの視線に晒されているのでこの提案を受け入れるだろうが、はたして納得してのことか。

 日本の銀行の公的資金の注入のやり方は異常としか思えない。最初の公的資金の注入の時点で、役員の報酬は、年額で実質的に「無給」とすべきであった。それをせずに、彼らは当然という顔をして役員報酬を取ってきた。つまり、彼らは公的資金(=税金)を自らの報酬にしたのであるが、このことにも気付いていないのだろうか。気付いていたとすれば甚だしい厚顔と言わざるを得ない。今回、退任するにあたって、旧経営陣は公的資金の注入以降に受け取った役員報酬を全額返上すべきである。それが、せめてもの倫理を取り戻す手立てであろう。

 結局、公的資金の注入は、彼らにとっては一時の恥に過ぎず、経営責任も問われないこともあって、本来の改革は進まなかった。いや、改革の能力すら無かったのではないか。ただ、潰されないために図体を大きくしただけであり、見栄を張ったシステムの統合という余計な経費をかけただけである。3月1日に高い金をかけた新システムがようやく稼働し、3月末には資本不足を回避するために資本金の増資を行ったばかりで、その2ヶ月後に公的資金の注入という始末である。本来なら違法行為である。いったい、どこを見て経営してきたのか。揚げ句の果てに、自分たちの経営の失敗を「行員全員」の責任に転嫁して、矛先をかわそうとしているようにみえる。今すぐにでも、役員の報酬を実質無給(ボーナスを含むのは当然)にすべきだし、再注入時の取締役は、その役を果さなかったのだから全員退任すべきである。

 それよりも大きな問題は、今回の「りそな」の公的資金の注入は、日本の資本主義を大きくゆがめてしまうことになるという危険である。銀行に対する数度の公的資金の注入にあたっては、一度も経営責任が問われていないし、役員報酬も以前のままである(多少減額したかもしれないが)。取締役や監査役もその責務を果さなかったことが問われていない。唯一、監査法人だけが姿勢を変えて、本来の姿に戻ろうとした。

 そして一番問題なのは、株主責任が問われていないことである。資本主義は、株主の有限責任で成り立っている。本来なら、公的資金を注入する前に、その時点での資本金を使って債務を弁済し、少しでもきれいな身体になってから新しく資本の注入を受け入れるべきである。つまり一旦は「減資」し(この時点で、以前の株券は紙くず同然となるかもしれない)、そのあとで「増資」すべきである。そうすることで、以前の株主は「株主責任」を果すのである。株主は、取締役を通じて経営を監視する責任があるのだ。

 今回は、こういった資本主義のルールをすべて無視した。「緊急事態」だからということで目を瞑った。株主責任を問おうとすると、前回の公的資本注入によって政府自体が株主となっているために、先の注入分が「パー」になってしまうからか。株主責任が問われないのなら、銀行の株主は黙っていればよいことになる。そうすればいずれ公的資金が注入されて、「株」は息を吹き返すかもしれない。これでは「資本主義」が機能しないだろう。

 いずれにしろ、ここ(少なくとも銀行を取り巻く環境)には資本主義のルールが存在ないことが示された。政府も「破綻ではなく再生」だという詭弁を使って、歪んだ論理を支援する始末である。「再生」なら、もっと早くすべきである。この状況をみて「日本の資本主義は蒸発した」というのは言い過ぎだろうか。蜃気楼を見た思いがする。